第三十八話 夏だ! 海だ!! 宴だワッショイ!!!!(後編)
円香が宿の中を女将さんと案内する。
「ここの旅館は私の家が経営してた旅館で働いていた人が立ち上げてね。今では系列になって全国にいくつか旅館を置くほどにまでなったんだよ。まぁ、私の家は畳んじゃったけどね」
「主人からうかがっております。修行していた旅館が廃れて畳まれてしまったと聞いて、大変嘆いておりました」
「でもその後、私の家の系列の旅館を買い取ってくれてね。おかげで従業員を助けることができたんだ」
「あの時、円香様の御宿がうちに入ってくれたおかげで、うちはこうして系列を営めているんです」
「いやいや、こちらこそ」
それぞれ数人の班に分かれ、案内された部屋に入った。
禊が部屋に入り、電気をつける。こぢんまりとした和室は畳の優しい香りで包まれていた。
「いいお部屋ですね!」
忍が後ろから顔を覗かせた。
「さ、荷物置こうぜ」
二人は荷物を置いて部屋を見渡す。
「そう言えば、一班3人ほどでしたよね。もう一人は誰ですか?」
忍が訪ねると、禊は苦い顔をした。
「禊さん?」
何かに気付いた忍は青い顔をひきつらせた。
「まさか……!」
「禊やったね! 今晩は楽しもうね!」
嫌好が荷物を放り投げて禊に抱き着いた。
「僕が真ん中で寝るからな! なんと言おうが絶対真ん中だからな!」
「何だよ、寂しいのか?」
「えぇ寂しいよ!」
「忍……俺、廊下で寝る」
禊は酷く疲れた顔で言った。
「なら僕の布団で!」
「はぁ!? 禊は俺の布団で寝るの! ね、禊?」
「だったら小町の部屋の押入れで寝るよ……班員、言葉とマーサだし」
「ダメ! 俺と寝る!」
「ぜってぇさせねぇぞ変態タコ!!」
忍は嫌好の胸ぐらをつかんで揺すった。
宵彦とニヴェは手を繋いで海辺を歩いていた。
「もう、結構日も傾いて、ちょっと暗いですね」
ニヴェは不安そうに、そう声をかけた。だが宵彦は何も答えなかった。
「あの、宵彦さん?」
ニヴェが立ち止まると、宵彦も立ち止まった。
「見せたいものって何ですか? 夕日とかでしたか? もう薄暗くなっちゃいましたし、ご飯の時間も近いですから……私、宵彦さんのその気持ちだけでも十分嬉しいですよ」
ニヴェは優しく背中に微笑みかけた。
宵彦はゆっくり顔を上げると、空を見上げ、
「月が綺麗ですね」
そっと呟いて微笑んだ横顔を見せた。ニヴェも空を見上げ、
「そうですね」
頬を染めて答えた。ふと、空が宵彦の肩にかけていた衣の様に宵の空であることに気付いた。
「綺麗な宵の空ですね。ほら、宵彦さん。あれって明星じゃないですか?」
「そうですね。私の星です」
「私の星って、なんだか素敵ですね」
ニヴェは嬉しそうに言うと、波際に立って足を波につけた。
「宵の海もいいですね。宵彦さんが見せたかったものってこれですか?」
ニヴェが振り返ると、目の前に跪いた宵彦が目に入った。
「よ、宵彦さん?」
宵彦はズボンのポケットから手のひらほどの小さい黒いケースを取り出した。ニヴェはすぐにそれが何なのか理解した。だが恥ずかしさを紛らせようと、
「そ、そういえば宵彦さん誕生日近いですもんね! でも、私がもらっても……」
「ニヴェさん、初めて出会った日を覚えてますか?」
「学生の頃、楔荘の門で雨宿りしていた時でしたね……」
「最初は嫌な女だなとか思ってしまいましたけど、でも、貴女の周りとは違うその凛とした姿に、私は心を奪われました」
ニヴェは頬を染めて胸の前で手を組んだ。
「私たち矛盾は、自分の時間を過ごすために永遠の命を手に入れました。それは誰にも邪魔する事も終わらせることもできません。ですがどうか、貴女のその時間に、私が一緒に流れる事を許してください」
宵彦はそっとケースを開けた。その中でダイヤの石を持った指輪が薄明りの中で煌めいていた。ニヴェは口元を手で押さえると、
「宵彦さんは、もっと強欲でしたよ。そんな謙虚でいいんですか? 私、結構自由な女ですから、ふらっとどこかへ飛んで行っちゃうかもしれません。ちゃんと捕まえないと……」
宵彦は立ち上がると、ニヴェを強く抱きしめて、
「結婚してくれ、ニヴェ……!」
強く、静かに言った。ニヴェは目に涙をため、
「うん……! 私も、宵彦さんと一緒に時間を過ごしたい」
宵彦の広い背中に腕を回した。
宵の空を背に、2人は深く熱いキスを交わした。
宴会会場の前でみんなが待っていた所に、宵彦がニヴェを連れてやって来た。
「すいません、遅くなって」
「いや、みんな来たばかりだから」
禊がそう言うと、肩に手を置いた。宵彦はゆっくり深く頷くと、
「良かったな」
まるで自分の事のように照れながらも嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「いや、いいよ。でもなんか、ふふふ、俺、独り身なのにな」
「何言ってるんですか、禊さんにはニーアさんがいるでしょう?」
「ニーアねぇ、ニーア……うん……」
途端に禊は落ち込み始めた。
「禊さん!?」
「おい宵彦ー、お前禊に何言ったんだよー」
尊が肩を落とす禊に寄り添った。
「宵彦てめぇ……!」
嫌好が瞳孔開かせて顔を迫らせてきた。そこへ忍が走って来て急いで嫌好を下げた。
準備が整い、宴会場で食事が始まる。
「すごいよ、小さい机に料理が乗ってる!」
美友が興味津々に御膳台を見た。すると李冴が、
「これは御膳台って言うんだよ」
「詳しいのね」
「日本の文化、好きだったから」
李冴は照れくさそうに肩をすぼめた。
レオは訝し気に御膳を睨みつけていた。
「どうした、ゲテモノは入ってないよ」
禊がそう言って笑うと、
「日本食って慣れないんだよ。味薄いし、よくわからない触感とか匂いするし」
「ほら、これとかどうだ。高野豆腐だぞ」
「水吸ったスポンジみたい……」
そこへ食事が終わり、焼酎の徳利とお猪口を持った工がやって来た。
「禊さ~ん、いかがです~?」
「お前もう食い終わったのか。ちゃんと噛んだのか?」
「和食はすぐ食べ終わっちゃうんですよ」
工にお猪口を渡され、禊は一杯だけ頂いた。数口に分けてチビチビと飲んでいく。
大人たちは次々と酒を頼んでいく。アキラの元にも缶ビールが一本渡された。
「おじさんも飲むの?」
あぐりが興味津々でやって来た。
「あ、あぁ、少しだけ」
「ビールって美味しい?」
「いや、あんまり……まだお茶の方がいいかな」
「甘いの? 新造……おとうさんの弟が家でよく飲むからね、味見させてって頼むんだけど、おとうさんが絶対ダメって怒る」
「いや、苦いよ。炭酸水って少し苦いだろう?」
「苦い……ね」
「あの苦さが増した感じ。解らなかったら、ゴーヤだと思えばいいよ」
「えー、そんなに苦いの!? なのに美味しいって?」
「まぁ、ゴーヤが美味しいと思えばビールも美味しいんだと思うよ」
アキラは一口、ぐびりと音を立てて飲んだ。
「おじさんはゴーヤ食べれる?」
「いや、あんまり食べないから……」
「私、ゴーヤよりヘチマが好き。ひいばあばが夏にお味噌汁に入れてくれるんだよ」
「そうなんだ」
アキラはまた一口飲んで、アーサーに話しかけられて話始めた。
ニヴェが楽しそうに焼酎に舌鼓を打っていると、
「どう、美味しいでしょ?」
円香が悪戯な笑みを浮かべて話しかけてきた。
「美味しいです。すごい甘くて滑らかだから飲みやすいです」
「でしょー? ニヴェちゃん、わかる人だねー」
円香は両手で指さすと、持ってきた別の焼酎をグラスに注いだ。
「これはね、私の故郷で最近作られたの。味は薄くて優しいけど、ガツンと香りが広がるでしょ」
「本当だ……! うわ、匂いがこう、鼻から吹き出ますね」
「いい例えだね!」
ニヴェと円香は楽しそうに手を叩いて笑った。そこへ美紗がやって来て、不思議そうにニヴェの左手を眺めた。
「きやきや」
そう言って指輪を指でつついた。
「フフ、綺麗でしょー」
「うん!」
すると李冴も気づいてやって来て、
「ニヴェさん、その指輪どうしたんですか?」
「えー、その、宵彦さんからもらったんだけど……」
ニヴェは恥ずかしそうに、どうごまかそうか考えた。すると李冴が手を叩き、
「それ、婚約指輪ですね!」
「えっ、ちょ、李冴ちゃん声が大きい……!」
ニヴェは慌てて手を伸ばす。すると後ろから腕が伸びてきて、ニヴェをそっと抱き寄せて包み込んだ。李冴は口元を押さえて頬を染めた。何事かとニヴェが顔を上げると、
「もう言っちゃうの?」
宵彦が頬を染めてこちらを見つめていた。
「宵彦さん!?」
ニヴェの白い肌が真っ赤になっていく。
「キャー! 宵彦さん大胆!」
「ヒューヒュー、熱々だねぇ」
工が手を叩いた。
「ちょ、工さん! 宵彦さん、離して!」
「飛んで行かないよう捕まえてと言ったのは貴女でしょう?」
「そうですけど! でも、みんないるし……!」
ニヴェが急いで離れようとすると、宵彦はニヴェをしっかり抱きしめて頬ずりした。
「ニヴェさんは私のだから、誰にもあげないよ」
ニヴェから声にならない叫びが上がる。
「ニヴェさんおめでとう!」
「結婚おめでとう!」
「ちょ、2人ともやめてって!」
ニヴェは両手で顔を覆った。その場の全員、矛盾だけでなく旅館のスタッフまでも拍手した。
「やめて~私こういうの得意じゃないの~」
すると小町がやって来て、
「おい宵彦、まだ終わってねぇぞ」
宵彦の腕を掴んで引っ張った。
「もう無理ですってぇ」
「尊潰したから、後はお前だけなんだよ」
小町が日本酒の瓶を差し出す。するとハッシュが急いでやって来て、小町を後ろから押さえて連れて帰って行った。
席に戻された小町は正座させられ、ハッシュに水の入ったコップを渡される。
「小町さん、ほら飲んで」
「やだー」
「昼からずっと飲んでます。悪酔いは良くありませんよ」
「やだーまだ飲んでるー」
小町は隣の禊の膝に頭を乗せると、
「禊~、私の事愛してる?」
「あー、また始まったよ」
「よくあるんですか?」
傍にいた工が訪ねた。
「一定以上飲むとこうなる。普段はそこまで飲まないけど、今日は飲みすぎたな。ここまで来たらもう後はゲロるのみ」
「えっ」
「禊~」
「ハイハイ」
禊は小町の頭を膝に乗せたまま正座に座り直し、小町の髪を耳にかけてやって頭を撫でた。
「家族なんだから、愛さないわけ無いだろ」
「う~ん嘘っぽい」
「面倒くせぇな」
「私、禊の事大好きだよ」
「お? それはどの好きだ?」
「んー、恋人じゃないな」
「そらな」
「姉弟ってわけでもない」
「赤の他人だな」
「じゃ夫?」
「え、これが嫁さん?」
「こんな口うるさい夫やだ」
「俺もババアはやだ」
「ババアって何だよクソガキ~」
小町は腹の方に向き直ると、背中に手を回した。
「……愛してる?」
「だから愛してるって」
「本当に?」
「本当、本当。じゃなかったらあの時ついてこなかったって」
「もう一回言って」
「え? じゃなかったら……」
「そうじゃなくて」
「えー、愛してるって」
「もっかい」
禊はげんなりした顔でため息つくと、耳に口を押し付け、
「愛してる」
低い声でそっと囁いた。
「ん~ふふふ」
小町は嬉しそうに笑うと、
「私も~!」
急に起き上がって禊に抱き着いた。
「何のやり取りですかこれ……」
工は鼻血を垂らしながら訪ねた。
「あぁ、こいつ愛に飢えてるから」
「愛に飢えてる!?」
「戦争で恋人亡くして、それがきっかけでUPO立ち上げようって言いだしたんだよ、こいつが。だからまぁ、仕方ないかなって」
「禊さん自身は小町さんをどう思ってるんですか?」
「姑?」
「姑……?」
「まぁなんだろう、年の離れた姉というか、酔っぱらえばこうしてしつこいくらい甘えてくるから娘にも感じるし、恋人とか妻って言われると、そうじゃないし……。やっぱ姉かな!」
「不思議な関係っすね……」
「100年以上一緒にいるし、死ぬ前からちょっと縁があったし」
賑わっていた会場に七穂の手を叩く音が響き、一同がその方を見た。
「皆さん食事も終わりましたし、そろそろお開きにして各自部屋に戻りましょうか!」
返事と共にそれぞれが動き始める。
「ほら小町、部屋戻るぞ」
「えー禊行かないでー」
小町はべそをかきながら禊にしがみついた。言葉がやってきて引き剥がし、小町を連れて部屋に戻る。
部屋に戻った禊は忍を誘って風呂に向かった。廊下でアキラを見つけ、アキラも連れて行く。
「あぁ~しみる~」
湯船に浸かった禊は気持ちよさそうだった。
その隣にアキラがやって来る。
「いいですね、この旅館。すごい大きいですし」
「円香が是非泊まれって言うからさ、ちょっと奮発したわ。その代わり少しでも安くなるよう、尊と要との部屋はダブルベッドなんだけどよ」
ちょうどその頃、要と尊はどちらが床で寝るかで揉めていた。忍はその光景が容易に想像でき、思わず噴き出した。
「何その組み合わせ、最高じゃないですか」
「部屋割りは円香がしたんだけどよ」
「うっわ、円香さん相変わらずですね」
笑う二人を見て、アキラはきょとんとしていた。
「円香、あの眼鏡の女が一人いたろ?」
「い、いましたね。マネージャーか何か……?」
「俺の娘だよ」
「娘!?」
アキラは急いで口を押えた。
「と言っても、自称だけどね。UPO各支部長のほとんどが俺の子供だったから、仲間外れになるのが嫌だったんだろうね、自分から娘だと名乗るようになった」
「自称かい!」
「ん、今の話ですと、禊さんにはまだ子供がいたって事ですか?」
「実の子供じゃないけどな。それぞれ親を亡くした子供や、捨てられたスラム街の子供で、みんな感染者一世なんだ。だから俺が引き取った」
「感染者が何かわかります?」
「はい、今は義務教育で少しふれますから……」
「へー、学校で教えるんだ」
「UPOの事も、矛盾の事も教わりましたよ。僕の担任は矛盾を奇跡のように思っていたみたいですけど、他の先生の何人かは、あまりよくは思ってないみたいで……授業にこれが出る度、少し嫌でした」
「反対派の人はものすごく反対するって聞きますし」
「感染者による犯罪も、減ってきてはいるけど消えてないからな。感染者の就職先ってのが少ないらしい、風評被害もあるみたいで」
「特殊な能力や不老不死ってのも、大変なんですね……」
アキラは手のひらを見つめた。
「そりゃ大変ですよ! 苦しくても死んで楽になれませんもん。でも、今この苦しみを絶えればこの先のすばらしさや楽を味わえると思えば、生きる道を選びますね。その為に僕は矛盾になったんですから」
「矛盾になるって、何かきっかけとかあるんですか?」
「死に際の強い思い。けど俺は忘れちまった」
禊は困ったように笑った。
「僕は生まれは昭和の初めで、じゅう……17歳のときに戦地で撃たれて死にました。故郷に帰りたいと強く思ったら、戦地の土の中で矛盾になってて。その後土の中から掘り起こされ、UPOに保護されて、小町さんに胎児にまで戻され、小町さんの息子として、姉の七穂と一緒に育てられてました」
「え、七穂さんは姉なんですか?」
「血は繋がってませんよ。今は赤の他人ですけど、まあだからって態度が変わったりはしませんよ。今まで通り、姉弟として接してます」
「何で胎児に戻されたんですか?」
「矛盾研究の一環。確か合意だったと思うんだけど……禊さん、どうでしたっけ?」
忍が禊を見ると、禊は真っ赤な顔で、
「ごめん、のぼせる。上がるわ」
フラフラと湯船から上がった。
「僕らも上がりましょうか」
忍もアキラと共に湯から上がった。
風呂から上がった三人はそれぞれの部屋に戻る。
アキラが部屋に襖を開けると、顔面を真っ白にした宵彦と遭遇する。
「うわああああああ!!」
アキラは思わず腰を抜かした。
「な、何!?」
宵彦は急いで顔に張ったパックを持ち上げた。
「あ、あぁ、何だ……宵彦さんですか」
「もう、どうしてみんな、私の顔を見てそう驚くのかね」
「そりゃ、男性がパックしてたら……というより、パックしてたら誰であろうが驚きますよ……」
アキラは胸を押さえながらタオルをタオル掛けにかける。
「あれ、宵彦さん、もうお風呂に行かれたんですか?」
「うん、別棟の方に」
別の個所にも温泉があるのかと知り、アキラは朝にもう一度入ろうと考えた。
「そうだ、晩酌するんだけど、アキラさんもどう?」
宵彦がビールを見せると、
「遠慮しておきます……すごい弱いんで、すぐ寝ちゃうんですよ」
「そんなに弱いの? どのくらい?」
「缶ビール2本で寝ちゃいます」
「禊さんみたいだね」
「もうすでにそこそこ眠くて……」
「あ、じゃあもう寝る?」
「いや、僕はあの、外で少し涼みたいので、お気になさらず」
アキラは遠慮するように両手を差し出すと、貴重品を持って部屋を出た。宵彦は窓辺に座って月を肴にビールを開けた。
貴重品と言っても、財布と煙草だけだしな……とアキラは考えながら、フロアマップを見て、廊下をぶらぶらと歩いていた。数個上の階に上がり、ふと、自由に出入りできる大広間に、他の客が一名だけそこの高く上がった縁側で酒を飲んでいるのが見えた。縁側に近づくと、真下に打ち寄せる海と、真上には月が見えた。自販機でビールを2本買い、縁側に腰を下ろした。旅館の中に広い廊下があるためか、縁側は全く人が通らなかった。
「いい眺めだな……」
アキラは真上の満月と海の音を肴にビールを開けた。カシュッという軽く冷たい音だけでも美味しく感じた。煙草をくわえ火をつける。海からの風がアキラの長い襟足と煙草の煙をそっと揺らした。
静かな大広間にもう一人いる他の客のビールを飲むときの音と、海の音だけが響いていた。すると、その客は満足したのか、丁度酒が尽きたのか、片づけを始め、大広間をどかどかと足音を立てて出て行った。そしてパチンと音が鳴り、辺りは暗闇に包まれた。アキラはまだいると声をあげようとしたが、藍色に染まっていく空間を見て、口を閉じた。これもこれで悪くは無いと思った。大広間の出入り口から廊下の明かりがぼんやりと短く入り、縁側の方からは月明かりがキシッと長く差し込んでいた。
ふっと吐き出した煙は風に飛ばされ月明かりに消え、煙草の匂いだけが残り鼻をくすぐった。ふと、臭いが着いたら怒られる、と思った。だが今日は折角のバカンスだ、これくらい許されるだろうとも考え、灰皿に置きかけた煙草を口に運んだ。
波の音の中に、裸足の音がした。それは遠くで小さくなっていたが、みるみる近づいていき、畳を踏む音に変わった。そして自分の真後ろまで来ると、布の擦れる音が隣からした。誰だろう、宵彦さんだろうかと思い重い瞼を持ち上げて振り返った。
「やぁ、こんな所で独り晩酌かい?」
目の前で微笑んだ薄い表情に、アキラは急いで背筋を伸ばした。その勢いのせいで、一段高い縁側から腰が落ちそうになり、急いで手をついた。
「ま、真尋さ……」
「君、いつも最後の“ん”が掻き消えるね」
真尋は嬉しそうに微笑んで口の開いた缶ビールを膝元に置いた。その隣に置かれるアキラのまだ空けていない2本目のビールを見つけ、自分のビールを軽く振ると、ちゃぷちゃぷと軽い音がした。そしてその残ったビールを飲み干すと、アキラの2本目のビールを手に取り、
「もらっていい?」
「え……」
「だめ?」
顔の横にビールを持って来て、ねだるように上目遣いをしてきた。アキラは頬を染めて目を逸らすと、
「今度、何か驕ってね」
「やった」
真尋は嬉しそうに缶を開けた。
「ん、真尋さん未成年だよね。ダメだよ、矛盾とは言え」
アキラが止めようとすると、
「何言ってるの、私と君は同級生だろう?」
アキラはハッとして額に手を置いた。
「フフ、そんなに若く見える?」
「見えるよ……あれからほとんど変わってないんだから」
「それは嬉しいね~! でも、私も君も、もう35だよ。アラフォー、入っちゃった」
最後の単語に、アキラの目が真尋の口元に注目した。急いで月に目を移し、
「そう、だね。もう中年か……まだ入ってなかったころから、あぐりちゃんにはおじさんって呼ばれてたけど」
アキラは少し照れ臭そうに目を伏せて笑った。
「だって君、そんな成りなんだもん。十分40代に見えるよ」
アキラは驚いた顔で自分の頬に触れた。
「まぁでも、あぐりもそれ気に入ってるし、私も、学生時代より大人に見えて好きだよ。最初、ひげ剃られて髪切った時は、とても学生っぽかったよ」
首をかしげて微笑んだ。
「え、そうなの?」
「君、童顔だからさ。でもそれが愛嬌って言うか、色っぽく見えるよ」
真尋は目を細めて笑い、ビールに口をつけた。
「あ、それ僕の……」
「ん?」
「いや、別に」
「わざとだよ」
アキラは急いで顔を上げた。
「って言ったらどうする?」
真尋は首をかしげて見つめた。
「か、からかわないでよ」
アキラは耳まで赤くして、縁側の縁に頭を置いて腕で顔を隠した。
「お? おー? 恥ずかしいの?」
「やめてって……」
「君は結構うぶな所が多いね。可愛い~」
真尋は持っていたビールでアキラの頭を軽くつついた。
「本当に、君はいつも……」
アキラは小さくため息をついた。
「一日より今夜の方が短いんだから、いつまでもそうしていると月が太陽になっちゃうよ」
真尋はそう言ってビールを置いた。アキラも顔を上げて目だけ腕から覗かせた。
「ねぇ、うちわ持ってる?」
「いや、持ってないけど……借りてこようか?」
「いや、無いならいいよ。お酒飲むと、火照るんだね」
「酒、初めて?」
「初めてじゃないけど、まともに飲んだのは初めて」
そう言い、真尋は浴衣の襟を少し引っ張って手で扇いだ。アキラはその細い胸元を無意識に見つめていたが、
「えっち」
真尋の一言で急いで我に返り顔を背けた。
「冗談だよ、こっち向いて。普通に下着着てるから、見えやしないよ」
確かに、浴衣の隙間からタンクトップがわずかに覗いていた。
「あまりからかわないでよ……」
「だって君、面白いんだもん。可愛いし」
真尋がおちょくるように顔を近づけてきた。するとアキラは真尋の肩を強くつかみ、目を強く見つめ、
「僕だって男なんだ、君に何をするか――!」
「男だから手を出していいんだ?」
その酷く冷たい声に、アキラの手がゆっくり離れて行く。
「男だから、女に誘われたから、色っぽかったから、手を出していいんだ? いいよね、言い訳出来て。男ってだけで言い訳出来て。男だから何してもいいの?」
立ち上がった真尋に見下ろされ、アキラは身を縮めて見上げた。
「いや、あの、そうではなく……」
「やっぱり君もか。友達だと思ってたのに。君なら大丈夫だって信じてたのに」
血の色をした真尋の目は、死んだ血液のように酷く冷たかった。
真尋はゆっくりアキラに迫っていく。
「君も苦しめばわかるよ」
そう言い、真尋の手がアキラの首に触れた。痩せた指がアキラの首に食い込んでいく。太く青い血管を押しつぶし、喉仏をぎゅっと奥に推した。だがアキラは抵抗しなかった。この先同じほどの幸福が訪れるとも限らないのだから、このまま今一番の幸せのまま終わってしまった方が、だとも考えた。
ピューゥ……。
やけに高い音が聞こえてきた。何の音かと思い目を空に向けた。そして、大きな破裂音と共に、空に色取り取りの光の花が咲き誇った。二人は目を丸くして空に見入った。
「花火……?」
真尋の手がするりと首から離れた。アキラは少し咳き込みながら縁側の縁に手をついた。
「そういえば、今晩花火があるって、張り紙が」
「海から花火が上がってるよ。どうなってるの?」
アキラは少し海を見渡し、
「あそこ、孤島があるだろ。あそこから上がってる」
真尋は小さくへぇ、と言い、縁側に腰を下ろす。
「ごめんね」
首をかしげて小さく言った。
「いや、僕もごめん。デリカシー無くて」
真尋はいいよと言うかわりに、そっと微笑んで見せた。そして花火に目を移し、
「こうやって花火見るの、初めてかも」
「そうなんだ。よかったよ、近くで見れて」
真尋は縁に頬杖をついてしばらく花火を見つめ、
「小さい頃ね、花火の音が怖かった。パパが暴れてる音に似てたから」
アキラは目を見張って振り向いた。
「だから花火を見ようとママに言われても、布団にもぐって頭まで被って、耳を塞いでた。初めて花火を見たのは、仕事してる時だった。痛くて痛くてどうしようもなかったから、あんまり覚えてないんだけど。綺麗だったなぁってのは覚えてる。私はこんなに汚いのに、一瞬の命しかない花火はあんなに綺麗で。命が短い分、綺麗なのかなって、神様は賢いなって思うのと同時に、私も短命でいいから、せめて美しくありたかったって思った。だからそれ以来、花火が嫌いになって、ずっと見なかった」
アキラは何か声をかけようとしたが、目に溢れる涙が喉を詰まらせた。
「でも、やっとまともに観れた花火がこんなに近くて、大きくて、綺麗で、しかも君と一緒に見れて、良かった。生きてて良かったよ」
真尋は首を傾げ、そっと小さく微笑んだ。
斜めに顔にかかる髪が、髪が流れ落ちて覗くうなじが、少しブカブカの浴衣から覗く細い痩せた手足が、肌に染み付いて咲く花が、酔ってぼんやりした意識が、火照って桃色に染まった頬や唇が。全部愛おしく、美しく、触れる事が可能ならば、強く抱きしめたいと思った。目の前にあるのに、あと少し手が届かない距離に感じた。
真尋は手元のビールに視線を落とし、
「私、お母さんやれたかな」
「え……?」
「正しいお母さんとか知らないし、見た事無いから、ちゃんとお母さんとして務まってたのかなって」
「じゅ、十分お母さんだと思うよ」
「そう、良かった。でもね、このやり方でいいのかなって、時々不安になるんだ。色々調べてみたり、本を読んでみて、自分を比べて、このやり方はいけないってやり方をしていたりして、それであぐりちゃんを間違った方に育てたら、どうしようって……。私が育てなくて、良かったかもって、思うんだ」
「子育てに正しいも間違いもないよ。あぐりちゃんはいい子だよ、とっても。だから何も間違ってないよ」
「うん、そだね。君は優しいね」
そっと微笑んで、ビールに口をつける。アキラも急いでビールに口をつけてぐびぐびと飲み干した。
アキラは喉まで出かかている言葉を外に出そうかどうしようか悩み、花火と真尋の間をめが行き来した。だが言わずに後悔するのは嫌だと考え、唾を飲んで真尋を強く見つめた。
「真尋さん、僕はずっと君が好きです」
真尋はそっと目を見つめ返し、
「うん」
「始めて君を見た時から、美しいと思った」
「うん」
「ずっと好きでした」
「知ってる。君は結構そう言うとこ、わかりやすいから」
真尋の薄い微笑みは、どこか泣いているようにも見えた。
「だが、それは叶わない方がいい。叶っても、君は幸せにはならない……」
アキラの表情が曇っていく。
「うん」
「君はどうしたら幸せになる? 僕はどうしたら幸せになる?」
「君は今、幸せじゃないの?」
「幸せだよ。こうして君と話し、一緒に花火を見てビールを飲んでる」
「じゃあそれで十分だよ。私は今が十分。だからこれ以上望まない。望んだら、幸せが崩れてしまう。君はもっと望むの?」
「僕は……」
アキラは顔を伏せた。鼻をすすり、急いで目を拭った。
「怖いんだ。君との生活が終わるのと、これ以上幸せになるのが。いつか崩壊する時が訪れるから怖いんだ。君は永遠だけど、僕の時間は有限だ。いずれ終わりが来る。だってもう、半分は来ようとしている」
顔を上げ、真尋を強く見つめた。
「恐れれば恐れるほど、怖くなるものだよ。いずれ覚悟をしなきゃいけないんだ。生きてるんだもん。私は永遠だろうけど、終わりは常に真横にいるんだよ。矛盾だって、絶対抗えない終わりが必ずある。それがまだなだけで、実際はずっと隣にくっついて歩いている」
満月がゆらりと揺れる。
「大丈夫だよ。その時になれば怖くない。その頃には十分満足してるから、覚悟も出来てる」
真尋はそう微笑み、アキラの頬を撫でようと手を伸ばした。だか肌に触れる直前、手は止まり、甲で肌から出る熱をひと撫でするだけだった。
「やっぱり、怖いや。触れて、君を怖いものと同じものだと認識したくない」
声が湿っていた。震えて、目に涙が浮かんでいた。
「真尋さ――」
真尋の手が胸に触れる。もう片方の手が肩の上に乗る。
真尋の薄い唇がアキラの唇にそっと触れた。ゴッと音が後頭部からした。真後ろの柱に頭をぶつけていた。アキラは目を丸くさせ、目の前の伏せた臙脂色の目を見つめた。状況がやや理解でき、手を伸ばした時、体に乗っていた真尋の温もりが逃げて行った。
「待って!」
急いで手を伸ばすも、掴みかけた袖は手のひらを風のように通り抜けて行った。
真尋は走って大広間を飛び出し、廊下に姿を消した。
アキラはゆっくり両手で顔を覆うと、腰が抜け、ズルズルと畳の上に降りて行った。そして畳の上にうずくまる。
聞こえるのは、自分のうるさい鼓動の走る音と、波の音だけだった。




