第二十七話 懺悔
「ねぇ、何で僕には聖霊がいないのかな」
要の問いかけに、小町はため息をついてそっぽを向いた。
「それはお前が覚えていないからだと言っただろうが」
「僕が忘れて小町が覚えている共通認識なんて無いはずだよ? てか、それ共通認識って言わないよね」
「だから何度も言ってるだろうが。お前が忘れたのが原因だと」
「僕は自分の記憶は何一つ忘れてないよ」
小町は深いため息をつく。
「UPOの資料の中から探しな。おそらくそこにヒントがあるよ」
「どうして教えてくれないのさ」
「ヒントになりそうなものが分かるだけで、お前の記憶の事など私が知るはずも無いだろうが。UPO前期の最初の方のを読み漁ってみろ。御代家に買収された未公開の分もだぞ」
要は生返事をする。ふと、その場を離れる小町の後姿を見て、
「ねぇ、穢されたくない記憶って何?」
小町の足が止まる。
「一体どんな記憶なの? どれだけ甘いの? どれほど甘美なの? 気になるなぁ……」
「死んでも絶対触れさせやしないからな」
小町は目を光らせて睨みつけた。そして足早にその場を去って行った。
「……けちんぼ」
要はつまらなさそうにため息をついて外を見た。
奏に呼ばれて検査を受けに来ていた要は、職員から小町も来ていると知った。
「へぇ、あの人も来てたんだ。何で?」
「それは……ごめんなさい、結城先生から口外しないよう言われてまして……」
職員がそう言って口を紡ぐと、要は少し考え、
「誰にも言わないし、君が言ったって言わないからさ」
職員の腰に手を回し、唇を指先でなぞる。
「いい事してあげるから、教えてくれないかな?」
「だっ……だめです……!」
「ふーん、これでも?」
要は目を伏せて職員の唇に唇を重ねた。
「――そう、ありがとう」
要ははだけた襟元を整えると、笑顔で何事も無かったかのようにその場を離れた。
職員が溢した通りの部屋に向かうと、病衣姿で管に繋がれた小町が静かに眠っているのが見えた。
「やっぱり。恐らく卵でも採取されたんでしょ?」
要は眠る小町に話しかける。
「……その記憶は、甘美なもの? 僕が求める月はそこにあるのかい?」
要の手がゆっくり小町に伸びて行く。ふと目を覚ました小町は、寝ぼけ眼で要を見た。そして状況を把握し、急いで飛び起きて腕をつかんだ。だがすぐさま左手が飛んできて、髪を掴まれて馬乗りにされる。
「お前……っ! そこまで貪欲なやつだとは思わなかったぞ!!」
小町は要の髪を掴むと、自分の頭を思いっきり要の額目がけて打ち付けた。二人の視界は白に包まれて消えていった。
深緑色の海の上を霧が漂う。水平線から顔を出した太陽が水面を照らし、海をより煌びやかにさせる。その中を、一艘の船がゆっくりと漂っていた。釣竿を一本垂らし、その反対側では網を引いていた。網を引く一人の青年は、冷たくなった赤切れだらけの手に息を吹きかけ、水平線の太陽をじっと見ていた。
「綺麗だなぁ……地上がいくら荒れようが、遠い太陽はいつも綺麗だ。優雅に宇宙を漂って、俺らの小競り合いを可愛いものだと見てる」
垂れる鼻水をすすり、そばかすの乗った小さくて丸い鼻を指先でかいた。
青年は櫂を持つと、船を岸に向かって漕いだ。ふとその時、船に何かがぶつかる音がした。漂流物だろうか。利益のある物だったら良いと櫂を置いて海を覗き見た。太陽の黄色い反射の中に、海の色とは別の緑色の光が見えた。形は魚だった。大きな魚で、ここらでは見ない形をしていた。潮に流されてきてしまった温かい方の魚だろうか。色々と考えを巡らせるが、頭を見て考えるのをやめた。小豆色の髪をなびかせたそれは正に人魚だった。人魚のミイラだとかなんとかそういう話はよく聞いたもので、どれも胡散臭かったが、実際に目にしてしまうとあっという間に信じてしまう。青年はたも網を持って人魚の頭を入れて引っ張り、腕を掴んで船に引き上げた。人魚の肌は滑っていて手が滑った。傷つけないようそっと船底に置いて、急いで岸に向かった。人にばれてはいけないと、特に理由は思いつかなかったがとにかくバレてはいけないと思い、船に置いてある毛布を人魚にかぶせておこうと考え付いた。船を船着き場に止めて、毛布を探していると、
「おーい! マシュー!」
同じ漁師仲間の声が飛んできた。急いで毛布を引っ張り出してかぶせようとした時、人魚の腕を踏みつけてしまった。柔らかい肉が骨と靴の間で潰れたのが分かった。けどそんな事より隠すのに必死で腕を気にしてられなかった。
「マシュー、今日はどんなのが取れた?」
「え、あー……そ、そんなに」
「なんだ、大漁か?」
「いえ、逆で! ニシンくらいしか……」
「なぁんだ。雑魚取りのくせに」
漁師はそう吐き捨ててどこかへ行ってしまった。マシューは作り笑いをして漁師が見えなくなったのを確認すると、急いで人魚の腕を確認した。案の定、柔らかい腕には青あざができていた。マシューは青い顔をする。
「おいマシュー! 早く魚持って来い!」
遠くの方から声がして、急いで採った魚を入れた箱を持って向かった。
一通り仕事が終わり、網と釣竿と、その他道具と毛布に包んだ人魚を抱え、港町の外れにある古い家に駆けこんだ。家と家の隙間に建てたような木製のボロい家で、マシューは鼠と暮らしていた。
天井裏に置かれた古い猫足バスタブに人魚を入れ、ブリキのバケツを一つ持ち、家の裏の井戸を何度も往復し、浜辺の方も何度も往復してバスタブに水を入れた。ようやく人魚の胸までつかるほど入れ終わり、マシューは一息ついて側にあった木箱に座った。ふと、踏みつけてしまった腕を思い出す。人魚は不死身だと言うから大事無いかもしれないが、もし治らなかったり、人魚の怒りを買って呪いでも受けたり食われてしまったり……などと考えを巡らせるうちに、だんだんこの人魚が怖くなってきた。だが不思議な事に、腕には何の痕も残っていなかった。反対の腕だったかと思い確認するが、やはり何もない。確かに踏みつけたと思ったが、気のせいだったのだろうか。ま、いいかとマシューは人魚の腕を離し、下に降りて朝食を取ることにした。
昼の市場での仕事が終わり、夕方ごろにマシューは帰って来た。早めの夕食を取り、風呂に入り、ベッドに向かう前にもう一度人魚の所に向かった。人魚は相変わらずバスタブの中で横たわるだけだった。家にあった人魚についての古い本を開いて目の前の人魚と比べてみる。確かに特徴は全て当てはまっていた。上半身が人間で、下半身が魚。首には鰓があり、指には水かきがある。どこからどう見ても人魚である。だが、胸は貝殻で隠れていないため、大きく膨らんだ柔らかそうな胸が露になり、マシューは思わず顔を赤らめて目を逸らした。顔立ちは自分のような欧米人に比べて随分と彫が浅かった。アジア人だろうか。目を閉じているため目の色はわからないが、顔立ちはやはり写真で見た通りのアジア人だった。だとしても、アジア人と言うのは背が小さくて目が細く釣り上がっているのが特徴であるが、寝顔ではあるがこの人魚はどうしてこうも美しく見えるのか。マシューはうっとりと人魚の寝顔に見とれる。
振り子時計の鐘の音に我に返る。明日の朝も早い。マシューは人魚に手を振って寝室へ降りて行った。
次の日の朝。
漁から帰ったマシューは真っ先に屋根裏に向かった。人魚が目を覚まさないのは水温が問題なんじゃないかと思い、漁師仲間から借りた水温計を持って現れた。
「さぁ何度だ? 温かい海の水温が――」
マシューがバスタブに水温計を入れた時、人魚の尾ひれが優雅に動くのが見えた。フッと顔を上げて人魚の頭の方を見ると、細かい光を散りばめられた緑色の目とぶつかった。緑色の目は驚いたように目を丸くさせ、パチパチと何度も瞬きをする。その度に屋根裏の、本の表紙ほどの小さな窓から差し込む日光が目をキラキラと光らせた。
「綺麗だ……」
マシューは目を奪われた。その目に触れたいと思ったのは無意識だっただろうか。自分の意思とは関係なく、自然に手が吸い寄せられるように人魚の顔に向かった。途端、人魚が急いでマシューから顔を離した。マシューも我に返り、やっと状況が分かって驚きの声を上げた。人魚もその声に驚いて声を上げた。
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
だがマシューは目を輝かせ、
「起きた! 目を覚ました!」
バスタブに身を乗り出して人魚の顔を覗き込んだ。人魚は怪訝そうな顔で身を引く。
「俺、マシュー! 漁師だ。君の名前は? どこから来たんだい?」
マシューは今すぐ会話をしたくてたまらない様子だったが、人魚は言葉が理解できていないのか首を傾げ、聞いたことのない言葉を口にした。
「え? な、なんて……?」
マシューは耳を傾けるも、人魚はそれから何も口にはしなかった。
「やはり人魚には人魚語があるのか……」
マシューは残念そうにバスタブの縁に肘をついてため息をついた。
「Tameikiwotukuto Shiawaseganigeruzo」
人魚が何か注意するように言いだした。マシューは理解できなかったが、おそらく自分のこの表情を指摘していると分析し、頬を持ち上げて微笑んで見せた。すると人魚は感心した様子で小さく頷き、うっすら微笑んだ。その顔はとても優しく美しく見えた。マシューは頬を染めてそっぽを向いた。
昼過ぎ、マシューが仕事から帰って来ると、人魚は脇の下に刺さった釣り針を気にしていた。
「あれ、それどうしたの?」
マシューは雑魚を入れたバケツを足元に置いて人魚に近づいた。釣り針の上を薄皮が覆っており、ほとんど皮膚の下に入り込んでいた。
「針が呑み込まれてるんだ……どうしよう、医者を呼んだ方が……」
だがこれを人に見せて大丈夫なのか。マシューは頭を抱える。すると人魚はマシューの服を引っ張り、無造作に詰まれた木箱の上に置かれたフルーツナイフを指さした。
「え!? 危ないよ!」
マシューが首を横に振ると、人魚は強く睨みつけてきた。渋々ナイフを取って渡す。すると人魚は慣れた様子でナイフを持ち、入り込んだ針の周りの皮膚を切っていく。マシューは自分がされているように目を瞑って、だが片目だけそっと開いて見ていた。人魚は特に痛がる様子もなく、真剣な顔で釣り針を取り出していく。血の付いた、針先に白い脂を纏った釣り針が摘出された。マシューはそれを拾い上げ、顔をしかめて見た。
「こんなのが体の中に入ってたらと思うと……」
身震いする。
すると今度は尾ひれを持ち上げ、食い込んだ金属破片や釣り糸を、丁寧に肉を切って摘出し始めた。その多さにマシューは酷く落ち込んだ。取り出された金属破片の一つを見て、それが人間を殺すための一部であることに気付いた。
「ごめんね、俺らの喧嘩に巻き込んで……」
マシューは酷く落ち込んだ様子で人魚の手を取った。すると人魚はマシューの肩を叩き、ナイフを渡して背中を向けてきた。もう使い終わったのかな、とマシューは人魚を見るが、背中を見て気が付いた。背びれの生えた背中にも同じように、皮膚の下に埋まった異物が多く見られた。
「無理だよ。俺、刃物苦手だし、医者でもないし、頭悪いし……」
ふと、最初に切り出した脇の下を見ると、何事も無かったように切った痕は消えていた。
「そうか、人魚だから傷の治りは早いのか」
マシューは意を決して、真剣な面持ちでナイフを背中にあてた。滑る背中を指先で撫でて、異物の入り込んでいる個所を探す。柔らかい皮膚の下に、ゴロッとした異物を感じる。そしてその周りをくり抜くようにナイフを入れていく。フルーツナイフで、しかも切れ味が良いわけではないから、人魚のようにスルスルとは切れず、肉を引き裂く感じで切れていく。人魚はバスタブの縁につかまって苦しそうな声を漏らした。出てきたのは銃弾の先端だった。形状からしてライフルだろうか。銃の知識のないマシューにはあまりわからなかった。
一通り取り終え、足元に血と脂の付いた異物が十数個転がった。人魚は深いため息をついて縁に頭を乗せた。マシューは労わるように背中を優しく撫でてやった。すると人魚は気持ちよさそうな顔で寝息を立て始めた。
ある日、マシューが仕事に行ってる時だった。暇な人魚はバスタブの中で鼻歌を歌いながら辺りを見回していた。壁にかけられた星条旗、家族の写真、足元に立てかけられた油絵、木箱の中からはみ出た衣服。どれも埃をかぶっていたが、人魚の記憶の中では一番新しいものだった。ふと、古い小さな机の上に絵本が数冊置かれているのを見た。バスタブから身を乗り出して手を伸ばすにも、あと少し届かない。体を揺らしてその勢いで取ろうと考えたが、手を滑らせてバスタブの外に落ちてしまった。人魚は痛そうに身を起こす。下半身を引きずって机に近づき、机に手を伸ばしてよじ登る。鱗がボロボロと剥がれ始め、尾ひれが二つに裂け始める。指先が絵本にぶつかる。人魚は歯を食いしばって必死に手を伸ばした。
ガコン、と言う音と共に机が斜めり、人魚と絵本は床に向かって流れ落ちた。人魚は打ち付けた後頭部を抱えて痛そうにするが、すぐ絵本に手を伸ばして開いた。そこにはドレスを着たお姫様や、可愛い動物などが描かれていた。
「ただいまー! 人魚さん、毎日つまらないだろうから、ほら! 貰い物だけど、近所の奥さんから子供が昔使ってたテディベアを貰ってね――」
マシューは手に持っていたテディベアを落とした。気づいた人魚は振り返って首を傾げた。
マシューは人魚に駆け寄り肩を掴むと、その足元を見た。それは今までの人魚らしさなど一切なく、声を犠牲に人になった人魚姫さながらのようで、1人の人間の女性そのものだった。
「ま、まさか、声を犠牲に……!?」
マシューが声を発するようにジェスチャーすると、人魚は「Ahー……?」と声を出して見せた。マシューは酷く安心した様子で肩を落とす。
「良かった。声が出なかったら、ますます君とおしゃべりができなくなる」
だがマシューは急に顔を赤らめて顔を反らした。人魚はその意味を理解し、側にあった古着で前を隠した。
「と、とりあえず俺の服着て!」
マシューは急いで下に降りて自分の服を取って来た。人魚は袖を通し、マシューに手伝ってもらってズボンを履いてサスペンダーを肩に下げた。だがサスペンダーのせいで胸が強調されてしまい、マシューはなかなか顔を合わせられなかった。
それから人魚と木箱に座り、絵本を広げて読み上げてやった。
「――っても、君には俺の言葉は通じないか」
マシューは少し諦めたような顔で笑った。ふと、人魚が絵本の絵の一つを指さした。
「あぁ、それはプリンセスだよ」
次は馬車を指さす。
「それは馬車」
「coach?」
「そうそう」
人魚は「ほう」と言い、しばらく考え込む仕草をした。マシューはそれをじっと微笑んで見つめていた。
マシューが船着き場で漁師たちと網を直していた時だった。
「マシュー!」
柔らかくも強い女性の声が飛んできた。
「おぉ、マシューのガールフレンドじゃないか!」
「やぁ、ジャポちゃん」
漁師は遠くから歩いてくる女性に手を振った。
「そんな呼び方やめてくれよ。あと、ガールフレンドじゃない!」
「なんだ、一緒に住んでいるのに」
女性はマシューの隣にしゃがみこんだ。マシューは鼻を膨らませ、
「彼女の名前はコマチだ。次、ジャポなんて名前で呼んだらひっぱたくからな」
「コマチ? 聞かない名前だな」
「三大美女の一人、日本のオノノコマチから取ったんだ。コマチは美人だからね」
マシューは自慢げに言った。
「まぁ確かに、こんなに綺麗な日本人は始めて見た」
「よくこんな美人を拾ってきたもんだ」
「海に流されてる所を拾ったんだって? 魚はまともに拾って来やしないのに」
漁師たちが笑い出す。
「うるさいな、だったらあっち行けよ!」
「俺らはコマチちゃんに会うためにお前の仕事手伝ってやってるんだよ」
「お前の為じゃねぇ!」
そう言いながら、漁師らは小町を見てうっとりとした。
「じゃあ手を休めるな!」
マシューが手を叩いた。
昼になり、小町が台所で料理を始める。
「コマチはすごいね、英語をもう話せるようになったや。俺、ラテン語を小学校からやってるのに未だに一言も話せないや。ハァイ、ボンジュール?」
小町は料理を机に置きながら笑うと、
「それはフランス語。ラテン語ならサルウェー、でしょ」
「そっか! 俺、馬鹿だから」
マシューはヘラヘラと笑う。
食事が終わり、マシューは午後の仕事に出かけた。小町が家の掃除をしていると、外からラッパの音がした。何事かと窓から見下ろすと、アメリカが戦争に勝ったことを知らせるもので、ラッパを吹く兵隊の後ろでビラ配りがビラを撒いていた。飛んできたビラを一枚取る。
「……戦争は、どこに行ってもあるんだな」
小町はふと昔の事を思い出した。海を漂い、ここから東に行った海の向こうの大陸でも、王権争いの戦争や宗教戦争があった。さらに東でも、小国を征服し大国を築いた国もあったが、それには大きな犠牲があった。自分の生まれ故郷でも――。
小町は己の背負ったものの重さを思い出した。そのあまりに重すぎる罪悪感と悲しみで胸を押しつぶされそうだった。
「――そう、だったんだ」
小町の過去の話を聞いてマシューは肩を落としていた。
「ごめんなさい。いずれは話さなければならないと思っていたんだけど、思い出すのが怖かったんだ。私は……あまりに大きな過ちを犯した。私が間違えなければ、私の家族も、仕事の仲間も、友人も……」
そして、想い人も。
マシューは立ち上がって悲しい顔で座る小町を抱き寄せると、
「大丈夫、神は許して下さる。君は話してくれたじゃないか。そして自分の罪をちゃんと認めている。神は君を責めたりしない」
「それが、お前の神のやり方なのか?」
「うん。君の故郷の神様がどういった神なのかはよく知らないけど、俺の信じる神は許すよ」
マシューは壁にかけられたブロンズの小さな十字架の前に立ち、手を組んで祈りをささげた。小町も同じように隣に立って祈りを捧げる。
小さなケーキに立てられた一本の蝋燭の火に向かい、マシューはフッと息を吹きかけた。
「誕生日おめでとう、マシュー」
小町は微笑んで手を叩いた。マシューは照れくさそうに笑うと、
「ありがとう、コマチ。大人になって最初の誕生日に君がいてくれて嬉しいよ」
そう言って小町の手を取ると、
「この先の誕生日もずっと、君がいてくれたら嬉しいな」
小町は小さく頷いた。マシューがじっと顔を見てくるから、何かと思い首をかしげていたが、言葉の意味を理解して顔を真っ赤にさせた。
「アハハ! コマチはうぶだなぁ」
「お、大人をからかうんじゃない! ましてや私は、人間ではありえない年齢で……」
「年齢なんて関係ないよ。俺は美しい君が好きだよ」
マシューは小町の火照った頬を撫でた。小町は嬉しそうにマシューの手を握った。
明かりもつけていない暗い家の中で、マシューは身支度を整えていた。詰襟になれていないため、首元の襟が首を絞めつけて苦しかった。だがおかげで悲しみが口からこぼれずに済んだから、少しばかりありがたくも感じた。
玄関先に降りると、小町がリュックを持って待っててくれた。マシューに背負わせ、襟元を直してやり、全体のチェックをする。そして頷くと、
「気を付けて行ってきてね」
深く唇を重ね、マシューと強く抱き合った。
「絶対に帰って来るよ」
そう言ってマシューは服の下からネックレスを取り出すと、小町の首につけてやり、
「これ、母さんの形見なんだ。大事なものだから、俺が帰って来るまで預かっててくれないかな」
小町の細い首元にダイヤを一つ埋め込んだ小さな金の十字架が下がる。小町はネックレスに触れると、目から大粒の涙を零した。
「何で泣くんだよ、絶対帰って来るって」
マシューはケタケタと笑うと、小町の頬を軽く引っ張り、
「ほら、笑って。じゃないと幸せが逃げちゃう」
小町は涙を拭って笑って見せた。
玄関を出て、マシューは振り返って手を振った。そして歩き出すと、また振り返って手を振った。小町とマシューは互いが見えなくなるまでそれを繰り返し、マシューは時折笑わせようとスキップもして見せた。
マシューが帰って来るのは案外早く、数か月で帰って来た。
「随分小さくなったね、マシュー。これじゃ抱きしめてもらえないだろ……」
小町は石の十字架の前に突っ立っていた。マシューの乗っていた戦艦は特攻隊の攻撃により真っ先に沈められ、死体を探したが見つからなかったという。帰って来たのはマシューの使っていたヘルメットや備品のみ。目の前の墓は名前だけで、そこには誰もいなかった。
小町が家に戻ろうとした時、家の前に警察がいるのが見えた。何かと思い声をかけようとすると、急に後ろから肩を掴まれた。急いで振り返ると、マシューと一緒にいた漁師の奥さんだった。
「はいコレ、着替えと、お弁当。これ切符」
次々と荷物を渡された。
「あ、あの、これは一体……!?」
「逃げるんだよ!」
小町は意味が解らなかった。
「アンタは日本のスパイだと思われてんの。アンタ、ただの人間じゃないだろう?」
「どうしてそれを……!?」
「うちで旦那とマシューが飲んでるときに聞いたのさ。旦那は酔うと記憶が飛ぶから覚えてないみたいでね。スパイだと思われて捕まってアンタの素性がバレたら何されるかわかったもんじゃない! ほら、今からならまだ間に合うよ。3時の汽車だよ。5番線。絶対間違えるんじゃないよ」
小町は込み上げる涙を押さえ、
「ありがとうございます……!」
そう日本語で答えて駅に向かって走った。
「本当、綺麗な子ね。いくら敵国の人間と言えど、あんなに人が良くて美人だったら逃がしてやりたくなるわよ」
奥さんはずっと小町の去った方を見つめていた。
泣きはらした目で汽車に揺られていた。自分が起こした過ちは、この国と、この世界の過ちとよく似ていた。
「何で争う必要があるんだろう……」
小町は窓から見える過ぎ去る森を見ていた。
「そうだ、前にいた場所では戦争であの森が燃えていた。小さな村だった。子供たちはみんな元気で可愛くて……村のみんな優しかった」
涙が溢れかえってくる。
「そのままで良かった。無理に大きくなる必要なんてなかった。今の豊かさで満足していれば、あれ以上望まなければ怒りを買う事も無かった。なのに、何で――!」
小町の目が緑青色に光った。
都心の中でもかなり外れの畑の中に、一つの小さなボロ家が建っていた。
「ったく、政府も随分ケチだよな。ただでさえ帰る家がねぇってのに一文もよこさずによぉ。あれだけ鉄砲撃って大砲打って飛行機も乗りこなしてやったってのに」
ラジオを聴きながら、痩せこけた青年は藁を編んでいた。
「あ~あ、最近落語も流れなくなった。つまんねぇ。街に行っても遊ぶ金もない。毎日耕して牛引っ張って作って撒いて――」
「おい、皐月さんよ!」
家の外から爺の呼ぶ声がした。
「何だよ、将棋でもしに来たのか? お前は弱いからつまらねぇって何度も――」
玄関を開けた青年は口を開けてポカンとした。
「おい、そのべっぴんさんはアレか? 遊ぶために……」
「お前なんて失礼なやつなんだ。戦争行って頭おかしくなったか?」
「そらなるよ。お前死に損なったんだから行ってくっか?」
「縁起でも言うんじゃないよ! ほら、お客さんだよ。すいませんね、汚い家で」
爺は1人の美人を家に上がらせた。
「勝手に上がらせてんじゃねぇよ、俺の家だぞ」
「誰が貸してやってると思ってんだ!」
青年は怪訝そうな顔をして、渋々お茶を淹れに行った。
お茶を持って青年は美女の前に座る。
「こちら、これから事業を立ち上げようとしている、巫小町さんです。で、この痩せた汚いガキが、皐月禊――」
「五月雨、だろ。私はお前を覚えている」
小町はそう言って禊を見下ろした。
「俺も覚えてるよ。このいけ好かない整った顔」
禊はそう言って顔の左半分を隠す前髪をどかすと、
「この翡翠の目、誰のおかげだと思う?」
「あぁわかっている。私のこの目も同じだ」
小町の緑色の目が僅かに光った。爺さんは状況が理解できない様子で2人の顔を見ていた。
「で、今更何用だい、巫女さんよ」
「お前にしか頼めない事なんだ」
「俺は何もできやしないよ。ただ不死身ってなだけのクソガキで、勉学も大してできるわけでも、学校なんて小学校すら行ってねぇ。技術があるわけでも、力があるわけでもねぇ。できればこのまま田舎で、可愛い嫁さん貰って静かに――」
「鋏を持ってただろう」
その言葉に、お茶を飲もうとした禊の手が止まる。
「ほぉ、どこまで知っている」
「自分の身体で調べた。それから、鋏の事も。これでも巫女なんでね、神の声は聞こえるんだ」
「鋏をどうするって?」
「やりたいことがあるんだ。世界を変えるためにやらなければならないことが」
「変えて、どうなるんだ?」
「同じ過ちを繰り返したくないんだ。だからその為にもお前が必要なんだ。お前だから成し得る事なんだ。お前が前に立てばいい。立つだけでいい。それ以外は全部私がやる。責任も私が負う。だから頼む、お前の力を貸してくれ!」
小町は逆立ったボロボロの畳に額を擦り付けて土下座をした。禊は呆れた様子でため息をつくと、
「貴様の意志はなんだ、小町。意志が無いような不老不死などに力を貸せるほど俺は易くないし優しくも無いぞ」
小町はゆっくり顔を上げると、まっすぐ禊の黒い目と翡翠の目を強く見据え、
「懺悔だ」




