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第四十話 風化する痛み

 骨が脆くなったマリオネットの関節のように錆びて軋むように、チリチリと痛みが骨の中でうごめいていた。頭は水が溜まって大きく腫れあがっているかのように重く、脳の奥で鈍痛が暴れ回っている。体内の粘膜はどこも腫れ上がり、体内にいる異物を追い出そうと体液が溢れ出る。

「インフルだな。それもA型だ。つらいだろうが、3日もすればかなり楽になる」

 小町はそう言うと、アキラの額に熱さましシートを張った。

「矛盾らに伝染する事はほとんど無いが、一応一週間は部屋に籠っててくれ。薬は摂取するとき私が持っていく」

「ぁ……ありがどうございまず……」

「すげぇ鼻声だな」

 工は笑いながら立ち上がるアキラを支えた。

「すいません……こんな時季外れの時に」

「いや、インフルはいつでもなるもんだよ。流行ってるときはかかる率が高いだけで、たまたま今回お前が流行の最先端を行っただけ」

「そんな、ファッションや音楽みたいに言わないでくださいよ……」

「そんだけ面白いこと言えるなら大丈夫だ」

 アキラを部屋に入れてベッドに寝かせ、

「俺、丁度今はバイトしか仕事してないから、世話は俺がする。禊は帰ってきたら、夜とか担当してくれるってよ」

「すいません、本当に……」

「いいから。お前家政夫なんだろ? 早く治して家の仕事してくれよな」

「すいません……」

 工はこんもり布団や毛布を掛けて、そっと部屋を出た。

 昼近くなり、工がおかゆを作っていた。そこへ玄関の音が聞こえてきた。

「こんにちはー」

「あれ、あぐりちゃん! どうしたの、土曜は塾でしょ?」

「月末休校。それに、入試近いからちょっと息抜きに来た」

「え、もう入試? 今は早いんだなぁ」

「AOだよ。私ね、俳優になるんだ」

 あぐりが悪戯に微笑むと、工は驚きの声を上げた。

「すご! え、何か目指してるものとかあるの?」

「んー、そこそこ有名な俳優になれれば十分かな。有名になりたいんじゃなくて、演じるのが楽しいだけだし」

「すごいね~」

「でもさー、AOね、面接あるんだよ。何聞かれるんだろう。願書も何度も書き直したんだよ。おとうさんは十分だって言ってたんだけど、担任に見せたら全部書き直せって。提出まで3日なのに!」

「え、無理でしょ」

「1か月かけてやっとここまで書き上げたのに、それをたった3日で書き直せって! マジクソじゃん。あとね、担任最低なのがね、三者面談の時に『俳優なんてバカみたいな夢見てないでまともな夢持て』みたいなことを言ったんだよ」

「え、それ担任としてやばくない? 担任がそれ言っちゃダメでしょ」

「私その時眠くてあんまり覚えてないんだけど、おとうさんがきちんと覚えてて。家帰ってからぶちぎれて教育委員会に電話しようとしてたよ」

「千歳怖い」

 工は朗らかに微笑む千歳を思い出して、そのギャップに笑い出した。

「だから、担任に期待するのやめた。塾の先生にも相談したら、国語の先生に願書見せると、どうでもいい文法や言葉遣いばかりネチネチ訂正してくるからやめておけって言ってた」

「まだ高校生なんだし、大学側もそんな高度な文章力求めてないよ。内容が詰まっててちゃんと通じれば十分だよ」

「でもね、願書は色んな人に見てもらえって言われたんだけど、担任と塾の先生と顧問とおとうさんと、みんなバラバラなこと言って、右って言うから右に直したら、別の人は右にするのはバカだ、とか言うの。もうどれにしたらいいかわかんないよ」

 あぐりは大きなため息をついた。工は困った様子で微笑んでいると、

「俺、大学入試まともにやったことないからわからないけど。自分が正しいと思った意見に従ったら? 右はバカとか言われても、自分は右だと思うなら右にすればいいし。なんだろう、信用できる人の意見を聞く、とか」

「じゃあ担任の意見は全部無しだね! よし、吹っ切れた!」

 あぐりはそう言って手を叩くと、カバンの中から原稿用紙を取り出し、それを手で破いてゴミ箱に捨てた。

「えぇ!? いやでも、担任国語の先生でしょ? 作文なら担任の方が……」

「それ以前に、私の夢を馬鹿にする人なんか信用したくないし。三年の担任として一番言ってはいけない事言ったんだよ?」

 困惑する工を一切気にもせず、あぐりはスッキリした表情でソファーに座った。

「ところで、工は何してるの?」

「ん、おかゆ作ってる」

「へー、今日のお昼はおかゆなんだ」

「いや、俺はラーメン食べるよ」

「え、じゃあそれは誰が食べるの?」

「アキラ」

「おじさん風邪ひいたの?」

「インフルだって、A型。あ、あぐりちゃんは入試前だから近づいちゃダメだよ!」

「わかってるよ。良好な体調で挑みたいもん。高校入試の時はお腹の調子悪かったからさ~」

 ソファーの上に足を放り投げ、

「そうだ、禊さんは?」

「撮影。近々始まるドラマに出演するんだってよ。それのエンディング曲にアーミューズチームLMの合同楽曲が使われるんだって」

「へー、今度は俳優デビューか! 録画しとこ」

「宵彦さんも出るってよ」

「視聴率爆上げじゃん!」

「ねー、楽しみだよね」

 工は鍋の中を覗き、おかゆの具合を確認すると、火を止めてお椀に注いでお盆に並べると、それを持ってアキラの部屋に向かった。

「おっさーん、飯だぞ。食えるか?」

 特に応答はなく、部屋は誰もいないようにしんとしていた。お盆を机の上に置き、布団と毛布を剥がしていって中のアキラを確認する。

「おっさん、生きてる?」

 アキラは唸り声を上げながら首を動かした。

「飯できたけど、食う?」

 アキラは眩しそうに顔をしかめて頷く。ゆっくり起き上がり、ベッドの上で背を丸め正座してお椀を両手で抱える。

「おっさん、眺めてるだけじゃ食えねぇぞ」

 工はお椀を取り上げ、スプーンにすくってアキラの口に運んだ。

「熱いか? まずくないか?」

 アキラは特に何も言わなかったが、目を瞑ったまま咀嚼していた。一通りお椀いっぱいのおかゆを食べ終え、またベッドの中で丸くなって寝始める。

「何かあったらこのベル鳴らしてくれ。ここに置いておくからな」

 工は小さなベルを一つ枕元に置き、お盆を持って部屋からそっと出た。そこへ入れ替わるように小町がやって来て、労わる様子もなく勢いよくドアを開けた。

「アキラ、薬だ。起きろ」

「小町さん、もっと優しく……!」

「たかがインフルだろ」

「されどインフルなんですから……!」

 それでも小町は労わる様子はなく、布団を勢いよく引き剥がした。膝を抱え込んだうつぶせの、土下座の恰好で両手を頭上に伸ばした状態で寝ていた。

「おっさん、どういう恰好で寝てんの……」

 工はクスクスと笑いだす。

「アキラ、薬だ。摂取方法の説明をするから起きろ」

 小町が腕を掴んで起き上がらせようとすると、

「すいません……本当に、勘弁してください……なんでもしますから」

「言ったな? じゃあ起きろ」

「お願いです、クビだけは……!」

「インフルごときでクビにはしない。されたくなかったら起きろ!」

「本当に、大変申し訳ありません……はい、全部僕のせいなんです……すいません……納期伸ばしてください」

「納期は今だ! さっさと起きろ!」

「小町さん、アキラ、うなされてるだけですよ」

「は?」

 どうにか起こし、薬の説明をする。

「吸い込んだ後、10秒は息を止めろ。吐きだしたらその分が無駄になるからな」

「はい、はい……重々承知でございます……」

「アキラ、お前はもう社畜じゃないんだから」

 薬を吸い込み、鼻と口を手で押さえて息を止める。そして10秒経ち、アキラは小さく咳き込む。小町はアキラを少し診て、

「次は夕食後に来るから」

「小町さん、医者だったんですね」

「アークィヴンシャラ唯一の医者だ」

「免許は?」

「切れてる」

「大丈夫なんですかそれ!?」

「嘘だよ」

「もっと優しい冗談にしてくださいよ……」

 二人は話しながら部屋を出て行った。


 誰かの咳が聞こえた。自分とは真反対の、可愛らしい声だった。だけど擦れていて、鼻をすすっていた。水の音もした。床が濡れているのか、濡れた上を歩く音がした。小さなため息が聞こえた。月光が差し込み、音が見えてきた。細く痩せた身体に花を咲き誇らせた少女が、震える腕で体を起こしてこちらを見た。大きな臙脂色の目に、学生服の自分が見えた。自分の格好に違和感を感じ、自分の身体を触ろうとした時、手のひらに何かついていた。白く濁った、粘りのある物だった。それが何なのか理解した途端、自分自身に嫌悪感を感じた。自分がこの体の中にいる事、この脳ミソを持っていることが、反吐が出るほど嫌に感じた。

 臙脂色の目を見つめ返す。すると目は強くこちらを睨み、唇を噛んで、

『死んじゃえ!! みんなみんなみんな!! 私を食う男も私を嘲る女も私を育てる大人も耳障りな子供も役立たずの年寄りも!! みんな死んじゃえ!! 無駄な期待してた気持ち悪い私はもっと死んじゃえ!! 死んじゃえ死んじゃえ!! 死ねぇ!!!!』

 唾を飛ばして叫び出した。驚いて逃げようとしたが、足に感覚が一切なく、動かそうとしているのに脳が足を認識できなかった。

『君の家の前で死ぬから』

 顔を上げると、目の前に人影が立っていた。花の咲いた体からは人間の匂いが立ち込め、生臭い匂いに胃の中身が込み上げてきた。

「……ご、ごめ……ご、んな、さ……」

 謝らなければならないと思った。今すぐ死なないといけないと思った。理由なんて無い、そうしなければならないという理由しかなかった。自分の首を掴んで指を食い込ませる。はやく、はやく息の根を止めないと。今すぐ死なないと。

『――お前の刑期は終わってない。私が苦しんだようにお前も生きて苦しめ――!』

 消されたテレビのように、目の前の事がぷっつりと消えた。ただ熱い暗闇を感じるばかりだった。息苦しさから逃れようと、てで辺りを探る。そして顔を上げると、冷気が前から吹いてきた。肺の中が新鮮な空気に潤っていく。

「……夢……?」

 頭はまだグワングワン言っており、酷く重かった。そのまま横に倒れると、頭に綿の良く詰まったクッションがいた。こんなところに枕が移動していたのかと思い、手を伸ばして引き寄せようとしたが、どうにも動く気配が無かった。おかしいと思い目を開けると、目の前に真尋の顔があった。

 アキラは声にならない叫びを上げて、転がるように真尋から離れた。

「落ち着いて」

 真尋はそう言ってアキラを引っ張り寄せた。

「ごごごごめんなさい……あの、インフルなんで、移っちゃうと……!」

「大丈夫だよ、矛盾だから。汗かいたでしょ、拭いてあげようか?」

 アキラの喉の奥から唾を飲む音がよく聞こえた。真尋が手を伸ばすと、アキラは触れないよう距離を置く。

「まぁ、それだけ元気なら自分でできるでしょ。お湯も冷めちゃったけど、ここ置いてあるから」

 机の上を指さした。

「ありがとうございます……」

 お礼を言おうと頭を下げると、頭の重みでベッドに倒れた。

「その調子じゃ、まだ無理か」

 真尋はアキラの頭を撫でると、隣に頭を置いて顔を近づけた。

「君、寝る時いつも膝を抱えて寝るよね、写真でもそうだったよ。お腹の中の赤ちゃんみたいに」

「この方が、落ち着くから……」

「かわい」

 真尋はクスクスと笑うと、アキラの髪に指を通し、

「君だったら、良かったのかな……」

 自分に問いかけるようにつぶやき、額を当てた。そして小さく頷くと、

「まだ熱高いね。おやすみ」

 アキラの頭を撫でて静かに部屋を出た。アキラは鈍痛の響く頭にわずかに残った真尋の触れた感覚を噛みしめ、熱で熱いのかわからない体の熱をじっと感じた。

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