第二十一話 初夏
夏の入り始め。まだ過ごしやすかった気温は徐々に肌を刺す熱さになっていく。
禊が軒下に風鈴を設置する。
「あれ、もうそんな時期?」
リビングに寝そべって新聞を眺めていた嫌好が声をかけた。
「そろそろ本格的に夏だからな」
「待ちきれなくなって?」
「まぁ、そんなとこ」
禊は少し照れた様子で頭をかいた。嫌好は見慣れない禊の反応に、目を見張って禊を目で追いかけた。
家には禊と嫌好しかおらず、アイドル活動をしている女たちは仕事でおらず、美紗は忍や工、アーサー、レオと海釣りに行き、要と尊は買い物へ、マーサとニヴェは散歩に出ており、ココロは奏の研究所へ、宵彦と小町は外交の仕事で海外など、それぞれ自分の時間を過ごしに外へ出ていた。
禊はいつもと変わらず、一切休むことなく家の中の掃除をしていた。
「ねぇ、禊」
嫌好が名前を呼んでも、生返事が飛んでくるだけだった。嫌好は起き上がって2階、3階と人がいないかを見ていく。ドアをノックしたり、ドアノブを回してみる。
「何やってんだ、金でも盗む気か?」
掃除機を持って禊が3階に上がって来た。
「いや、本当に他のみんないないんだなって思って」
「いないよ」
「そっか……」
嫌好は小さくため息をつきながら家の中を見回す。
禊は3階の掃除が終わると、すぐ1階に降りて、今度は台所に立ち始めた。
「お昼何ー?」
嫌好も1階に降りて尋ねると、
「んー、みんな帰ってくる時間がバラバラだから、うどんかな」
「やった」
嫌好は嬉しそうに飛び跳ねる。
「ね、ね、ワカメ入れて」
「入れるよ」
「あ、ネギは入れないで」
「それだとお前、野菜が無いじゃん」
「ワカメがある」
「冷蔵庫におひたしあるから、出して」
禊はネギを切りながら嫌好に指示する。ほうれん草のおひたしの入ったタッパーを受け取ると、うどんの小袋を開けながら湯の煮立った鍋にうどんを数玉入れる。
「肉っ気が無いなぁ」
禊はブツブツ呟きながら、今度はバラ肉を冷凍庫から出し炒め始めた。嫌好はその様子をじっと眺めていた。禊の額に汗が浮き始め、上に着ていた灰色のパーカーを脱いで嫌好に渡した。
「ねー、お麩入れていい?」
嫌好が戸棚を漁りながら訪ねると、禊から生返事が返って来た。ちゃんと反応してくれない禊が気に入らなくなってきた嫌好は、ふと禊の首の後ろにホクロを見つけ、ちょっとした反抗心を思い出した。
せわしなく作業する禊に後ろから抱き着くと、そのホクロに唇を押し付けた。だが禊は全く気にする様子はなく、ズルズルと嫌好を引きずって台所のスペースを移動する。
「ねぇ、ここにホクロあるよ」
嫌好は指先でホクロを擦った。
「え? いつの間に。嫌だな~」
「嫌なの?」
「なんか嫌じゃん」
「そう?」
「お前みたいなのに的にされそうで嫌だ」
禊は少し笑いながら言った。すると嫌好はむしゃぶりつくように首に吸い付いた。
「うわ、何だよ。だから嫌だって……」
禊が嫌好を引き剥がそうと抵抗すると、嫌好はその手を掴んで押さえつけた。
「おい、鍋が危ないって」
そんなことお構いなしに、嫌好の手が禊のズボンの中に伸びる。
「えっ、おい、ちょっと」
禊はこれは冗談じゃないと思い嫌好から離れようとしたが、足をもつれさせ二人は床に倒れ込んだ。すぐさま両手を床に押さえつけられ、Tシャツを捲し上げられ、嫌好の愛撫が腹を這いずり回る。
「こんにちは~、七富戻りました~」
七富が笑顔で家に入って来る。
「禊さん、お客さんですよ。あぐりちゃんと千歳さんが――」
床に広げられた光景を目にした七富と千歳は口をあんぐり開け、
「禊さあああああああああああ」
「あぐりちゃん見ちゃダメ!!!!」
「いいから助けろよ!!」
嫌好は真っ赤に晴れた頬を手で押さえながら、ティッシュを詰めた鼻をすすりテーブルについて落ち込んでいた。
「ハイあぐりちゃん、熱いから気を付けてね」
禊にうどんを渡され、あぐりは嬉しそうに食べ始める。
「あんなに思いっきり殴らなくったっていいじゃないか……」
嫌好は目に涙を浮かべながら呟くと、
「真昼間から盛るアホがどこにいる!」
「そうですよ子供の前ですよ!?」
禊と千歳に怒鳴られた。
「はぁ、油断してた。絶対3人以上いないとだめだな」
禊は首をさすりながらため息を漏らす。
七富は恐る恐る千歳に話しかけ、
「禊さんと嫌好さんって、その……」
「まぁ、そう考えていいと思うよ。ただ禊さんは見ての通り嫌がってるけど」
七富は唾を飲み込んで禊を見た。
食べ終わったあぐりは禊と楽しそうに会話していた。
「ねぇ禊、私、来週から夏休みでね」
「あぐりちゃん! さん付けしなさいさん付け!」
千歳は急いで注意する。
「いや、いいよ千歳。それで?」
「普段の日に家からここに通うのは大変だし、学校もあるから来れないんだけど、夏休みとか長期休暇になれば来れるんだよ。それにね、お母さんと一緒に過ごしてみたいし。だから夏休みの間ここに住んでもいい?」
「あぐりちゃん、禊さんたちは遊びに来てるんじゃないんだよ」
「外遊と外交だって聞いたよ」
「そうだけど……」
あぐりが頬を膨らませ始めると、禊は頭に手を置き、
「構わないよ、部屋はまだ空いてるし」
あぐりの顔がぱっと明るく輝く。
「一応、奏に確認取っておくよ。七富、頼めるか?」
「はい、わかりました」
七富はスマホを取り出して電話を掛ける。
あぐりは立ち上がり、
「家の中探索していい?」
「いいけど、個室は開けるなよ。鍵がかかってるからまず開かないと思うけど」
禊はスキップで移動するあぐりの後をついて行く。
家の中を探索しているうちに、アイドル組の女たちが帰って来た。
「センター務めます、雲母美友ですっ! 只今帰りましたー!」
「ただいま帰りました」
李冴が禊の前に立つと、禊は優しく頭を撫でた。
「お疲れさん。晩御飯は何にしようか」
李冴が考えていると、
「チャーハン! 今日は中華な気分なの!」
美友が手を上げて言った。
「えー、私洋食の方が……」
「では、今日は野菜のスープとチャーハンと――」
言葉は荷物を置くとすぐエプロンを首から掛けて台所に立った。
「いいよ、仕事で疲れてるのに」
禊が言葉に部屋に戻るよう言うと、
「今日は打ち合わせでしたから、疲れてませんよ。何ならデザートの用意もしましょうか!」
「そんなにやる気があるなら、まかせるよ」
禊は仕方なさそうに微笑むと、言葉は張り切って袖をまくった。
「それで、今日はお家の方は何かありませんでした?」
「えぇっと……」
禊が目を逸らす。言葉の目が嫌好に向く。
「変更。今晩はたこ焼きパーティーだよ!!!!」
言葉が包丁を持って嫌好に襲い掛かった。
「何で! 何も言ってないじゃん!」
「わかるんだよこのタコォォ!!」
「言葉さん、落ち着いて! 今日はあぐりちゃんが来てるんですから!」
千歳が急いで止めに入ると、言葉は何事も無かったように微笑み、包丁を背後に隠すと、
「いらっしゃい、可愛らしいお嬢さん」
「おとうさん、この人すごいね……」
あぐりは豆鉄砲を食らった顔で袖を引いた。
「あれ、あぐりちゃん」
ふと飛んできた優しい声に、あぐりは急いで振り返った。買い物袋を手に下げた真尋が七穂と共にリビングに入って来た。
「いらっしゃい、久しぶりだね」
「お母さん!」
あぐりは真尋に体当たりする勢いで抱き着いた。よろけそうになる真尋を七穂が受け止める。
「真尋、あぐりがこの家に長期休暇の間住みたいそうだよ」
禊がそう言うと、あぐりは猫なで声で「だめ?」と尋ね、目を潤ませて見つめてきた。真尋は目を見張り、
「こりゃおどろいた、こんなにおねだり上手とは。千歳くん、入れ知恵してないよね?」
「してませんよ!?」
買い物袋を足元に置き、
「いつでもいいよ。お母さんはあぐりちゃんのためなら、幾らでも時間を捧げるよ」
あぐりの顔を両手に包んで頬を撫でた。
「やったー!」
あぐりは嬉しそうに首に抱き着いた。
七穂は何か思い出したように手帖を取り出し、
「花京院の薫子様から、夏休みに旅行でもいかがかと、ホテルへの案内が来てます。こちらのホテルなんですけど」
タブレットの画面を見せると、人が集まった。禊は表示されたホームページをスクロールさせ、
「屋内・屋上プール、バイキング――へぇ、なかなか良いじゃん!」
「でも、全員連れて行けるほどのお金は……」
言葉が心配そうに七穂を見ると、
「薫子様直々の御招待になりますので、そちらの方は心配いりませんよ」
すると歓喜の声が上がった。
「私も行っていいの?」
あぐりが不安そうに尋ねると、七穂は笑顔で深く頷いた。
みんなが嬉しそうに旅行の計画について話ていると、七富が禊を離れたところに呼んだ。
「奏さんに確認したのですが」
「どうだった?」
「代わりに身体を差し出せ、と一言言われて切れてしまいまして……」
禊は何のことかすぐに理解し、
「わかった、ありがとう」
あぐりの所に戻り、
「あぐり、上が許可を出してくれたよ」
「本当!?」
「うん。だから、夏休みに入ったら荷物を持っておいで。真尋と部屋を作って待ってるから」
「ありがとう!」
あぐりは禊の首に抱き着いた。
「あっ泥棒猫!」
嫌好があぐりの腕を引っ張った。
「こら嫌好、子供相手になんて失礼な」
禊はそのままあぐりをお姫様抱っこする。
「ぽっと出の奴に禊を取られてたまるかよ!」
「落ち着けって」
禊は笑って嫌好の頭を撫でた。嫌好は頬を膨らませてあぐりを睨んでいた。




