第三十三話 おじさん、デートしよ
春の温かいある日。
禊に言われた掃除をこなしつつ、アキラはいつもの癖が発動され悶々と考えを巡らせていた。ブツブツと独り言を口から垂らしているアキラの側に、白い頭が近づいてくる。
「だから……つまり、その……いやしかし……」
「ねぇアキラおじさん」
冷えた手がアキラの襟元から鎖骨を撫でた。
「あっひゃあああああああ!?!?」
アキラは手に持っていたスポンジを抱きしめて飛び上がった。
「な……何ですか、要さん……」
「やぁ。また癖が出てるな~って」
「癖?」
「独り言」
要は手を伸ばすと、アキラの腰を抱き寄せ、
「ダメだよ、言いたいことあるなら口にしないと」
「いえ別に言いたい事など……」
要が指先で顎を持ち上げると、
「まぁ、矛盾の大体が意思を読み取れるんだけどね」
「えっ、あ……あの」
アキラは頬を染めて唾を飲み込む。
「フフ、ウブで可愛いね」
要の手が頬を撫でた。
「あほんだらー!」
突如誰かの声が飛んできた。声のした方を見ると、百足が悪戯な顔をして、
「そういう時はこう言えばよいのだろう?」
「百足……誰に教わったんだい?」
「優じゃ!」
「あのマセガキ……」
「ませがき、とは何じゃ?」
「いい、百足は知らなくていい」
「知らぬが仏、という事じゃな」
「そうだよ。ほら、仕事の邪魔になるよ」
「そういうお主も先ほど」
「僕はいいんだよ。ほら」
要は百足を押してその場を去った。
アキラは不憫そうな顔でその方を見つめ、抱きしめたスポンジからこぼれた洗剤が服についていることに気付いた。
「あの、禊さん」
女風呂を掃除する禊に声をかけた。
「着替え……なんですけど」
「えぇ~、さっき洗濯機回しちゃったよ。寒いだろうが脱いでやって」
「え」
「じゃそのままでいて」
禊は一切心配せず、黙々と掃除を続ける。
アキラは仕方なく、濡れたTシャツを汚れもの用の洗濯籠に入れて、上裸のまま掃除を始めた。
一通り終わり、リビングに戻って来た。リビングにはマーサと子供の服の繕いをするニヴェと、おもちゃで遊ぶ美紗が見えた。アキラは鳥肌の立った腕を撫でながらバスタオルを肩にかけ、台所に立った。そして換気扇をつけて、煙草を一本銜えて火をつける。煙を吸い込み、フッと息を吐きだす。換気扇に吸い込まれていく煙を無心で眺める。いつも悶々と何かを考えてしまい頭が破裂しそうになった時、こうして一服すると考えが止まり、煙と共に頭の中の物が全部抜けていく。
禊がアキラの前を通り過ぎる際、ものすごく嫌そうな顔をしていた。アキラは不思議そうな顔をした。そこへ宵彦が急いでやって来て、アキラの胴を脇に抱えた。
「うわっ、え、宵彦さ……!?」
急いで庭に出ると、
「タバコ消して!」
血相を変えて宵彦に煙草を握りつぶされる。アキラは驚いて、
「ごごごめんなさい!」
急いで頭を深く下げた。宵彦は外から禊の様子をうかがうと、少し落ち着いた様子で、
「あっ……いや、こちらこそ、ごめんね」
アキラの肩を叩いて頭を上げるよう指示した。
「まだ言われてなかったんだね。禊さん、煙草が嫌いなんだ。だから吸うときは外で。臭いをつけて戻ると消毒液のプールに突き落とされるから、そこも気を付けてね」
優しく教えてやると、アキラは頭を下げながら礼を言った。
「私も、禊さんと一緒に過ごすようになって、最初は嫌な顔されるだけだったんだけど、我慢しきれなくなった禊さんに消毒液のプールに投げ込まれたんだ」
宵彦は困った表情で微笑む。
「何で、タバコが?」
「噂だけど、何か嫌な思い出でもあるんじゃないかって。小町さんが言うには、ただ副流煙を気にしてるだけだって」
二人で禊を見る。
「まぁ、副流煙気にしそうですね」
「そうだね」
二人で家の中に戻る。
「お風呂に入る前に一服するのおすすめだよ、臭いもつかないし」
「あ……ありがとうございます」
宵彦はにっこり笑って禊の元に向かった。
アキラが服をどうしようか考えていると、尊に肩を叩かれた。
「俺のでも着とけ。その格好じゃ、人間なんだから風邪ひくだろ? ちょっと大きいかもしれないが、まあ……。あ、臭くないはずだぞ!?」
「あ、ありがとうございます」
尊のいつも着ている長袖カットソーを渡された。袖を通すと案の定、袖が余った。
「手足が短い……」
アキラは少し落ち込んだ様子でソファーに腰掛けた。
あぐりが自分の部屋から降りてくる。
「ねーお母さん、これどうしたらいいか……」
リビングを見渡し、真尋がいない事に気付く。
「あぐりちゃん、どうしたの?」
気づいたニヴェが声をかけてくれた。
「ん。制服のポケットに穴空いちゃった」
「じゃあ直してあげるよ」
ニヴェは受け取ると、畳んで膝の側に置いた。
「ありがとう、ニヴェさん」
「いいえ」
ニヴェはにこやかに微笑んだ。あぐりはその姿を見て、
「やっぱり人妻だなぁ……」
感心した様子で頷いた。
ふと、ソファーに腰掛けるアキラに目が止まる。あぐりは悪戯を思いつき、そっと近づくと、
「おじさ~ん!」
アキラに飛びついた。
「うわっ」
「何してんの~?」
「あ、あぁ、ぼーっとしてた」
「えぇ~、そんなことして楽しいの?」
「え、まぁ、うん」
「超時間の無駄じゃん」
あぐりは楽しそうに笑うと、アキラの服を指さし、
「これ尊の?」
「あぁ、うん。貸してくれた」
「ふーん。袖余ってるね。おじさん手足短いもんね」
「み、短くない……」
あぐりはまた楽しそうに笑った。禊と宵彦の会話が聞こえてきて、宵彦の方を見る。
「宵彦さんは身なりがきちっとしてるよな~」
アキラの頭に顎を置いて宵彦を眺めた。
「カジュアルなのも大事だけど、あれは真面目過ぎるよな……」
リビングにやって来た要を見る。
「でもあれはおしゃれすぎる。おっさんには向かない」
ふと、マーサの持ったタブレットからロックが聞こえてきた。
「マーサ、何聞いてるの?」
マーサは言葉は通じていない様子だったが、笑顔で画面を見せてくれた。そこには見た事ない昔風の日本のロックミュージシャンが映っていた。全身黒のスーツで、男らしくクールだった。
あぐりは腕を組んで考え始める。そこに真尋がやって来た。
「何考えてるの?」
あぐりは素っ気ない返事をするだけだった。
「何か考え事でもしてるのかね?」
真尋はアキラに声をかけるも、アキラも考えごとにふけっていた。
「みんな哲学者だねぇ」
ため息をついてココアを入れたマグカップに口をつける。あぐりは手を叩いて、
「そうだ!」
驚いた真尋はこぼれそうになったカップを両手で押さえた。あぐりは真尋の肩を叩いて耳元に口を寄せると、コソコソと何かを話し始めた。そして真尋は笑顔で頷き、
「禊さん、生活費っていくらまで使って大丈夫?」
「何か買うのか?」
「服を買いたいの」
禊はアキラに目をやり、
「10万までだな。良い物を一通り選んで来い」
「でしたら禊さん、私がご一緒に」
「いや、親子水入らずにしてやれ」
真尋は満足そうに微笑み、
「ありがと」
立ち上がるとアキラの腕をつかみ、
「ほら、出かけるよ」
「えっどこに?」
「いいから、出かけるんだよ。デートを断るの?」
「行きます」
アキラは立ち上がって急いでコートを取って来る。真尋は禊からお金をもらうと、手を振ってあぐりとアキラと共に家を出た。
「楽しんでこい」
禊は少し嬉しそうに手を振って見送った。
三人は家から一番近いショッピングモールに向かった。
「ここ、市で一番大きいところじゃん!」
あぐりは嬉しそうに並ぶ店に目移りしていた。
真尋はフロアマップを見ながら、
「どういった店にすればいいのかな」
あぐりはスマホで調べながら、
「えっとね、こういう店が私のイメージなんだけどさ」
「あ、丁度このお店が入ってるよ」
「じゃあここにするか」
真尋とあぐりはさっさと店に向かう。2人から数歩離れた後ろからアキラはゆっくり追いかけていた。
するとあぐりが走って戻って来て、
「もう、誰のために来てると思ってるの!」
アキラの手を引っ張って速足で歩き始めた。
三人は一つのブランドショップに入る。アキラはキョロキョロしながら店内を見回した。床から天井まで黒一色で、天井には穏やかな光を発するランプ。周りにはスタイリッシュに服を着こなしたマネキンが並んでいた。
「あ、あの、真尋さん。ここメンズ服の店……」
「そうだよ?」
真尋はそう言って店内を見回した。するとそこに店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
真尋は急いでアキラの後ろに隠れる。じっと店員を睨みつけたが、肩眉を下げて顔を出した。
「どうされました?」
店員は困った様子だった。垂れた大きな目に、太い眉、長い襟足を縛ってあり、眼鏡をかけていた。なにより、細身のスーツを着ているのに体型がよくわからないのと、背が小さかった。
「150……」
真尋がそう呟くと、店員は青い顔をした。
「よ、よく言われるんです……小食なもんで、成長しなかったんですよ。へへ……おきになさらず」
店員は少し落ち込んだ様子で肩を落とした。
あぐりは真尋を見て、
「あの、このおじさんに似合う服を選びたいんですけど」
「指定とかありますか?」
「予算10万。イメージはこのアーティスト」
店員は見せられたスマホの画面を見ると、
「あぁ! 懐かしいですね。私の大好きなミュージシャンなんですよ。これならイメージしやすいです。えーっと、パンツは倉庫の……シャツは今期のでいいか」
店員は独り言を言いながら、店の裏に吸い込まれていった。あぐりは真尋に話しかけ、
「ねぇ、このアーティストってお母さんよりももっと昔の世代だよね?」
「そうだね、私の時で結構な歳だったよ」
「あの店員さん若かったよね。なのに懐かしいって」
二人が違和感を感じていると、
「こんなのいかがでしょうか!?」
店員が服を抱えて走って来た。一着ずつアキラに当ててみる。
「んー、この柄は若すぎない?」
「明るい色は似合わないね」
「じゃあ紺色は?」
「でしたらこの形の方がスマートでよろしいかと」
「おじさん本当に手足短いね」
「こちらのパンツでしたら長く見えますよ。私が履いているものと同じです」
「店員さんのそのネクタイピンってありますか?」
「はい、こちらに」
更衣室からアキラが出てくる。黒のスーツに足首を見せた今風のコーデに身を包み、少し垢ぬけて見えた。
「だめ、なんか気に入らない」
真尋はカーテンを閉めるよう指示する。
「なんで! おじさんカッコイイじゃん!」
「何か気にくわない」
「でしたら」
店員が別のシャツを渡して、カーテンが閉まる。そしてもう一度開くと、
「うん、これならマシかな」
真尋は満足そうに頷いた。
「シャツの裾のカットの違いです。主なシャツはこう丸くなってますけど、こちらは水平なカットにしてあるので、裾出しコーデ向きなんです」
「じゃあこれの黒も」
「靴はいかがなさいますか?」
「ローファーもいいよね」
「幼稚じゃない?」
「それが可愛いんだよ!」
「でしたらビジネスにも使えるこちらなどいかがでしょう?」
「ベルトはこれがいい」
あぐりが次々と引っ張り出していくのを見て、真尋は、
「いや、ベルトは私が作るよ」
「作るの? お母さん作れるの?」
「ウナギだから」
その一言にアキラの顔が青ざめる。
「いや、真尋さん。いいって、普通のベルトで」
「矛盾からできた素材は御利益あるよ」
「いやでも、矛盾の素材を使うのは条約違反じゃ……」
「そう」
真尋は冷めた顔であぐりの方に向かう。
「ありがとうございましたー」
三人は大きな紙袋を一つずつ持って並んで歩く。
「うん、おじさんカッコいいよ!」
あぐりはスマホのカメラを向ける。そして今度は二人を手招き、内側カメラで三人を画面に収める。
「はい、撮るよ~」
真尋は断ろうかと考えたが、目を逸らしてアキラの陰から顔を出してピースした。あぐりは顔の角度を気にしてピースサインをし、アキラは何事かとカメラを凝視した。
パシャ、と軽い電子音が落ちた。
「後で焼いておくね」
「別に、そんな事しなくていいよ」
「お母さんスマホ持ってないでしょ?」
「そうだけど……」
「あとでフォトフレームも買わないとね」
三人はフードコートに入る。
「ね、このフラペチーノおいしいよ」
あぐりが真尋に期間限定のフラペチーノを渡す。真尋がストローを軽く銜えると、
「ん、吸えないよ?」
「まだ結構硬いから、力入るよ」
真尋が顔を赤くさせて吸うと、まろやかでフルーティーな味わいが口に広がった。
「本当だ。なんかごそごそしてる」
「ごそごそって何」
あぐりは手を叩いて笑った。
「クランチ入ってるからね。ナッツも入ってるんだよ。おじさんもどう?」
あぐりがフラペチーノを差し出す。アキラが遠慮がちにしていると、
「娘を無下にする気?」
真尋に睨まれ、渋々受け取る。二人が口を付けたストローに目が集中する。二人を見ると、楽しそうに二人だけの世界に入っていた。アキラは口を開けてストローに近づくが、口を閉じて離れてしまう。迷っているうちに、
「早くしないと溶けちゃうんだけど」
あぐりに怒られ、アキラは目を瞑ってストローを吸った。そして急いで突き返した。
「どう?」
「……おいしい」
「そう言う割にすっごい不味そうな顔じゃん!」
あぐりは楽しそうに笑ってアキラを撮る。アキラはよくわからない複雑な味にやや不快感を覚えた。
三人はまたモール内を移動する。
「生のピスタチオ食べてるみたいだった……」
「それあぐりちゃんの前で言ってごらん?」
「言わないよ」
すると前を歩くあぐりが「あっ!」と何かを思い出したように声を上げると、アキラに紙袋を渡し左手に持たせ、真尋には右手に持たせ、空いた二人の手の間に自分が入って手を繋いだ。そして一歩後ろに下がると2人を上目遣いで見て、
「見えるかな……親子に」
少し恥ずかしそうに口を結んで頬を染めた。だが目は期待に満ちたように輝いていた。真尋は少し驚いた顔をしていたが、顔をほころばせ、
「うん、そうだね。ね、君もそう思うでしょ?」
首をかしげて目だけをアキラに向けた。アキラの中に込み上げてくるものがあった。左手を腰に置き、背中を向ける。
「ねえおじ……おとうさん」
「違う、僕はお父さんじゃない」
アキラが髪を振り回して首を横に振る後姿がどこか滑稽で、あぐりは悪戯に笑うと、
「名付け親ならほぼ私のおとうさんでしょ? ねぇ、おとうさん」
「違う!」
「おとうさ~ん、ねぇ~」
「僕はお父さんじゃない!」
「お母さん、おとうさんがケチ~」
真尋も楽しくなってきて、
「ねぇ、あなた」
「やめてくれ!」
「フフ、耳まで真っ赤だよ」
「違う! これは!」
「何が違うっちゅうんや」
別の声が入って来て、三人は後ろを振り向いた。アーサーがスーパーの袋を持って手を振っていた。
「迎えに来たで」
「どこまで見てたんですか……!?」
アキラは血眼で運転するアーサーの顔を見た。
「どこやったっけなぁ。親子に見えるかどうかってあたり」
「ほぼ全部じゃないですか!」
アキラは両手で顔を隠した。
「なんや、何か見られたくないやましい事でもしてたんか」
「違います!」
「私が飲んでたフラペ飲んだよ、おじさん」
「あぐりちゃん!」
あぐりは楽しそうに笑った。
「まぁでも、デート楽しかったやろ?」
アキラは手を降ろすと、まんざらでもなさそうに頷いた。
「こいつ~、えい色男になりおって~」
「ちょ、つつかないでください。前、前! 危ないですって!」
アーサーは楽しそうに声を上げて笑った。




