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第三十二話 プリザーブドフラワーと鯉

 シンプルなデザインの、真四角な建造物を目の前にする。

「さ、今日からここがお前の住む家だよ」

 禊はそう言い中に案内する。

「さてと……ようこそ、宮崎アキラさん。俺は矛盾代表の五月雨禊だ。まぁ呼び方は好きにどうぞ」

 アキラはキョロキョロと辺りを見回しながら恐る恐る家の中に入った。禊が手招きし、

「お前の部屋はこの真上、2階の部屋。左右で男女に分かれてるから、東側の階段使え」

 アキラは禊に言われた部屋に入る。ベッドと小さい棚が置いてあるだけで、後は何もない部屋だった。

「まだ特に何も入れてないからな、必要なものがあれば言ってくれ。経費からある程度買ってやれるけど、その分お前の給料が減る可能性もある」

 その言葉にアキラは少し青い顔をした。

 リビングに案内され、ソファーに座る。書類とペンを目の前に置かれ、

「注意事項をよく読んでおいてくれ。ここに名前と、印鑑。無かったら指で構わない」

 アキラは指示された通り紙を読み、名前を書いていく。ふと、ある項目の所で手が止まった。

「あの、保証人ってのは」

「あぁ、万一何かあった時に後ろ盾になってくれる人な。いるか?」

 アキラは不備を横に振った。すると横から手が伸びて、紙を奪われてしまった。急いで振り返ると、

「私がなってあげるよ。大丈夫、骨の髄まで拾ってあげるから」

 真尋がそう言って書類に自分の名前をかきこんだ。ふと、真尋の書いた苗字に違和感を感じた。

「斑……」

「あぁ、苗字が変わったんだ。我々矛盾は故人だからね、元の住民票はもう無いんだ。だから新たに苗字をつけてアークィヴンシャラの住民として登録されている。君も国民になるかい? その代わり、地球が著しく損害される事態に陥った時、全人類に銃を向けなければならなくなるよ。女子供も関係なく」

 真尋が首をかしげて怪しく微笑むと、アキラは青い顔で首を横に振った。

「まあ、君にそれほどの度胸はないだろうね」

 真尋はクスクスと笑って隣に座った。禊が書き終えた書類を確認し、

「よし、大丈夫そうだな。それじゃあ、ベビーシッターさん、よろしく」

 禊が手を差し出す。アキラはそっと手を差し出すと、強くつかまれて握手を交わした。

「それじゃ、はいコレも読んでおいて」

 禊にパンフレットを一つ渡される。

「前の寄宿舎……楔荘で使ってた時の物を少し改定しただけなんだけど、今でも使えるから。ベビーシッターと言っても、家事もやってもらうからな。俺が女側をやるから、お前は男側をよろしく」

 禊に肩を叩かれる。

 アキラはしばらくそのパンフレットを読み込んでいた。ふと顔を上げた時、やけに家の中が静かだと感じた。

「あの、部屋の数に対して人が少ないんですけど……」

「あぁ、みんなそれぞれ仕事だったり遊びに行ってるから。今は俺と真尋しかいないよ」

「禊さん、今日のお昼なぁに?」

 真尋は台所に立つ禊の側に寄った。アキラはその光景を見て慌てて、

「たか……真尋さん、その人は男性だけど大丈夫なの……!?」

 すると真尋は禊の顔を見て、

「彼、女性だよ?」

 アキラは目を丸くして禊を見た。禊は少し困った様子で、

「まぁ、半分はね。普段は男として過ごしているけど、女性器を持ち合わせている、雌雄同体なんだ」

「し……え?」

 アキラは頭を抱え始めた。

「そんなだと、ここで生活していけないよ。他にも女の子の見た目をした少年もいるんだから」

「た、多様性豊かですね……」

 アキラは苦笑いをしながら言った。

「でも、やっぱり男は嫌いだよ。ココの男性の中でも接触できるのは禊さんだけ。会話くらいなら、女嫌いの宵彦さんかな」

「宵彦……さん?」

「えっとね」

 真尋はタブレットを操作しながら近づいてくる。アキラの肩と真尋の肩がぶつかった。

「そう、この人。女に触ると蕁麻疹出るんだって、面白いよね。だから親近感あって結構仲いいんだ。それから、この人が恋……いや、奥さんかな。わからないけど、パートナーなんだって。あっこれナイショなんだけどね……」

 真尋はアキラに少し身をかがめるよう指示すると、首の後ろに手を置き、

「宵彦さん、今度プロポーズするんだって」

 女性の声だが少し低く、冷たく、なめらかな声が耳に流れてきた。真尋の手が離れる。アキラは耳に熱を感じながら、

(アイスクリーム……みたいだな)

 そう心に思った。

「内緒だよ。言ったら君とは絶交だからね」

「死んでも言いません、墓まで持っていきます」

 アキラは真顔ですぐにそう答えた。

 真尋はニコニコしながらアキラにくっついた。ふと、何かに気付いて顔をパッと上げた。大きな臙脂色の目と視線がぶつかる。

「な、何でしょう」

 アキラがどぎまぎしていると、真尋はアキラの着ているミリタリーコートを掴んでチャックを降ろした。

「何でしょう!?」

 アキラは驚いて両手を上げる。真尋はコートの中に顔を突っ込み、

「君、お風呂はいつ入った?」

「ききき昨日入りましたけど!?」

 真尋は怪訝そうな顔をする。そして禊を呼ぶと、

「あー、まあ確かに小汚いな」

「小汚い……!?」

「待ってろ、もう少しで小町帰って来るから」

 そう言ってる横から玄関の開閉音がした。小町はくしゃみをしながらリビングにやって来ると、

「待たせたな」

 そう言ってアキラの腕をつかんだ。

「え、あの、これは……」

「は? 行くんだよ」

「どこにですか?」

「決まってんだろうが。おい、禊」

「はいよ」

 もう片方の腕も禊につかまれ、アキラは連行されていく。

「ああああの!? どういうことですか!? 真尋さん!」

 真尋の方を見ると、笑顔で手を振って、

「いってらっしゃい。荷物は私が片付けておいてあげるから」

「真尋さああああああああ」


 目の前の狐顔の眼鏡の男に、アキラは目を合わせられずにいた。

「随分臆病な割に暴れてますね」

 そう言って奏はにこやかに笑った。アキラは肩をすぼませる。

「へぇ、これが矛盾に惑わされた一般人ですか。研究者で惑わされ頭がおかしくなった奴は僕を含め五万と居ますが、一般人での例は初めてです」

 奏は側のベッドに横になるよう指示する。

「ではこれから基本的な検査を行います。身長体重ですとか、歯並びや、病気は無いか……など。すこし採血もさせていただきます。まあ基本そんなに痛くないですから、リラックスして構いませんよ」

 アキラの両肩を叩いてやる。そしてアキラがベッドに横になると、六本の手が伸びてきて服を掴んだ。

「あの、何ですか!?」

 小町は真顔で、

「脱ぐんだよ」

「ハイ!?」

「いいからさっさと脱げ小汚いネズミ」

「自分でできますって!」

「どうせ下着まで脱がないだろう」

「いい言われればやりますって!」

「いいから暴れるな」

「ちょ……禊さん!」

 禊に助けを求めようと顔を見ると、

「何持ってるかわかんねぇんだから暴れんな」

「うわあああああ真尋さ」

 頭の上から温かい雨が降り注ぐ。

「無事かー? 生きてるかー?」

 シャワールームに禊の声が響く。

「だ、大丈夫です!」

「髭もちゃんと剃れよ」

 禊はそう言ってシャワールームを出た。

 シャワーを浴び終えたアキラが出てくる。

「ひげ剃れば十分若く見えるじゃないか」

 小町がそう言って背中を叩いた。丸椅子に座らされ、首から布をかけられる。

「それじゃお兄さん、どんな髪型にする?」

 肩口に白髪の青年が顔を出した。アキラが困った様子で小町を見ると、

「矛盾の一人、要だ」

「よろしくね」

「よ、よろしくお願いします……。あの、普通に短く……」

「はい、了解」

 要の指が髪に入れられていく。久々の髪を切られる心地よさに、アキラは目を瞑ってしかと味わった。

 30分ほどして、

「はい、できあがり」

 大きな手鏡を持ってこられる。そこに映ったのは20代の頃の自分によく似た、40近い自分だった。

「あ、ありがとうございます」

「それじゃ、次の検査があるから移動しようか」

 要に誘導されて部屋を移動する。

「痛かったら言え」

 小町に言われるも、アキラは一切口をきけず、両手で顔を覆い一切身動きせずにいた。

「大丈夫だって、俺も散々肛門鏡入れられた」

 目の前に瞼の重そうな青年が顔を覗き込んだ。

「あの、どちら様で……」

「俺は尊、矛盾の一人だ。さっき要に髪切ってもらっただろ? 俺、アイツの兄なんだ」

「よ、よろしくお願いしまああああああ!!!!」

「うるさい!」

 小町の手がアキラの頭を叩いた。


 アキラはゲッソリした表情でソファーに座っていた。

「お疲れ。ほら、膝枕してあげようか?」

 真尋が隣に座って太ももを差し出した。アキラは顔を手で覆い、

「だ、大丈夫です……本当に」

「君、不安定になると敬語だよね」

「すいません……」

「何で謝るんだ」

 真尋は小さくため息をつくと、

「ハイハイ、ソィソィ」

 アキラの短くなった髪に指を通した。

「でも、ひげ剃って髪切ると随分若く見えるんだね。最初見た時は中年のおじさんみたいだったのに、今は30代くらいに若く見えるよ」

「はああありがとうございます……」

 耳から湯気を出して縮こまった。

 するとそこに元気な声が飛んできた。

「ただいまー!」

 外出していたレオたち子供らとニヴェやマーサの団体と、仕事帰りの美友たちが丁度同時に帰って来た。

「なぁ禊、今日動物園行ってきたんだぜ!」

 レオは買ってきたライオンのぬいぐるみを抱えて禊に飛びついた。

「おぉ、そうか。他に何がいた?」

 禊は興奮気味のレオを抱き上げる。

「キリンってまつ毛長いんだな! それからゴリラと――」

 美友はコートを脱ぎながら、

「ごめーん、みんな着替えたら私の部屋に着て。ちょっと確認のミーティングしたい」

 李冴が後を追いながら、

「夕飯に間に合う?」

「うー、間に合わせる」

 また玄関の音がして、

「ただいまー。ねえお母さん、聞いてよ今日部活でさー」

 学校から帰って来たあぐりが真っ先に真尋の元に駆け寄った。後ろから真尋に抱き着き、部活の愚痴を溢す。

「マジ何なのあの先輩。下手なくせに仕切ってさ」

「うん、そうだね。あぐりちゃん、おてて洗ってらっしゃい」

「んーなんかめんどくさい」

「風邪ひいたらお母さんとお出かけできないよ?」

「えーそれはやだぁ」

 あぐりは渋々真尋から離れる。ふと、その隣に座るアキラと目が合った。アキラかとも思ったが、似た別の人だったらどうしようかと考え、あぐりはそのまま洗面所に消えていった。

「フフ、一年ぶりかな?」

 真尋がアキラに声をかけた。

「そう……だね」

「散々娘に手を出して。何したの?」

「な、何もまだ……!」

「まだ? じゃあこれからするんだ。最低」

「いやそうではなくて!」

「そうだ、君の家にあぐりが行った時、押し倒したんだってね?」

「ヒェッ」

「去勢手術っていくらするのかな」

「本当に申し訳ありませんでした……」

 真尋は闇を纏った悪戯な笑みを見せた。

「真尋ねーさん、そのくらいにしなって」

 そう声が飛んできて、細い腕がアキラの首に絡みついた。何事かと振り向くと、髪の長い少女が顔を覗かせた。

「惑わされないで、それ着いてるから」

 真尋は冷ややかな目で指さした。

「ついてるって何さ~!」

「だって君は男でしょ?」

「見た目はどこから見ても可愛い女の子でしょ?」

「ついてるから男」

「も~!」

 アキラが状況が分からず焦っていると、

「僕は早乙女優。真尋さんと同じアイドルやってるんだ!」

「え、真尋さんがアイドル?」

 真尋の方を見ると、目の前を真尋の手が横切って優の顔を掴んだ。

「このブス! やたらと言うんじゃないってあれほど……!」

「ブスって何だよ! 根暗!」

「頭の中に砂糖しか入ってないような奴に言われたくないよ!」

「ま、真尋さん、落ち着いて!」

 止めに入ろうと真尋に手を伸ばす。肩を掴んだつもりが、手のひらに丸い柔らかいふくらみを感じた。

 真尋は真顔で自分の胸を見下ろした。

「何してんの」

「ああああああごめんなさあああああああ」

「あーあ、おじさんやっちゃった」

「わあああああああ」

 アキラは急いで床に額を擦り付ける。

「やめて、みんないるんだから」

 真尋はアキラの頭を軽く叩いた。そこにあぐりが戻って来て、

「ねぇ~も~マジクソ~!」

 真尋に抱き着いて膝に座った。

「あぐりちゃん、そんな言葉遣いダメだよ。品がないよ」

「私に品は無いの~」

 真尋はアキラの服を掴んで座るよう促す。あぐりはアキラの方を見て、

「ねえお母さん、お客さん?」

「さあ、誰だと思う?」

「えー?」

 あぐりはじっと目を凝らして見る。

「アキラおじさんに似てるよね。ほら、お母さんの話してた同級生の、あのストーカーだった」

「されてたのは君の方ね。さて、どうなんだか」

 真尋が目を合わせると、アキラは脂汗を額ににじませながら、

「……ひ、ひさしぶり、あぐりちゃん」

 あぐりの顔がパッと明るくなる。

「おじさんだぁ~!」

 真尋の膝から飛び出してアキラに抱き着いた。

「えぇ~!? 何で!? ひげ剃っちゃったの!?」

「小汚いから剃れって……」

「勿体ない! 髪型も気に入ってたのに!」

「の、伸ばすから」

「でも久しぶり。ねえ、刑務所はどうだった?」

「遊びに行ってきたような言い方しないで……」

 アキラは苦々しい顔をした。

「でもなんでおじさん、ここにいるの?」

 あぐりは真尋の方を見ると、

「雇った。まあ本当の理由は別にあるんだけど、あぐりちゃんがここまで来る間が心配だし、みんなそろそろ仕事が忙しくなってくるから」

「じゃあこれから毎日一緒?」

「あぐりちゃんがここに来ればね。だからって休み以外で来ちゃダメだよ、春期講習は?」

「来週から」

「そう。頑張って」

「お母さんがもっと褒めてくれたら頑張るよ~」

 あぐりはソファーに寝転がり、真尋の膝に頭を乗せた。あぐりの足がアキラの膝を蹴る。アキラは二人の様子を微笑ましそうに眺め、

「なんか、こうやって見るとやっぱり親子だね。あぐりちゃんは子供みたいだし」

「まあ、こんなに甘えるのも仕方ないよ。17年、肉親がいなかったんだ。しかも、父親の代理はいたけど、母親はずっといなかった」

 真尋はあぐりの髪に指を通す。

「私、お母さんってんをよく知らないから、普通の家庭で育った君が教えてくれると嬉しいな」

「そんなに普通じゃないよ。今はもう、勘当食らって縁を切られてしまってるし」

「何かしたの?」

「いや、そんな大ごとじゃないよ。大したことないって」

 アキラは何かごまかすように言った。するとそこに禊の声が飛んできて、

「飯だぞ~!」

 全員が席に着く。アキラも真尋に誘導されて席に着く。

「飯の前に聞いてもらいたい」

 禊がそう言いだすと、一同が禊に注目した。

「この、真尋の隣に座る男。今日からこの家のベビーシッター兼小間使いとして雇われた。みんな仕事量も増え始め、この家を留守にすることも多くなった。俺も仕事が入るようになって家事との両立がややつらくなってきている。何か家の事で困ったことがあれば言ってくれ。ところでアキラ、料理は出来るか?」

「……すみません、からっきし……。台所に立ったのもお湯を沸かすくらいで……」

 その言葉に真尋が真顔で見つめてきて、

「え、君、今まで何食べてきたの?」

「コンビニですけど……」

「そんな不健康な状態であぐりちゃんに近づいたの?」

「ご、ごめんなさい……」

「最悪。君なんか嫌いだよ」

「ごめんなさい!」

「まあいいよ。今日から禊さんの栄養満点のご飯で体の中まで綺麗にしてね」

「細胞の核まで綺麗にするよう努めます」

 アキラは頭を下げた。その様子を見てアーサーは、

「なんや、辛気臭い奴やなぁ……」

「悪い人ではないですよ」

 忍はたしなめるように言った。それに対して嫌好は、

「でも前科アリだよ。あぐり嬢のストーカーアイツだし」

「あぁ、あの楽しそうに話してた謎のおじさんって」

 アーサーは何か理解した様子であぐりを見た。

「千歳は子供っぽいかんなぁ」

 千歳の肩に腕を回す。

「子供っぽいって何だよ、これでももうアラフォー近いんだからな!」

「えっ千歳、もう40!?」

 宵彦が顔面蒼白させて千歳を見た。

 全員が手を合わせ、

「いただきまーす!」

 テーブルに並べられた幾つもの大皿に次々と手が伸びる。真尋はアキラの皿を持ち、

「何がいい? 好きな食べ物とかある?」

 アキラが迷っているうちに料理はどんどん減っていく。するとアーサーが真尋の持つ皿に料理を入れ、

「お前、禊並みにガリ痩せなんやから遠慮せずどんどん食い! せやないと口うるさい奴になる」

「おい、誰が口うるさいって?」

 アーサーは目を瞑って肩をすぼめた。から揚げやサラダ、マーボーナスが入れられた小皿が手元に置かれる。

「はい、どうぞ」

 真尋も自分の取り皿に料理を入れる。そして耳に髪をかけ食べ始めた。

「禊ー、お茶取って」

「それくらい自分で取れ、レオ」

「言葉さん、明日の食事当番誰でしたっけ?」

「明日は……尊とハッシュだね。でも禊がほとんどやっちゃうんじゃないかしら?」

「あー! ちょっと工! そのチヂミ最後の一個! アンタ何個目よ!?」

「何だよ美友、まだ二個目だよ」

「ねえお母さん、このから揚げ、味付けはお母さんがやったの?」

「そうだよ。何で分かった?」

「お母さんは禊さんより甘めだから。言葉さんはあんまり味付けしないんだ」

「おいしい?」

「うん!」

「うなぐの君! このからあげ、とっても美味だな! 歯ごたえがたまらん……!」

「味付けだけだよ。ほら、百足さん、これも食べてみて。朝、庭でカブが取れたから漬物にしたんだよ」

「ほぉ! 懐かしい香りじゃ」

「んにぃ~!」

「美紗、口の周りが汚れている。早急に拭かなければ服について……」

「うわ、手までケチャップだらけじゃねぇか! ほら、お兄ちゃんに手を貸して。ハッシュ、お手拭き取ってくれ」

「うむ」

「酒が飲みたいな……」

「小町、ウイスキーボンボンを作ったから、お風呂上りに月でも見ながら一緒にどうかしら? マーサ特性よ」

「それはいいな。頂こう」

「要さん、それ砂糖ですよ!」

「あれ、本当だ。悠香ちゃん代わりに食べて」

「嫌ですよ~!」

「ニヴェさん、おかわり頂けますか?」

「ハイ、ただ今。あの、アキラさんもいかがですか?」

 ニヴェはにこやかに顔を覗き込んだ。だが一切反応がない。真尋に肘でつつかれ、アキラは急いで皿を渡した。

「何か嫌だった?」

 真尋が首をかしげて尋ねた。

「いや、嫌とかではなく……。懐かしいなって。こういう温かくて、賑やかな食卓、どこかで見た事があるんだ」

 ふと、懐かしい光景が目の前に浮かんだ。

『アキラ、アンタの好きなから揚げだよ』

『たくさん食べないと大きくなれないぞ』

『アキちゃん、コレ好きだったろ』

 ふと、頬にくすぐったさを感じた。手を伸ばして爪先で引っ掻くと、乾いているはずの頬が濡れていた。

「あれ……」

 手に目をやる。指先が濡れてキラキラと光っていた。

「うわ、泣いとる!」

 アーサーのその声に全員がアキラの方を見た。

 アキラは袖で涙を拭うも、目からは涙が絶えずこぼれた。

「あ、あれ、おかしいな。いえ、すみません……その、僕」

 すると隣に座っていた龍がアキラの顔の前に卵焼きを差し出した。何かと思いその方を見ると、龍が頷きながら微笑んだ。

「寒かったね」

 そう言って背中をさすった。アキラは差し出された卵焼きを口に入れると、

「おいしいですぅ……!」

 顔をくしゃくしゃにして泣き出した。龍は頭を撫でながら、

「大丈夫、寒かっただけ。ね? 俺もここに来るまで寒かったっすから、よくわかるっすよ」

 するとアーサーが席を立ち、

「何やもう、可愛そうな奴やなぁ! ほれどんどん食い! これとか、ほらこれ! 食いたいもんあったら言っとき、禊やったら何でも作れるやさかい」

 アキラを強く抱きしめ、取り皿に次々と料理をよそった。

「ありがとうございます……ありがとうございますぅ……!」

 アキラは頬いっぱいに料理を頬張る。

「どうだアキラ、もう寒くないか?」

 禊が頬杖をつきながら笑って尋ねると、アキラは必死に首を縦に振った。

「大丈夫、アイツは寂しかったんだよ。正解が分からなくて、どこに行きつけばいいかわからなかっただけだよ」

 そう独り言のように言うと、小町は小さくため息をついて微笑んだ。

「いつぞやのお前みたいだな」

「その時の俺を見た事も無いくせに」

「私にもあんな時があったよ」

 そう言って小町は焼酎の瓶を開けた。

「あっ、お前、飲みすぎるなよ。コップ二杯まで」

「ハイハイ」

 嬉しそうにコップに注いだ。

 食事が終わり、各々がリビングでまったりしている時。後片付けをしている禊の元に重ねた食器を持ったアキラがやって来た。

「ありがとう。そこ置いといてくれないか?」

 アキラは指示通り食器を置く。

「あの、先ほどはお見苦しいところを……」

「あーいい、いい、そういうの。この家に、矛盾の中で同じように生活するのならそう言うのは無しだ。俺らは家族だ。血が繋がっていなくても、矛盾という家族で、アークィヴンシャラという国民なんだ。矛盾の中にはな、親の顔すら知らないやつもいるんだ。俺は親の事を覚えているけど、嫌好や言葉は親を知らない、でも親と似た役目をはたして、美紗やレオなどの子供らの世話をしてる。尊と要は元は王族で、百足は平安貴族。小町は巫女だった。美友と工は一度は芸能界で名を馳せた。忍や李冴や悠香は元は普通の学生だった。レオは貧困層の子供でスラム街で拾われた。嫌好だって、俺の家の近くに捨てられていたんだ。それでも俺らは同じ矛盾として、人間として、家族として生活している。俺は家族のために、今こうやって皿を洗って、飯を作って、洗濯して掃除して、悪さをすれば叱って、悲しんでたら慰めてやって、寂しい時は一緒に寝てやって、楽しい時は一緒に全力で楽しむ。お前はこれからここで暮らすんだから、他人であっても、他人としてではなく仲間として過ごしてもらいたい。だから大いに泣いて笑って怒ってくれていい。感情を表に出すことは悪い事じゃない。俺も日本人だが、日本人はそう言うのを良しとしないからな。せめて仲間や家族にくらいオープンにしたっていいじゃないか。ココロなんかは、ずっと機械に繋がれて10年近く育ってきた。人を知らずに育ったから、感情の出し方を知らない。だから今、感情を出すための練習をしているんだ」

 禊は最後の皿をすすぐと手を拭いて、ココロを呼んだ。ココロが駆け寄って来る。

「ココロ、今どんな気分?」

「……楽しい」

「何で楽しい?」

「優が、面白い話をしてくれた」

「こういう時どうするんだっけ?」

 ココロは少し考えると、顔を突き出し、口角を上げて歯を見せた。

「うん、結構できてるよ」

 禊も同じように歯を見せて笑って見せた。するとココロはその場で跳ねて見せた。

「これでもいい?」

「うん、好きなように表せばいいよ」

「楽しい。楽しい」

 ココロはジャンプしながらリビングに戻る。

「優、さっきの話、もう一回」

「え~? だから、猿は牛のうんこで――」

「うん、楽しい。楽しい」

「何で跳ねてるの?」

「楽しいから」

「そう……」

 アキラは不思議そうな面持ちで見ていた。すると急に肩に腕が回され、

「それじゃ、恒例のアレ、行きますか!」

 禊がそう言うと、

「お! じゃあ俺も」

 尊がやって来た。

「じゃあワシも~!」

「僕も僕も!」

「兄さんが行くなら僕も」

「は? 要が行くなら俺も」

 アーサー、忍、要、嫌好もついてくる。

「え? あの、どこに向かうんですか?」

 アキラが戸惑っているのを尻目に、

「言葉、アキラの分の日用品あるか?」

「いつものストック分ならあるけど」

「ちょっと籠に入れて置いといて」

 言葉は頷いて物置の方に向かった。

 禊一同は風呂場に向かう。

「同じ釜の飯を食った次は、同じ湯船に浸かって垢を擦るに限るよな!」

 禊がそう言うと、一同が頷いた。アーサーが服を脱ぎながら、

「禊のこのやり方はUPO前期の創立時からあるんやで。ワシも小さい頃、禊に引き取られたときにこれやったわ、義兄弟たちとな」

「引き取られた、って……」

「幼い頃に両親を亡くしてな、孤児だったワシと妹を禊が引き取ったんや。その頃のワシは感染者で能力持ちやったから」

 アーサーはそう言って笑うと、さっさと風呂場に向かった。その後に尊、要、嫌好と続く。

「ほらアキラ、早くしろ」

 禊に声をかけられ、アキラは急いで後を追う。禊の隣に座り、シャワーのカランをひねる。ふと、ヘアバンドで髪を上げる禊に目が行く。横顔の目は、先ほどまで見ていた目の色とだいぶ違う気がした。それに、体中に刻まれた傷にも目が行く。男の勲章、と言った感じにも見えたが、それ以上に胸の傷は痛々しく見えた。禊の細い体に見入っていると、右の肩を叩かれた。

「禊さん、こっちシャンプーが無いんですけど」

 忍が目を細めながら話しかけた。

「あの、僕違います……」

「あれ!? 本当だ。ごめんなさい、細いから禊さんに見えてしまって。禊さんどこですか?」

「ここだよ。後で詰め替えとくから」

「確かに、アキラは禊並みに痩せてるよな。お前、今まで何食ってたんだ?」

 尊が湯船から尋ねてきた。

「カップラーメンとか……」

「ほとんど小麦粉じゃねぇか!」

「ま、今日から禊のご飯が食えるんだから太るよ。気をつけな」

 嫌好がそう言って湯船から上がる。

 禊とアキラは湯船に浸かり、

「あの、そう言えば、雌雄同体だって……」

「あぁ、一応風呂は男風呂に入ってるよ。なぁに、襲われやしないよ」

「襲われるんですか」

「多分ここにいる半分以上が狙ってる」

「狙われてるんですか!?」

「だが矛盾はそう言う事はしてはならないようになってる。それにできないよ、こいつがいるから」

 そう言い禊は上を見上げた。アキラもつられて見上げると、目の前に黒い目が見えた。白い顔に浮かぶ三日月型の口が口角を上げる。

「うわああ!」

「へぇ、随分とくたびれた奴だな。だが良い絶望の匂いがする」

 細く長い指が顔に触れた。

「千早、食べるなよ」

「多分ね」

 千早は湯船の水面に足を降ろし、

「俺の事を他所で口にしてみろ、お前の声を食ってやる」

 アキラは唾を飲んだ。

「コイツは……まあ、怨霊みたいなものだな。大丈夫、悪さはしないようにしてるから」

 アキラは心配そうに千早を見た。

「あぁなんだ、お前童貞か」

 その言葉にアキラは思わず立ち上がる。

「むしろ安心したよ。あの記録に穢れた手で触れられるかと思うと、魂まで食い殺したくなる」

「また何を言ってんだか。ほら帰れ」

 禊が千早の髪を掴んで湯船に沈めると、千早は黒い靄となって禊の陰に吸い込まれていった。

「な、何なんですか……」

「だから怨霊だって」

「幽霊が見えるわけ、それに会話など」

「アークィヴンシャラなんだからこれくらい普通だって。矛盾の存在だってそうだろ?」

 そう言われ、妙に納得してしまう自分がいた。

 二人は湯船から上がり、体を洗い始める。

「アキラ、背中擦ってやるよ」

 禊はアキラから垢すりを奪うと、背中を丁寧に洗い始めた。

「初めてです、こんな風に誰かと風呂に入ったり、賑やかな夕飯とか」

「そうか。これが毎日続くぞ?」

「構いません。むしろちょっと、嬉しいです。変なプレッシャーや孤独に苦しまなくて」

「そうか、それは良かった」

 禊は自分の椅子に戻って頭を洗い始める。

 風呂から上がり、アキラが先ほどまで着ていた服を着ようとしていると、禊に服を投げ渡された。

「お前、俺と同じ身長だし体型も似てるから、俺のしばらく使えよ。一応それ、綺麗だから。あと、ダサいって言うなよ。俺はシンプルなのが好きなんだからな」

 念を押すように言うと、禊はさっさと服を着て脱衣所を出た。

 寝間着姿の一同は冷蔵庫を漁り、

「これとか新発売でさ」

「あ、これ期間限定だよ」

「それはあんまり美味しくなかったな~」

「これ美味いから」

 両手に缶ビールを持ってダイニングテーブルにつき、

「それでは、アキラ歓迎を祝して」

「カンパーイ!」

 缶ビールを乾杯する。

 賑わうダイニングを見て、真尋は微笑ましそうにアキラを見つめた。

「おじさん、もう馴染んでるね」

 あぐりがそう言うと、真尋は嬉しそうに頷いた。

「はい男ども、二日酔いなんかになったら殴って起こしてでも仕事に向かわせるからね」

 言葉がそう言いながら、カットしたトマトを皿に盛り付けて持ってきた。

「あ、ありがとうございます」

「これから頑張ってね」

 指先でちょいちょいと軽く撫でられ、アキラは耳を赤くさせた。真尋はその様子を見て冷たい顔をした。

「そうだ、アーサーお前、また身長伸びたんじゃね?」

 尊がそう言うと、

「せやねん、この前測ったら2㎝伸びててさ」

「え~、たかが2㎝気づきます? 気のせいでしょ~」

「いやいやいや、俺の目甘く見ない方がいいから。女性のスリーサイズとか一目でわかるから」

「兄さん、ナンパの失敗理由のほとんどがそれじゃん」

「な、言うなよぉ!」

 男たちは楽しそうに笑いあう。

「そう言えば、アキラの身長170㎝だったな」

 禊がそう言うと、嫌好は、

「おっ、俺と同じ~」

 グータッチを求められ、アキラは少し戸惑った様子で拳を差し出した。

「あれ、誰だっけ背が小さいの気にしてたの」

「レオ?」

「ちゃう、千歳や」

「あ、禊だ! 禊いくつだっけ?」

「169だったな……」

 禊は何かに気付き、アキラの顔をじっと見る。

「お前、先輩より1㎝デカくて申し訳ないと思わんのか!」

「え!? ごめんなさい!」

「てめぇこのっ」

 禊はアキラの顔を捕まえると、両手でわしゃわしゃと豪快に撫でまわした。

「縮め! それか1㎝よこせっこのっおらっ」

 上から頭を押さえつける。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

「禊さん落ち着いて。すいませんねぇ、長さ大きさになるといつもこうなんです」

「じゃあお前のよこせよ~」

 禊は悔しそうに忍に抱き着いた。忍が少し嬉しそうな顔をすると、

「あっ蛙てめぇ! ずるいぞ!」

「離れろっ離れろよっ」

「食ってやる」

 尊、嫌好、要が禊を引き剥がそうとする。その下でアーサーがビールを抱え、

「お前らー、溢したらただじゃおかんからな」

 ズルズルッと音を立ててビールをすすった。ふと、アキラがやけに静かになったと思い、

「アキラー、お前もう潰れとんのか~? 一番弱い禊でさえまだ意識ハッキリしとんのに、そんなんじゃ……アキラ?」

 アーサーはアキラの頬をつつく。アキラは机に頭を置いて寝息を立てていた。

「嘘だろ、禊以上に酒に弱いやつがいたとは……」

「いや待って、禊はまだ数口だけど、この子ひと缶飲み切ってる」

「あ~? 何、もう終わり?」

 全員でアキラを持ち上げ、部屋に運んだ。

「主役寝ちまったし、俺らも寝るか~」

 禊があくびをしながら言うと、一同は賛成と言いながら洗面所に向かった。




 誰も寝静まった頃。

「真尋さ……!」

 アキラが飛び起きる。しんと静まり返って暗い部屋に違和感を感じ辺りを見回した。

「あぁ、そうか。もうムショじゃないのか……」

 鼻をすすり、歯を磨いてないと気づいて洗面所に向かう。誰も寝静まっていたため、リビングもダイニングも電気が消えていた。だが今夜はとても明るい満月だったため、電気をつけなくとも窓からの月明かりで十分だった。

(それに、夜中に電気つけるのは失礼だよな……)

 ダイニングテーブルに籠が置かれているのに気づいた。籠には「宮崎アキラ」とペンで書かれており、その中に日用品や2千円ほど入った封筒が入れられていた。アキラは背中をボリボリとかきながら洗面台の前に立って歯を磨く。

(やっぱり、あんなに賑やかでも、夜中は静かか……)

 うがいをして、籠の中に歯ブラシを戻す。部屋に戻ろうとした時、窓から綺麗な青い月が見えた。

「月ってこんなに綺麗なのか……」

 籠を机の上に置いてソファーに尻を投げ出した。背もたれに大きくもたれて月を眺める。

「こんな死にぞこないの、価値も無い僕でも存在していいんだ……」

 大きくため息をついて目を瞑る。

「何ならこの幸せのまま――」

 細く開けた視界に見える月が、水面の月のように歪んで曲がって震える。月に黒い雲が近づく。

 小さくドアの音がして、裸足の音が階段を下りた。真尋は目を擦ってダイニングに降りる。ふと、リビングのソファーに誰かが座っているのが見えた。声をかけようかとも思ったが、眠りの邪魔をしてはならないと思いそのまま通り過ぎようとした時、

「んっ、んぅ……」

 聞き覚えのある声だった。急いで振り返ると、黒い髪を垂らして白い手をアキラに向かって伸ばしているのが見えた。真尋はそれが何かすぐに分かった。息を吸おうとすると気道が潰されたようにうまく吸えず、足は床に埋まったように動かなかった。あの時の世界旅行の感覚が蘇る。

 だがそれ以上に、宝物が奪われるのを見過ごせなかった。重い足を持ち上げ、軋む関節を曲げ、一歩踏み出す。床に足をつけた途端、始めるように体がその方に向かって走った。ほんの数メートルだが、100m以上にも感じられた。必死に走って走って、手が触れるよりも前に着かなければ。そしてアキラに向かって手を伸ばし、首を掴むと頭の上から覆いかぶさった。そして目の前の恐怖に向かって目を光らせて睨みつけた。

「やめろ!!!!」

 白い手はゆっくりと離れて行く。長い黒髪の間から白い顔が現れ、大きな黒い目がぎょろりと真尋を捉えた。

「やめろ? それは俺に言っているのか?」

「お前意外に誰がいるんだ! 私はお前を知っている。千早などと名前を付けられて可愛がられているが、お前はそんな可愛い存在じゃない!」

 その言葉に千早は目を見張ると、高らかに笑いだし、

「可愛がられている! そうかそうか、お前にはそう見えるか。だがお前は俺が何なのかわかっていないな」

 細く長い、骨のような人差し指を向け、

「お前が散々嫌ってきたものだ」

 その言葉に真尋は全身の毛が逆立った。

「そう、そして今まさにそれはお前の腕の中のそいつに訪れようとしていた。だが残念、お前がそれを邪魔してしまった」

「お前には残念だろうが、私とアキラくんには幸い以上のなんでもない」

「本当にそうだろうか?」

「何だって言うんだ。アキラくんは生きる事を望んでいる」

「本当にそうだろうか? 小娘、今までコイツが何を想い何を考え何に苦しんで生きてきたかわかってるのか?」

 真尋の睨みつける目が緩んでいく。真っ黒い目は全てを吸い込むようで、ぬめったその目玉は全てを映しているようだった。

「……私……?」

「お見事!」

 千早は手を叩いた。

「そいつはそれを望んだ。だからこうしてその望みをかなえてやっている。彼の望みなら、さすがのお前も無下にしてやれないだろう?」

 真尋はうつむいてアキラを見つめた。痩せた顔は頬骨が少し出ており、目元にはあの頃よりシワが多かった。自分と違って、アキラには時間が有限だった。

「もしかしたらその時が今訪れたのかもしれない。さぁ、運命の歯車は俺に時を知らせた。蝋燭の長さはもうそうない。どうする? 今ここで免れても、彼はまた一日長く苦しむだけだ。また一日泳ぎ続けなければならない。ほら、早く楽にしてやりなよ。かわいそうだよ。俺を望んだ君にならわかるだろう」

 真尋は目に涙をためて千早を見た。何も言えなかった。色々考えを巡らせるが、アキラが望んだ、という言葉が口を塞いで思考を止めた。

「それとも、お前が代るか? お前の無限の魂をコイツに埋め込み、お前が死んでやる。そうすればこいつは永遠に生き永らえれる。先ほどのように仲間たちと楽しく生きて、今までの人生を何億倍も報える!」

 真尋はじっとアキラを見つめた。ここで代るべきか、そのまま楽にしてやるか。

 ふと、あの恐怖の中に一つ、見覚えのある者があることに気が付いた。震える手でアキラを強く抱きしめ、

「彼は一つ、大きな罪を負った事をお前は知ってるか?」

 顔を上げ、黒い目に映るアキラを睨みつけた。

「私を見殺しにした罪だ。救えたはずなのに臆病さに従って身を隠し、自分の汚い欲を飲み込んだ! そしてボロボロになった私に何事も無かったように、欲に塗れた手と目で声をかけたんだ。大丈夫? って! 全部見てたくせに! 全部見て私が苦しんでいるのを可哀想だと思ったくせに! 助けなきゃって思ったくせにお前は!」

 真尋の口から飛んだ唾が千早の頬につく。千早はそれを長い舌で舐めた。

「お前はまだ死んで楽になるには早いんだよ……お前の刑期は終わってない。私が苦しんだようにお前も生きて苦しめ!」

 真尋は唇を噛んで強く睨んだ。歯が薄い唇に食い込んで血が流れる。

「驕るなよ人間!」

 千早は腕に力を籠めると、白い右の大腕と黒い左の大腕を露にした。真尋は恐怖に倒れそうだったが、必死に足に力を入れてアキラをソファーから引っ張り上げた。そして胴を抱きしめてその場を逃げ出そうとした。鋭い指先が近づいてくる。

「いやだ! アキラくん、死んじゃいやだよ!」

 真尋は涙を流してぐったりしたアキラを抱きしめた。黒い影が覆いかぶさる。黒い雲が月を隠す。

 だが途端、真っ白い光が影を照らした。目を刺すほど眩しいわけでもないが明るい、温かい光だった。千早は驚いてのけ反ると、たじろいで後ろに下がっていく。白い光は人の形を成すと、白い布をなびかせ、海のようなスカートを翻して両手を広げた。アキラと真尋の頭上に部屋いっぱいの金の歯車が現れ、ガチャガチャと重い金属の音を鳴らして組み代っていく。そしてそれはアキラの中に吸い込まれるように消えると、アキラの鼓動を鳴らし始めた。体中に温かい血が流れ始め、安らかな呼吸が聞こえ始める。

「アキラくん……っ」

 真尋はアキラを強く胸に抱きしめた。

 千早は慄いた顔で身をかがめ、黒い靄の中に消えると煙のように姿を消した。

 白い光の人は真尋の方を向くと、アキラの頬を撫で、真尋の頬に口づけをした。ふと、光の中に柔らかい微笑みが見えた。白く雪のように乗っかる長いまつ毛に、燃えるような赤い目。優しく微笑んだ瑞々しい桃色の唇。

 光は小さくなると、月明かりの中に溶けて消えた。

 真尋は何が起こったのかわからす月を見上げていた。するとアキラは目を覚まし、頭を抱えて起き上がった。

「ん……はっ、真尋さ……! ごめんなさい! 今、離れますから――」

 急いで立ち上がろうとした時、真尋に手を引かれて首に抱き着かれた。アキラは何が起きたのか全く分からなかった。

「真尋さん、どうしたの?」

 抱きしめ返すべきか迷った。だが耳元にかすかに聞こえる嗚咽に気付き、アキラはそっと真尋の細い体を抱きしめ包んだ。

「もう、僕がいるから。一緒なら怖くないから」

 真尋に頭を傾け、大きな手で背中をさすった。

「誰も花を潰さないから」

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