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第二十八話 月の夢

 フッと瞼が開く。先ほどまで白い世界にいた気がするが、目が開く直前の視界は黒かった。

 まぁそんな事はさておき、ここはどこだ? UPO……だと思うけど、UPO後期にしてはやけに古いと感じた。それに、狭い。そうか、ここは前期の頃の、UPOという名前に変わる前の――。

「要! どこ行った!」

 小町の声が飛んできた。何かと思い振り返る。相変わらずの鬼のような形相で小町はこちらに向かってきた。やぁやぁ、あんまり眉間にしわ寄せるとしわが取れなく――。

「ここだよ、お魚さん」

 僕の声だった。いや、僕は何も答えてない。なのに何故? 背後を振り返ると、そこにはまぎれもなく僕がいた。白衣を着た僕が。

 小町は僕をすり抜けて目の前の僕の前に立った。

「休憩時間は終わっとんぞ!」

「待ってよ、このコーヒー飲んでから」

「さっさと戻って来い。被検体が泣き止まないんだよ」

 小町はイライラした様子でため息をついて髪をかき上げると、

「シャワー浴びてくる」

 二徹目の顔を手で擦りながらどこかに行った。

 目の前の要はカップに残ったコーヒーを飲み干してその場を離れた。僕は急いでその後を追った。

 あぁ、よく覚えている。ここは3番廊下。この時のUPOは後期に比べて半分ほどの大きさだった。ふと、掲示板に貼られたカレンダーに目が止まった。1987年……ここに来て6年ほどたった頃だ。丁度バブル期に入って間もなかったため、この頃のUPOは成長が急速に伸びていた。廊下をすれ違う職員の恰好は正に時代を反映していて、特に特別な役割の職員でない限り服装は自由だったため、大きい肩パッドの入ったジャケットや、薄くした前髪、髪の長い男性、そして顔の大きさほどある携帯電話。あぁ、どれも懐かしいな。この頃の僕はというと、服に頓着が無かったから禊に選んでもらってたな。だから普通にスーツとジャージくらいしか持ってなかった。

 要がやって来たのは実験室の一つで、その中でも重要で研究者くらいしか入れない場所だった。重厚なセキュリティを解除していき、一つの白い部屋に入る。壁には白いパッドが貼られていた。部屋に入ると一人の子供がおもちゃに囲まれて座っていた。子供は振り返ると、僕の顔を見て笑顔で駆け寄って来た。いや、要に駆け寄った。

 その子供は白い髪と、藤色の目をしていた。僕と同じだった。

「どうだ、元気にしてるか?」

 後ろから聞き覚えのある声がして振り向いた。翡翠色の目に、長い髪を後頭部でヘアクリップでまとめた、痩せた男――禊だった。

「うん、骨も固まって来てる。関節もちゃんと動くようだよ」

 要はそう言って子供を禊に渡した。すると子供は禊を押し退けるように顔を反らした。禊が嫌いなのか? だがその顔色はそんな事なく、行動に反していた。赤く染めていた。

「なんだよ、そんなに嫌か?」

 禊は子供を置くと、要と仕事の話をしてすぐにその場を去った。

 そして要は子供の方を見ると、足元に転がるボールを持ち、

「何して遊ぼうか、三宮サンノミヤ

 その名前に驚いた。その名前は僕ら兄弟の生前の名前じゃないか。そんな忌み名を名付けるなど、お前は……。そうか。ぼくはこの子を兄弟のつもりなのか。だから三宮なんて名前を付けたのか。

 しばらく要と三宮の戯れを眺めていた。

 この子はどうやら被検体らしい。。なんの実験化はわからないが、この子の外見から矛盾の実験だろう。よく見れば、この子の髪の隙間から羽が所々生えている。白い髪や藤色の目から察するに、僕の遺伝子を移植させたんだろう。じゃあこの子はどこの子なんだ? 生まれてから移植させたのか、細胞分裂の時点で移植させたのか、それとも……。

 廊下に出てみた。すると近くで研究者の二人が雑談しているのが聞こえてきた。

「なあ、あの被検体の子供って誰なんだ?」

「さぁ、どこの子供でもないらしい」

「それじゃあ拾ってきたのか?」

「蒼月さんの細胞から作られた、とは聞いたけど」

「クローンみたいなものか?」

「さぁ」

 クローンなら可能性が高そうだが、顔があまりに似ていない。だとするとこの子は僕の細胞と誰かの細胞で作られたという事になる。

 色々考えにふけっていると、

「要さんっ」

 後ろから可愛らしい声が聞こえてきた。薄紫色のワンピースを着た、眼鏡に三つ編みおさげとそばかすという何とも芋っぽい娘だった。娘は要に近寄り、頬を染めて話しかけた。

「三宮ちゃん、今日も元気ですね」

「うん、発作もないよ」

「よかったです……! じゃあ今日は普通のご飯が食べられますかね?」

「どうだろう。一応流動食にしておこう」

「わかりました」

 娘はそう言って部屋を出て行った。ふと、足元に何かが落ちているのが見えた。社員証だ。拾い上げようと思ったが、指先がカードをすり抜けてしまった。そうか、この世界では僕は空気でしか無いんだ。すると要が手を伸ばしてきてカードを拾い上げた。要はカードを見ると嬉しそうに微笑み、廊下に出て、

「魚地さん、魚地ヒメさん」

 そう呼びかけると、先ほどの娘が振り返って急いで帰って来た。

「ごめんなさい、また落としてた。私ってドジですよね……」

「いいよ、また僕が拾ってあげるから」

 そう言って要は魚地の額に唇を押し当てた。魚地は顔を真っ赤にして、社員証を奪い取って走って逃げた。

「ハハ、可愛いねぇ」

 要はそう呟いて微笑んだ。ふと、三宮の方を見ると、三宮の頬の上にもそばかすがあった。

 そうは思いたくなかった。そうだとしたら僕は、僕は一体どれだけ汚れているのか。

 三宮が要に抱き着く。

「おにいちゃん」

 そしてクレヨンを差し出して来た。

「ん、お絵描きするの?」

 要は落書き帳に絵を描き始める。相変わらず下手くそな絵だ。それなんだ?

「にゃんにゃん!」

 三宮が絵を指さして言った。これ猫なの?

「違うよ、ワンワンだよ」

「わんわ?」

 犬かよ。

 それからしばらく三宮は普通の子供と変わりなく、おもちゃで遊び、廊下を走り回り、たまにぐずったり、小町を見て怯えたり、要や魚地に甘えたりしていた。

「発作も全然起こりませんね。もしかして成功するんじゃ……!」

 魚地が胸を躍らせてそう言うが、

「いや、運良く安定しているだけで、またいつ暴走するかわからないよ」

 要がそう言うと、魚地は少し落ち込んだ様子で肩を落とした。

 三宮は車の音を口にしながらミニカーを動かして遊んでいた。だが急に小さく咳き込み始め、

「カハッ」

 大きく咳き込んで痰を吐いた。床に飛んだ痰には大量の血が混ざっていた。

「三宮ちゃん!」

 急いでティッシュで拭ってやり、口を開けさせてライトで照らす。

「要さん、粘膜がやられてます」

「まだ脆いか……」

 三宮は口の中に違和感を感じるのか、口をもごもごさせてぐずり始めた。

「お口の中不味いね。うがいしよっか」

 魚地は三宮を連れて部屋を移動した。要はカルテを机の上に広げる。僕も一緒にそれを覗き込んだ。

 一体何をしようとしているんだ?

 こいつらは矛盾を作ろうとしているのか? この子の親は僕とあの娘だ。そこにさらに小町と禊の細胞を埋め込もうってのか……? そんなことしてどうしようと言うんだ?

「細胞同士が拒絶反応を起こして消滅する。が、矛盾の能力によりすぐ細胞は復活する。いや、新たな細胞に代る。だからいくら相殺させようがすぐ再生してしまうため死ぬことは無い。……矛盾はどうしたら死ねるんだろうか」

 そうか。僕が死を求めていたのはこう言う事だったのか。

「いや、死ぬ必要はあるのか? そもそも何のためにこうなったのか。この力は何のために植え付けられた? 僕らは何のために存在するんだ。神は何をさせたいのか……」

 要は頭を抱えると髪をぐしゃぐしゃとかき回し始めた。

「少なくとも、本当に死にたいときに死ねるよう用意しとかなければならない。本来存在しないはずの存在なのだから……」

 だから、禊の中に抑え込まれた死を開放して、僕らはその時までに構えておかなければならない。

 急に隣の部屋から大きな物音がした。金属トレーの落ちるような音だった。

「要さん来てください!!!!」

 魚地の声が飛んできて、要と僕は急いでその方に向かう。

 部屋の中に入って目を見張った。三宮の小さい背中からは大きな白い翼が天井にぶつかるほど手を伸ばし、丸い額からはコンクリートを突き破る木のように角が枝を広げ、口と目からは血を流し、小さい口の中は黄色い牙が貫き埋め尽くし、白く柔らかい肌は硬い毛が覆っていた。

「おにい、ちゃ……ねえちゃ……いたい……」

「魚地さん、鎮静剤を!」

 魚地は急いで壁の小さいロッカーに手を伸ばすが、苦痛にもがき振り回した翼が当たって、魚地の左腕が床にボトリと落ちた。魚地の苦痛に歪んだ絶叫が響いた。

「何事か!」

 そこに小町が飛んできた。そしてドアの近くの緊急ブザーのボタンを押すと、館内にサイレンが鳴り響き赤いランプが回った。

「魚地さん、急いでこっちに来て!」

 要が呼びかけると、魚地は腕を抱えて顔を上げた。だがその時、目の前の三宮と目が合った。

「魚地! 目を合わせるな!」

 小町がそう叫んだ時には遅く、三宮の角が魚地の腹を貫いていた。

「魚地!!」

 要は翼を広げて魚地の方に向かうと、三宮の角を踏みつけた。そして半ビーストモードになると、太い嘴で角を噛み砕いた。三宮に乗っかり、翼をもぎ取り、頭を掴んで床に叩きつけた。三宮は血を流して動かなくなった。

 ビーストモードを解除した要は急いで魚地を抱きかかえた。

「魚地さん、魚地さん!」

 魚地は瞼を重そうに持ち上げた。

「ごめんなさい、要さん。言いつけを守れなくて……」

「いいから、いいから!」

 要は必死に傷口を押さえる。

「要、もうダメだ。出血量が多すぎる」

 小町がそう言って腕を離そうとすると、

「じゃあ僕の血を使ってくれ!」

「矛盾の血はダメだ! 助かる率が低すぎる」

「それでも可能性はあんだろ!?」

「ほとんど運でしかない!」

 要の顔が絶望に染まっていく。魚地は震える手で要の頬に触れると、

「抱きしめてくれますか? 私、要さんが好きなんです」

 要は急いで強く抱きしめた。

「嬉しい……最後に、好きな人に抱き――」

 魚地の手から力が抜ける。小町は床に視線を落として、要から魚地の亡骸を取り出した。そこに騒ぎを聞きつけた職員が駆け込んでくる。

「蒼月さん!」

「小町さん、一体何が……」

 小町は魚地の亡骸を見せると、

「わかっているな?」

 それだけ言って部屋を出た。職員は唾を飲み込み、三宮に拘束具を取り付け始めた。

「要さん、こちらへ」

 職員が要を別の部屋へ移動させた。




 それから数日、要はずっと爪を噛みながらカルテと向き合ってばかりだった。

 職員が要の部屋に顔を出し、

「要さん、新しい結果出ました」

 資料を机の上に置く。だが要は一切反応せず、ブツブツと独り言を言いながら書き込むばかりだった。

「何、まだ部屋から出ない?」

 小町が呆れた様子で職員に応えた。

「ハイ、食事もまともに取っておらず、おそらく睡眠も……」

「大馬鹿者だな。そんなことするだけ非効率だと言うのに」

「無理もありませんよ、だってまだ二十代の青年ですよ?」

「生きてる時間は私と10年の違いしかない」

「だとしても……」

 職員は肩を落とした。

 要は拘束されている三宮の元に向かった。前よりも頑丈に隔離された前よりも狭い部屋で、三宮はベッドに縛り付けられ、全身にチューブが入れこまれていた。

 要が三宮の頬に触れると、三宮はゆっくり瞼を開けた。

「おはよう、三宮」

「おはようおにいちゃん」

「調子はどう?」

 三宮は首を横に振り、

「からだじゅうがいたい。ほねがね、トンカチでたたかれてるみたい。ちがあつくて、からだがこおりみたいにさむくて。のうみそがまっかにはれて、ガンガンする。いたいの。あとね、おなかがきもちわるい。ここ」

 三宮は大腸付近を手のひらで触った。

「あとね、おへそのしたあたり、おなかのなかがあついの。あつくていたくて、ぎゅってないぞうをにぎられてるみたい」

 要は三宮の臍の下を見る。

「子宮か……年齢的にまだ月経は早い。その傾向が出るにしてもまだまだ……」

 要は考え事を始める。

 すると三宮は伸ばせる限り手を伸ばし、要の指を掴み、

「ねぇ、いつなおる? いたいのいつおわる? きょうはなんにち? おねえちゃんは?」

 目に涙をためて言った。要は三宮の頭を撫でて、

「もう少しだよ」

 寝不足でやつれた顔をどうにか持ち上げて微笑んだ。そして部屋を出ようと背を向けた時、

「ねえ、おはなしして。つきのおはなしして」

 三宮がねだった。要は側に置かれた丸椅子に腰を下ろして三宮の頭を撫でながら、

「死んだらね、月の国に行くんだよ。そこは永遠の場所で、とても綺麗で素敵な場所で、幸せな所」

「きもちよくて、らくで、くるしむこともないんでしょ?」

「そうだよ」

「じゃあさんのみや、しにたい」

 その言葉に要の顔から表情が消えた。

「そんな、そんなことしたら君は存在しなくなるんだぞ。この世から消えてしまうんだぞ!?」

「もういたいのいやだ。さんのみやおそとにいきたい。はしりたい……おにごっこしたい。まえみたいにあそびたい。おにいちゃんとおねえちゃんとおいしいものたべたい」

 三宮の目から涙がこぼれ始める。

「ねえ、さんのみやはしねるの? いつしぬの? つきにいけるの?」

 要は首を横に振った。

「さんのみやつきにいきたい……! もういやだ! おつきさまにあいたい! いたいのやだぁ!」

 三宮は大声で泣きだした。

「いたい、いたい~! あぁ~!」

 要の目に涙が溜まり始める。そこに職員が入って来た。

「えっ三宮ちゃん!? 要さん、三宮ちゃんがぐずって――」

 職員が焦っていると、要は職員を突き飛ばして部屋を飛び出した。屋上に飛び出し、空を見上げた。丸々とした満月が強く光っていた。

 ふと首の後ろが痛んだ。何かと思い手を伸ばしたら、小さく皮膚がへこんでいた。古傷の痕だ。月を見るといつもここが痛む。焦がれた思いを思い出す痛み。要も同じように首の後ろを触っていた。


 明かりの消された部屋に、ぼんやりと藤色の光が二つ浮かび上がる。さす、さす、と何かが擦れる音がして三宮は瞼を開けた。藤色の光が四つになる。三宮はそっと手を伸ばし、暗闇にぼんやり浮かぶ白い塊に触れた。それは少し硬くも、スルリと指の間を通り、その奥には柔らかくフワフワと温かかった。三宮は気持ちよさそうに微笑んだ。

「三宮、君を月に連れて行ってあげよう」

「ほんと? つきにいけるの?」

 白い羽が頬を撫でた。

「僕が連れて行ってあげるよ」

「あなたはおつきさまのところまでいけるの?」

「あぁ、行けるよ。一度行った事がある」

「いいなぁ。どんなばしょ?」

「とても素敵な場所だよ」

「きれいでうつくしくてきもちのよくて――」

「そう、そうだよ」

 白い塊から大きな嘴が現れる。

「少し痛いけど、これで最後だから。我慢してくれるかな?」

「うん、がまんする。これでさいごだよ? ぜったいだよ?」

「あぁ、絶対。約束するよ」

 白い塊は嘴を振り上げると、まっすぐに三宮の胸に突き刺した。三宮の口からは声にならない叫び声が吹きだした。そして嘴を引き抜くと、白い羽毛の中から大きな心臓を取り出し、くり出された三宮の小さな心臓を押し当てた。小さな心臓は煙を上げて焦げ始め、炎を纏って床に落ちた。三宮は涙を零して白い塊に手を伸ばした。小さい震える手が柔らかい頬に触れる。そして大きな手がその手を包み、嘴は三宮を啄んでいった。

 小町はカルテを見て肩を落とす。

「やはりダメか……。矛盾を完全に殺す方法は無い」

「どうします?」

「この研究は終わりだ。終了終了。もうやめよう」

「被検体はどうしますか?」

「こちらで処理しておく。元々、生まれるために生まれた子ではないのだから。実験の過程で生まれてしまったもので、オーバードーズにでもして捨てる予定だった……。さて、あの中途半端な矛盾はどうしたら死ぬのか」

 小町は三宮の元に向かう。

 ロックを解除し、ドアが開いた途端、小町と職員は目の前の光景に目を疑った。

 前身血まみれの要がベッドのそばに無表情で突っ立っていた。

「要……お前何をした! 三宮はどこにやった?」

「月に行った」

 要はそう言って微笑んだ。

「月? お前は何を言ってるんだ? ついに頭がイカレたか!」

 小町は要の胸ぐらをつかんで壁に押し付けた。職員が急いで間に割り込む。

「とにかく落ち着いてください。ひ、ひとまず関係者を呼んで……」

 職員が後ろを向いた時、要が頭を掴んできた。

「か、要さん!?」

 職員が何事かと振り向こうとした瞬間、足を折って床に倒れてしまった。小町は何事かと要を見た。

「覚えていたら月に行けないじゃん」

 要の手が小町に迫る。小町は必死に手を振り払い部屋を出ようとしたが、髪を掴まれて頭を掴まれた。

 そうか、だから僕は覚えていなかったのか。

 ふと、要と目が合った。見えないはずの僕と目が合った。気のせいか? かと思えば、要が急に僕に向かって手を伸ばした。指先が額に触れた。

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