第三十一話 外された柵
冬が始まり、町がクリスマス色に染まり始めた頃。
何人もの囚人が機械を動かし作業する中、ひときわ大きな物音が室内に響いた。看守が音の方にやって来る。
「常森カイト、何をしている」
看守の目が、坊主頭の眼鏡の男性にギラリと向けられる。常森と呼ばれた男性は落とした製品を急いで拾い、
「す、すいません……」
「お前、前も同じ失敗したよな」
「すみません……」
「いい加減覚えろ」
常森は身を縮めて小さく返事をした。製品についたゴミを手で払い落とし、作業を続けようとした時、横から手が伸びて製品の入った箱を奪った。常森は驚いて顔を上げると、
「これ、先にこれやっておくと楽ですよ」
顎に髭の残る、髪の伸びた男がそう言ってやり方を見せてくれた。男は製品をラインに流すと、自分の持ち場にすぐ戻った。
作業が終わり、休み時間になった時だった。常森は何かを探しながら廊下を走って、何かを見つけると、
「あの、宮崎さん!」
背を丸めて廊下を歩く男は立ち止まった。
「宮崎アキラさん、ですよね。先ほどはありがとうございました」
常森は丁寧に頭を下げた。アキラは横顔だけ見せると、
「うん」
それだけ言って廊下を歩き始めた。常森は急いで追いかけると、
「あの、これからお昼ですし、一緒にどうですか?」
「構いませんけど……」
2人は食堂に向かった。
「あの工程、ホント難しくって。私、不器用なんで本当に苦手なんですよ」
「なら、半分ほどやって、後は僕の所に流してくれて構いませんよ。こっちの作業はかなり暇ですし」
「宮崎さんって器用ですよね。さっきの作業見てて思いました」
「いえ、そんな褒めるほどでもありませんよ。前の仕事と似たような事だったので慣れてるだけです」
「前のお仕事は何を? 私は会社員だったんですけど、母の介護のために仕事を辞めまして」
「……工場勤めです」
「へぇー、機械が担うのがほとんどなのに、今でも人の手でやるところってあるんですね」
「まぁ、そうらしいですね」
アキラはスプーンにこんもりとカレーをすくうと、口を大きく開けて頬張り、ゆっくりと噛んでいく。対して常森はパクパクとカレーをテンポよく減らしていく。食事が終わり食道を出た二人は、
「それじゃあ、僕はこっちなんで」
アキラがそう言って廊下を曲がろうとすると、
「あの、私もそっちです」
常森が追いかけてきた。
「雑居房ですか? 近い雑居房だといいですね」
「あれ、宮崎さんもしかして覚えてませんか?」
「何をです?」
アキラが自分の雑居房の前で足を止めると、
「私、同じ雑居房ですけど……」
常森が困った表情で笑う。アキラは顔を赤くして目を見張った。
「まぁ、仕方ないですよ。宮崎さん、人と関わりたくないようでしたし。いつも部屋の隅で小さくなってますから」
「すみません……気が小さいもので、他人と関わって疲れるのが嫌なんです」
「あっ、私と関わって疲れるのであれば、遠慮なく距離置いていいですからね!」
「いえ、大丈夫ですよ。常森さんとはむしろ話しやすいです」
その言葉に常森は恥ずかしそうに微笑んだ。
それから二人は何かあれば一緒にいるようになった。
「――それで、その時の友人の顔がすごい面白かったんです!」
「へぇ、どんな顔だったんです?」
「こんな」
常森は鼻の下を伸ばして目を見張った。アキラは両手で口を隠し、
「何ですかそれ」
背中を丸めて笑った。
二人で喋りながら廊下を歩いている時、アキラの肩にある青年の肩がぶつかった。
「あっ……すいません」
アキラが咄嗟に頭を下げると、青年は少し驚いた顔で、だがどこか怯えた様子で身を縮め、
「あっ、は、すすすみません」
逃げるように去って行った。
「すごい怯えてましたね。トラウマを持ったタイプの囚人なんでしょうか」
そう言って常森がアキラの方を見ると、
「小鳥遊さん……」
「え? タカナシ?」
「えっ……いや、なんでもないです」
アキラは表情を曇らせて顔を反らした。
免業日は仕事も無く一日自由に過ごせるため、2人は庭を散歩していた。建物の裏の方に着た時、人の争う音が聞こえてきた。アキラが物陰に隠れて覗き見ようとすると、常森が腕を引き、
「止めに入るのはやめた方がいいですって……! ほら、看守さん呼びに行きましょうよ!」
それでも言う事を聞かないアキラに、常森は渋々一緒に覗き見た。
「やめ……やめて、くだ……いたっ」
一人の細い青年が複数の男に囲まれて暴行を加えられていた。
「お前身売りをしていただろ? コイツが見た事あるって言うんだよ」
「あぁ、見た事がある。一番安い額でやってたろ」
「なぁ、俺らの相手もしろよ。いいだろ同じ雑居房の吉見だろ」
男たちの手が青年の服を掴んだ。
ふと、アキラの脳裏に古い映像が流れた。痩せた枝のような手足に、咲き誇った枯れた花。熟れた実から滴る膿と、それに集る赤虫。それら全てを包む白いガーゼ。そして、その花を踏みつけ、汚し、傷つける人間の手足。
青年の目が重なった。大きく見開いた、全てを見透かす臙脂色の目。
「宮崎さん、看守さん呼びましょうって! ……宮崎さん?」
アキラの鼓動が深く、大きく、早く体に響いていく。呼吸が短く浅くなっていく。沸々と心に淀んだ液体が流れ込んでくる。
重い体はその時ばかりは酷く軽く感じられた。いくらでも早く走れる気がして、いくらでも高く飛べる気がした。小さなこぶしも銃弾のようにぶつけられると感じた。
アキラの手が男の一人を掴み、拳が顔に直撃した。
「宮崎さん!」
常森が手を伸ばすが、届くはずもない。急いでその場から飛び出して看守を探す。近くにいた看守に向かって叫び、急いでアキラの元に戻った。
「お前たち、何をしている!」
男たちの手が止まる。アキラは青年を胸に抱きかかえ、男に胸ぐらをつかまれていた。
「――今回は正当防衛と見て特におとがめは無いけど、次はもう無いからね」
年長の看守はアキラに強く言いつけた。アキラは身を縮め、小さく返事をした。
「にしても、誘拐犯の君が子供を……といっても、彼はもう成人か。彼を守るとは意外だね」
「そうですか……」
「君がどういう目的で誘拐したかは知らないけど」
看守は立ち上がりドアを開け、部屋を出るよう促した。
顔に大きなガーゼを貼ったアキラが自分の雑居房に戻ろうと廊下を歩いていると、雑居房の前に常森と先ほどの青年が立っていた。
「宮崎さん! もう、あんな無理しちゃダメですよ! ケガの方は大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
アキラは青年の方を見る。青年は細い体を抱えて、顔色を窺うようにアキラと目を合わせると、
「あの、助けてくれて……ありがとう、ございます」
小さく頭を下げた。
「いえ、いいです。僕が勝手にやったことですから」
アキラはそう言って雑居房の中に入った。常森も青年の肩を軽く叩いて中に入った。
それからまた別の免業日。
アキラがベンチに座ってうたた寝をしていると、隣に人の気配を感じた。常森だろう、とアキラは特に気にしなかったが、手に触れてきた手は常森に比べて細く小さかった。常森はもう少し太くて短い指をしていた。片目を開けてその方を見て、アキラは飛び起きた。青年も驚いて立ち上がると、
「ご、ごめんなさい! その、何でも無いんです!」
急いでその場を離れようとした。アキラは服を掴んで引き止めると、
「少し、話をしませんか……」
自分でも何を言っているのか疑った。青年は大人しく隣に座って身を縮めると、
「月見里 直、20歳です」
「宮崎アキラです……37」
二人の間に沈黙が流れる。話をしようとは言ったが、何も話すことが無くてアキラが焦っていると、
「人を、刺したんです」
直が話し始めた。
「高校時代からよくいじめられてたんですけど、その時のイジメてたやつの何人かが、大学にいまして……大学でもイジメが続き、エスカレートして……耐えきれず、刺したんです」
直は膝を抱えて顔を伏せた。アキラは自分も言うべきかと迷ったが、そっと口を開き、
「僕は、好きな人の子供を誘拐しました。元々面識のあった子供なんですけど、気が動転して、腕を掴んで走って森の奥に……何かしようとは思いませんでした。そんな度胸、僕にはありませんから……。でも、相手の保護者は相当怒っているようで」
「そりゃ、保護者からしたらそうでしょうね」
アキラは胸に言葉がグサリと刺さる音が聞こえた。
「まぁ、本当の事やその時の気持ちをいくら話そうが、結局全部言い訳でしかなくて、誘拐したことに変わりは無いんですよね……未遂であったとしても」
アキラは深いため息をついた。すると直はアキラの手に触れ、
「じゃあ俺を、さらいませんか?」
「え? いや、何言ってんの……?」
直は唇を噛み、
「何でもないです」
そう言って逃げるように去って行った。
年が明け、冬の終わりが見えてきた頃。
アキラと常森が湯船に浸かっていると、そこに見覚えのある影が近づいてきた。
「あっ、直くん!」
常森が目を細めてそう言った。直は首をかしげて楽しそうにクスクスと笑うと、
「常森さん、メガネ無いと別人ですね。今、見えてます?」
「全っ然!」
その言葉に尚、直は笑いながら湯船に浸かる。常森は自分の頭を撫でながら、
「そういえば、明日は散髪の日ですね。直くんは切る?」
「いえ、俺はまだ。アキラさんはどうします?」
「僕は……まだいいかな」
「結構襟足長いですよね。伸ばしてるんですか?」
「まぁ、うん。ちょっと思い入れがあって」
アキラは濡れた髪を後ろに流して湯船に口元を漬けた。
「アキラさん、イケメンですよね」
直が首をかしげ頬を染めてそう言うと、常森はアキラの顔を掴んで顔を近づけ、
「本当だ、確かにそうですね!」
「ちょ、ちょっと、常森さん」
「目が切れ長ですし、眉も太くていいですね! 私は眉毛薄いですし、昭和顔ですし。学生時代は和尚さんなんてあだ名付けられてましたから」
直と常森は楽しそうに笑った。そこに入浴時間終了のブザーが鳴り響いた。
三人は少し残念そうな顔で湯船から上がった。その時、直の背中に彫られた、散り行く紫と黄色と赤い花を見て、アキラの心臓がズキズキと痛んだ。
ある真夏の昼食時だった。常森は家族が面会に来ていたため、この日はアキラと直の二人で食事をとっていた。
「常森さんがいないの、ちょっと新鮮ですね」
「そうだね」
だがおしゃべりな常森がいないと、どうにも二人の間に沈黙が流れてしまう。アキラが何か言わねばと思い、窓に目をやって口を開いた時、
「俺、バイセクシャルなんです」
「え?」
「だから、アキラさんの事、いいなぁって、好きだなって思ったんです」
アキラの手から箸がこぼれ落ちた。直は耳まで赤くして顔を伏せていた。アキラが何か言おうと声を出した途端、直は食器を持って急いで席を立った。
あれは何だったんだろうとアキラは考え込みながら刑務所内をウロウロしていた。その言葉の意味は愛があっての事なのか、それとも友愛なのか、ただ仲間として、人として好めるってだけの事なのか……。だが彼はバイセクシャルと言っていた。バイってのは両性愛者だと聞いたことがあるが、つまり彼の言う好きの意味はつまりは――。
アキラの足が止まる。
「いやでも、僕にそう言った趣向は……」
髪をぐしゃぐしゃとかき回した。でも待てよ、彼はかなり彼女に似ている。大きな目や、細い体、首をかしげる仕草など、もはや性別を変えた彼女そのものじゃないか? だとしたらこれを断るメリットがない。
「僕は、同性愛者になれという事か……?」
アキラは頭を抱え始める。
「いやいやいやいやいや、無理だろそんな……。いやだがここで断っては彼の気持ちを無下にすることに……社会的にも別におかしな話ではない。いやだとしても、こんなオッサン相手に……それに彼女にどんな顔を向ければ……。まず彼女に会う事なんてあるのか?」
アキラは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「どうしろって言うんだ――」
「こうすればいいと思うんです」
後ろからそう声がふわりと聞こえてきた。何かと思い振り返ろうとすると、顔を掴まれて地面に押し倒された。
「な、何!?」
「そういう苦悩も何もかも、捕らわれない方法、知ってますか?」
細い手がアキラの首を撫でた。目の前の大きな目に捕らわれ、一切身動きができずにいた。
「身を委ねてください……俺、こういうの慣れてますから……大丈夫、痛くないですから」
「な、何をしようと……」
「何って、言わせるんですか?」
細い首が重い頭をガクンと倒して首を傾げた。赤くなっていく空が眩しくて、顔が黒く染まってよく見えなかった。
枯れた花の細い枝が手首をつかみ、指に絡みつき、腹の上で荒い呼吸を溢していた。火照った体をくねらせ、小さい口が生気を吸おうと近づく。
あの白い顔がぼんやりと見えた。臙脂色の目に、枯れた花の色。
もう二度と会えないかと思っていた。けどこうしてもう一度触れることができた。
「アキラさん……」
細い手が下腹部に伸びる。なされるままに体を任せ、枯れ花の肩に手を伸ばした。花を食べてしまおうと口を開いた時、
「私が一度でも君を名前で呼んだことある?」
臙脂色の目がまっすぐに見据えてきた。
アキラは急いで起き上がった。そして目の前の花のふりをした何かを突き飛ばした。
「違う、お前は彼女じゃない! 彼女は僕の名を呼んだことなど一度も無い!」
そう怒鳴って立ち上がると、足元に怯えきった顔の直がこちらを仰ぎ見ていた。
「彼女はそんな目で僕を見ない……!」
そう言い捨て、アキラは走って逃げた。
その夜。
「見てください、宮崎さん。兄から写真を貰ったんですよ。姪っ子なんですけど。これ去年のなんですよ。子供の成長って――宮崎さん?」
「うん」
アキラは寝転がって背を向けたまま、一切興味を示そうとしなかった。常森が寂しそうに背を向けると、
「常森、何か貰ったのか?」
同室の男性が興味を示した。
「兄から姪っ子の写真を貰いまして。今日、兄が面会に来てくれたんですよ」
「へぇ、名前は何て言うの?」
「それはちょっと……」
すると別の若い男性がやって来て、
「おぉ、ちょうど俺の娘と同い年くらいだな! 8歳か?」
「そうです! 娘さんいらしたですね」
「おうよ! 週に一度面会に来てくれるぜ」
「子供って可愛いですよね~」
「この前娘がよ、俺に手紙を書いてくれて――」
常森たちが盛り上がる声を、アキラは石のように冷めきった心で聞いていた。
『おじさん!』
懐かしい声が聞こえてきた。他人の娘ではあったが、ほんのひと時、自分に親のような感覚を味合わせてくれた。
「どこで踏み間違えたんだろうな……」
そう呟き、アキラは体を抱きしめて小さくなって布団をかぶった。
雑居房にいびきが聞こえ始めた頃。
暗闇の中に月明かりに照らされてぼんやりと浮かぶ白い肌が見えた。痩せた骨に柔らかい肌が纏わりつき、その上に咲き誇る枯れた花。
『委ねていいんだよ』
力ない、弱々しい声が聞こえてきた。
『楽にしていいんだよ』
細い白い手が肌を撫でた。
『泳がなくていいんだよ』
小さく薄い唇が三日月型に微笑み、自分の唇を銜えた。薄い舌が伸びてきて、自分の体内の黒い部分を舐める。そっと手を伸ばして抱き寄せようとした時、
「みんな死んじゃえ!!!!」
その高い叫び声に飛び起きた。荒い息に汗が流れる。冷えた部屋の冷気が煮え立った血を静かに冷ましていく。そんな荒くれだって逆立った自分の心とは裏腹に、辺りは酷く青色で、冷たく、静かで、低い寝言といびきだけが聞こえていた。その冷たさに心の棘が撫でられ大人しく寝かされていく。
ひとつ、深くため息をついた。まだ時間はある。もう一度眠りにつこうと股の間に手を置いた時だった。
こつん、と硬いものが腕に触れた。ズボンの真ん中が膨らんでいるのが見えた。悪魔の角が水面下から飛び出し、欲望のままに委ねよと囁いた。だがそれは悪魔でも何でもなくて、ただの自分の汚い欲と愚かさそのものだった。血流が止まり、逆流し始める。早く早く流れ始め、折角冷めた血はまたぐつぐつと煮え始めた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁ!!!! クソォ!!!! クソがあああああ!!!! 死ね!!!! 死んでしまえええ!!!!」
途端の断末魔に誰もが眠りの海から顔を上げた。
常森も飛び起きて眼鏡をかけると、目の前の光景に肝が冷えた。薄暗くてもわかるほど、壁にはべったりと黒いものが付着していた。そして何より、この平常であったはずの空間に、悪魔が降り立ったのかと思うほど異常な状態が目の前にあった。
壁に頭を打ち付けていた。爪が壁を引っ掻き、嗚咽が耳を舐めた。
常森はその悪魔が憑りついたのが誰なのかがすぐわかった。
「宮崎さん!」
常森は急いで飛びついた。胴に抱き着いて壁から引きはがし、胸の上に乗って押さえつけた。
「離せ!!!! 離してくれ!!!!」
「落ち着いてください宮崎さん! どうしたんですか!」
騒ぎを聞きつけた看守が駆け込んでくる。どうにか押さえつけようとするが、血が辺りに付着したせいで手が滑ってすぐ逃げられてしまう。すると囚人の一人が立ち上がり、拳を腹目がけて打ち付けた。アキラは苦しそうな声を漏らすと、咳き込んで床に倒れた。
白い天井が見えた。知らない天井だった。青白い蛍光灯がじっとこちらを見下ろし、冷ややかに嘲笑うように照らしていた。蛾が一匹、そんな蛍光灯を攻撃するように何度も体をぶつけていた。自分の気持ちを代わりに成しているようにも見え、蛾に対して申し訳なくも思えてきた。
「おや、目が覚めたか」
しゃがれた声が横から飛んできた。横を見ると、医務室のじいさんがニコニコしながらこちらに近づいてきた。触診をし、
「起きれますか?」
アキラは小さく頷いた。上体を起こし、自分の手を見た。手のひらに包帯が巻かれていた。やけに視界が見えにくいと思い顔に触れると、顔にもガーゼが貼ってあった。そして何より、頭を締め付けるものがあった。そっと手を伸ばすと、
「まだ外しちゃダメですよ。一応縫合しましたけど、くっついてませんから」
「あの、これは何ですか? 僕は何でここに……」
「おや、覚えてらっしゃらないんですか?」
じいさんは小さい目を見開いた。
「昨晩、あなたは発狂して暴れてたんですよ。壁に頭を打ち付けて、頭皮を大きく切ってました」
そう言いながらじいさんは丸椅子に座るよう促した。アキラはじいさんと向かい合って座る。じいさんはカルテを取り、
「どこか痛みとかはありませんか?」
「とくには無いです……」
「体調は?」
「いつもと変わりなく……」
じいさんは少し考え、
「一つね、これちょっと聞きにくいんだけど……」
じいさんはアキラの股に視線を落とし、
「ちんちんが怪我してたけど、そう言う趣味をお持ちの方?」
途端にアキラは耳まで真っ赤にして背を丸めて縮こまり、強く首を横に振った。
「そう、ならいいんだけど」
じいさんはアキラの頭を撫で、
「今までつらかったろう。君は相当なトラウマを持っている。そのせいで昨晩のようにフラッシュバックか何かを起こして暴れ回ったんでしょう。大丈夫、明日から独房ですから、一人で静かに過ごせますよ」
じいさんは優しく微笑んだ。
「ありがとう、ございます」
アキラはいつもの暗い顔で頭を下げた。
独居房にも慣れた頃、常森と直が顔を見せに来てくれた。
「なんだか快適そうですね」
常森は笑わせようと思いそう言った。アキラは最初嫌味かと思いムスッとしていたが、常森の気持ちを理解してそっと微笑んでやった。それから少し会話をし、アキラと常森は楽しそうに笑った。直は特に何も話さず、ずっと常森の後ろにいるだけだった。
「それじゃ、時間なので戻りますね」
常森はそう言って直と去って行った。それ以来、常森も直もあまり顔を見せなくなった。
それから幾分か経ち、アキラの釈放の日も近くなった頃。
柵の付いた窓からは桜のつぼみが見えていた。
「もう春か……はやいな」
アキラは渡された仕事をしながら窓を見た。ここを出たら何をしようか、まず何が食べたいかなどと考え始めた。
「春だし、道明寺が食べたいな。実家の近くの和菓子屋、まだやってるかな」
頭上にピンク色の道明寺が浮かび上がる。しっとりとしたこし餡と、それを包む半殺しのもちもちとした米の皮、黄土色の混ざった緑の桜の葉のパリッとした触感。ニコニコしながら考えていると、
「宮崎アキラ、面会だ」
急に飛んできた声に美味しそうな道明寺がかき消されてしまった。少し残念そうに思うのと同時に、こんな時に誰だろうかと考えを巡らせた。あぐりか? それとも縁を切った家族か? また別の知らない顔か……。弁護士だったらどうしようか。
不安に思いながらも面会室に恐る恐る入った。パイプ椅子に座ると、前面ガラス張りの向こうに一人の青年が立っていた。その隣に、帽子を深くかぶった女が椅子に座っている。
アキラには全く見覚えのない二人だった。少なくとも青年の方は一切見た事が無い。すると青年は口を開き、
「初めまして、アークィヴンシャラの矛盾代表、五月雨と申します」
「は、じめまして……」
「早速ですが、貴方を引き取りに参りました」
「ひ、引き取る?」
「矛盾により被害を受けた方々のケアとサポートをしようと考え、えー……」
禊が言葉を探していると、隣に座った女が袖を引き、
「いいよ、もう。説明は後でするから」
そう言って帽子を取った。頭を揺らして手櫛で髪を整えると、まっすぐアキラの目を見据えた。アキラは思わず立ち上がり、
「あ、あぐりちゃん……? ハハ、何でわざわざ……今更」
「バカじゃないの!?」
大きく目を見開いて強く言われ、アキラは思わず椅子に腰を下ろした。
「ば、ばか!?」
「私の顔も忘れるほどあの子が好きなんだ。ふーん!」
その目の色、背の丈、体格、仕草……全てまさにずっと十何年も求めていたソレそのものだった。
アキラは目を見張ると、急いでその方に向かって走り出した。だがすぐに二人を隔てるガラスに額をぶつけて足元に倒れた。
「た、小鳥遊さん!」
「私はそんな忌々しい苗字じゃない……!」
「真尋さん!」
真尋は満足そうに微笑むと、床に膝をつき、
「久しぶり。なんだ、元気そうだね」
ガラスに手を置いた。アキラもガラス越しに真尋の手に手を重ねると、急いで後ろに下がって額を床にこすりつけ、
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 許して……いや許さなくていい! 許さなくてもいいから、僕を……僕を制裁してくれ。僕を楽にしてくれ……!」
真尋は冷ややかな目で見下ろすと、
「何で君が先に楽になろうとしてんの。ふざけないで。私がこれだけ苦しい思いしたのに君は先に楽になろうって? しかも望んだ形で? じゃあ今すぐあぐりちゃんを誘拐した件でもう一度裁判起こして死刑にしてやってもいいよ」
アキラは急いで顔を上げる。すると真尋はクスクスと笑いだし、
「本当、君って面白いね。全然変わってない」
「き、君もあの頃と全然……」
「私は変わったよ、君とは違うんだから」
「す、すいません」
真尋は満足そうにため息をついて立ち上がると、
「選んで。このままここを出て今までの暮らしに戻るか、私の元で住み込みで働くか。今ベビーシッター欲しいなって思ってたんだ」
「は、働きます」
「本当に? とってもつらいよ? 死ぬ方が楽だよ?」
「き、君の側で死ねるのなら本望だ!」
アキラがそう強く言うと、
「よし、決まり。じゃ後で手続きとかするから、荷造りして。家に帰るよ」
「え、帰るって……」
「私の家だよ。君の部屋も用意したんだけど。私の努力を無駄にするの?」
アキラは必死に首を横に振った。
独房に戻り、荷物をまとめる。そこへ常森が走って来た。
「常森さん……まだ仕事の時間でしょう?」
「無理言って5分だけ時間貰って来ました……!」
常森は荒い息を整えながら、
「最後に、宮崎さんにだけ言っておきたくて……! 私の罪は、殺人罪です。私は三人兄弟の末です。要介護者である母の介護を兄弟の誰もが嫌がり、私は仕事をしながら介護していました。ですが仕事との両立が難しくなり始め、仕事を辞めて母と暮らすようになりました。けどそのうち貯金も底を尽きて……国からお金を頼ろうとしたんですけど、それもダメで。ある日、母が私に消えそうな声で言ったんです。苦しい。死にたい。死んでカイちゃんを楽にしたい、って……」
「常森さん……」
「刑期は少し軽くしてもらえましたが、殺人罪であることに変わりはありません。正解って何なんでしょうね。母の望んだとおり、母をあの世に送り出しました。私も後を追おうとしたんですけど、勇気が無くて……親不孝者ですよね」
アキラは常森を強く抱きしめた。常森は一瞬強く抱きしめ返すとすぐに離れ、涙を袖で拭い、
「私、行きますね。また看守さんに怒られちゃいますから」
床に張り付いた足の裏を引き剥がして、走って廊下の向こうへ向かった。常森は振り返りながら、
「またどこかで! ご達者で!」
手を振って廊下の向こうに消えた。
アキラも常森の消えた廊下を見つめ、
「十分親孝行できたと思いますよ……」
小さく手を振った。
そして紺色の分厚いミリタリーコートを羽織り、鼻をすすって独房を出た。
門の横に佇む桜のつぼみの下をくぐり、一切振り返る事無く、アキラはまっすぐ歩き出した。




