第二十話 汚れた花園
黒い高級車が、一つの厳かで重厚な門の前に止まった。その中から出てきたのは、大ぶりの瑠璃のピアスを耳に下げた男と、こめかみに枝を伸ばした白い女だった。
「瑠璃坊、こっちだ」
宗政が手招きする。
門の中に入ると、そこはもう花京院の敷地。色とりどりの花々が咲き誇る中に、鍛え抜かれた番犬が目を光らせて隠れている。花京院家そのものを示唆しているようでもあった。
一つの洋館に招かれ、中に入る。小さな花柄の壁紙が女性らしく、正にこの洋館の住人らしかった。
「まぁ、いらっしゃい」
透き通るような高く耳を通り抜ける声に、宵彦はその方を振り向いた。車いすに座り、一凛の花のように佇む薫子がそこにいた。
「姉さん!」
宵彦は駆け寄り、手を取って目を見つめた。
「久しぶり。元気にしていた? ご飯はちゃんと食べたの? 向こう様にご迷惑はかけてない?」
「大丈夫だよ、幸せに過ごしていたさ」
宵彦がそう言うと、薫子は嬉しそうに微笑んで宵彦と額を当てた。
「それにしても姉さん、車いすに乗って、足でも悪くしたんですか? それに、もう17年は経つ、そんなにお姿が変わらなくて、それはそれで幸いですが、何もありませんでしたか?」
宵彦の訪ねに薫子は口ごもったが、
「よぉ、宵彦。相変わらずだな」
飛んできた低い声に、2人はその方を見た。そこには宵彦と同じように、明けの空を背に纏った明彦が片手をあげて立っていた。
「無駄に元気そうで何よりだよ、明彦。まだ死んでなかったのか」
「それはお前も同じだろう、この死にぞこない」
二人はにらみ合い、薫子の頭上で火花を散らした。
「お願い、喧嘩しないで。折角兄弟揃ったのに。そうね、私が呼んだばかりに……ごめんなさい」
薫子が困った様子で止めに入る。
「まぁいい、姉さんに免じて今日はやめておこう。宵彦、こっちだ」
明彦は薫子を押して客室に案内する。
ロココ調の家具が並べられ花で着飾れた部屋は、薫子の趣味がよく出ていた。
「とても素敵なお屋敷ですね」
ニヴェが感心した様子で部屋を見回しながら言うと、
「前住んでいた家は売り払っちゃってね、今はここに住んでいますの。ここは昔、私の母が嫁に来たときに建てられた屋敷でして。今は私が譲り受けましたの」
「は、話の次元が……」
ニヴェは口を開けて聞いていた。
「そうだ、自己紹介がまだでしたわね。私は宵彦の姉の薫子です。彼は弟で宵彦の双子の兄の明彦。それから」
薫子がドアの方を見ると、ゆっくりと開いて一人の老人が入って来た。歳で曲がった背中を伸ばせる限り伸ばして、お盆にお茶と菓子を持ってやって来た。
「彼はセバスチャン・塩小路、長年宵彦の執事を務めてきていらしたの。今は私の側でできる仕事をやってもらっていますの」
「セバスチャン!」
宵彦は嬉しそうに立ち上がり、セバスチャンに駆け寄り、ふらつくセバスチャンの身体を支えた。
「あぁ、坊ちゃん。全然変わらない美しいお姿で……坊ちゃんが無事で何よりです。えっと、そちらの方はもしや」
セバスチャンがニヴェの方を見ると、
「紹介するよ。私の恋人のニヴェ・ヴェルデだ」
「え!? それ言っちゃうんですか!?」
驚いたニヴェは急いで慌てながらも頭を下げた。
「まぁまぁ、白百合のように美しく可愛らしい子ね」
薫子は嬉しそうにニヴェを見た。
「私、ずっと妹が欲しいと思っていましたのよ」
「姉さん本当ですか!?」
「やはり男兄弟ばかりは嫌ですか!?」
宵彦と明彦が同時に応えた。
「同時に言っては聞き取れないわ」
薫子は嬉しそうにコロコロと笑う。
「さ、もっとお話を聞かせて。久々のお客様だから、もっといろいろお話したいの」
薫子は嬉しそうにニヴェの手を握ってきた。
「えっと……私、普通の庶民ですので、話し方も品がないですし、庶民の話しかできませんが……」
「いいのいいの、それなら猶更聞かせてくださいな」
薫子の微笑みに、ニヴェの頬が赤く染まる。
「な、薫子姉さんの微笑みを前に誰も逆らえないでしょう?」
宵彦が少し自慢げに言うと、ニヴェは確かに、と言うように深く頷いた。
するとそこへメイドが一人やって来て、
「薫子様、ご来客中申し訳ありません。奥様がお呼びです」
薫子は途端に顔を暗くさせ、
「あぁ、またお母様が……。今行きます」
薫子はニヴェの目を見て頭を下げると、メイドに車いすを押させて部屋を出た。
「母さんはどうだ?」
宵彦が訪ねると、
「まあ、体は老いても中身は全く変わらないね。むしろ、自分の身体が老いたせいで言う事聞かないからと、毎日癇癪を起しているよ」
明彦は少し呆れた様子でため息をついた。
「何故姉さんは車いすに?」
「急に足を悪くしてね、歩く事が不可能と言うわけではないが、やはり車いすの方が過ごしやすいみたいだから。リハビリもしてはいるけど、これ以上良くなる様子はない」
宵彦は曇った表情をし、
「では、最後に会って17年経つが、一切姿が変わらないのは何故だ?」
「矛盾による影響の名残だろう。半矛盾のお前と言えど、ずっと一緒に生活してきたんだ、少し影響が出たんだろう」
「姉さんには本当につらい思いばかりさせてしまっているな……」
「いや、どうだか。本人はあれはあれでなかなか気に入っているようだぞ」
「本当か」
「自分で確認したら?」
「できるわけ無いだろ、姉さんに失礼だ。お前まさかやってないだろうな」
「さぁ、どうだか」
明彦の発言が癇に障り、宵彦が言い返そうと口を開けた時、屋敷の遠くから何かが割れる音がした。
「姉さんに何かあったか」
宵彦が立ち上がると、
「いや、大丈夫だよ。母さん、よくやるんだ。いつもの事だし、姉さんは怪我したことないから気にしないで」
それでも明彦は少し足早に部屋を出て行った。宵彦が後を追おうとすると、ニヴェが手を取り、
「行かない方がいいと思いますよ。見せたくないから、言いつくろっているかもしれませんし」
宵彦はニヴェの言葉に一理あると思い、静かに腰を下ろした。
明彦が母親の部屋の戸を開けると、頭からココアをかぶった薫子が床に座り込んでいた。
「アンタなんか、アンタなんか――!」
母親は酷く気が荒れているようで、肩を上下に揺らしながら薫子への罵詈雑言を吐き散らしていた。薫子は耳を塞ぎもせず、ただじっと置物のように動かずにいた。明彦は急いで薫子を抱きかかえて部屋から連れ出そうとすると、
「明彦、お前もか。お前もこんな女の味方をするのか! こんな、こんな汚れた女を! 忌々しい女の血の流れる穢れたコイツを!! お前があの女によく似ているから和彦もあの人もこの世を去る羽目になった……全部お前のせいだよ! さっさと死んじまい!」
投げられた匙が明彦の顔めがけて飛んでくる。顔を傾け、匙は顔の横を通って壁にぶつかった。
「母さん、もう今日はお休みになられてください。そうカッカなさると、お体に障りますし、また医者を呼ぶ羽目になりますよ」
その言葉に、母親は唇を噛んで大人しくなった。
「さぁ姉さん、行きますよ」
明彦はメイドに目くばせして部屋を出た。そしてまた別のメイドに薫子を預け、宵彦たちのいる客室に戻ると、
「すいません、ニヴェ様。今日は母の起源が心底悪かったようでして、姉さんをなかなか離してくれないんです。ですのでまた別の日にでもお呼びしますから、その時遊びにいらして下さい。それにもう、ほら、こんな時間です。そちらは大家族ですから、お夕飯の時間に遅れるわけにはいきませんでしょう?」
明彦は部屋の柱時計を指さした。時刻は6時を示していた。もうすっかり日も伸び始めていたから、ニヴェは全く時間に気が付かずにいた。
「そうでしたか……こんな時に来てしまってごめんなさい」
「いえいえ、元々姉さんが呼んだのですから、お気になさらないでください。セバスチャン」
明彦が合図すると、セバスチャンは小さい歩幅でチョコチョコと歩きながら宵彦とニヴェを送ってやった。
「とても感じの良いご兄弟でしたね。お姉さんがあんなに綺麗な方だとは思いませんでした」
「それ、次会った時に言ってあげたらどうです、とても喜ぶと思いますから」
「そんな、本人に直接だなんて……!」
ニヴェは恥ずかしそうに頬に手を当てた。
花京院の家から車が離れて行くのを確認した明彦は、カーテンを閉めて窓から離れた。
しばらくベランダで葉巻を吸っていると、綺麗に洗われた薫子が車いすを押してやって来た。
「今日は災難でしたね、折角の来客を母さんに邪魔されてしまった」
明彦はシャンプーの香りを纏った薫子の髪を手ですくい、そっと鼻を近づけた。
「どんなに綺麗だの美しいだの言われても、自分の見た目を好きになれた事など一度も無かった……本当のお母様に似ていると言うだけで、お母様にずっと非難されて、蔑まれて。一度でいいから愛されたかった」
薫子は小さく肩を震わせ、手で顔を覆った。
「私のせいなの? 私が本当の母親に似ているから、貴方達は私に兄弟とは違う愛を向け、私を慕うの? そのせいで和彦兄様はこの世を去り、宵彦はお父様を殺める事になったの? 全部私のせいなの?」
「そんなことありません、姉さんのせいじゃありませんよ。俺は兄弟として姉さんを慕っています、愛しています。だからそんなに自分を責めないで。母さんの言葉だけが全てじゃない」
明彦はしゃがみ、薫子の肩に手を置いた。それでも薫子は首を左右に振り、静かに泣いていた。明彦は微笑んで慰めようとするも、薫子は一向に泣き止む気配は無かった。
すっと、煙が空気に溶けるように、明彦の顔から笑顔が消える。そして冷淡な面持ちで薫子を抱き上げ、部屋を出た。
「明彦!? どうしたの?」
驚いて足をばたつかせるが、まともに言う事を聞かない足に抵抗する力は無かった。明彦が連れ込んだのは明かりのついていない暗い彼の部屋で、抱えていた薫子をベッドに乱暴に下した。そしてドアに鍵をかけ、薫子の上にまたがった。
「これはどういう真似なの、明彦!」
薫子が肩を掴むと、明彦はその手を取りベッドに抑え込んだ。月明かりに照らされて光るその目はもう、いつまでも姉を追いかける可愛い弟ではなく、明らかに男の目だった。薫子の全身に冷たい恐怖が走る。
「ダメ、ダメよ明彦! 私たちは姉弟なのよ!?」
「姉さん、貴女のせいですよ」
薫子の身体が強張った。
「何でもかんでも自分のせいにして、俺の気持ちを自分のせいで芽生えた悪いものだと決めつけて……。やっと邪魔者がいなくなったと言うのに、姉さんは俺を見ようとしない」
明彦はネクタイを外し、ジャケットを脱ぎ捨てる。
「姉弟だから、何です? 姉弟だから愛し合うんでしょう。こんなにも愛しているというのに、姉弟だから愛してはいけないとでも言うんですか? ハハ、おかしな話ですね。それに、愛し方なんて人それぞれなんですから、どんな方法でも間違いはありませんよ」
明彦の手は薫子のスカートに伸び、下着に指をかける。
「明彦、いい加減にしなさい!」
薫子が手を振り上げ頬を叩こうとしたが、すぐさま明彦の大きな手に捕らわれてしまった。
「ほら、よく見てくださいよ。手の大きさも、力も、俺の方が上なんです。もう昔のように可愛い弟ではないんですよ?」
明彦はゆっくり顔を近づける。
「それにほら、姉さんの身体には穢れた血が流れている。半分は赤の他人なんですよ。なら、普通に女として愛しても、別に間違っていませんよね」
明彦の唇が薫子の口をふさぐ。
「薫子、愛してるよ。姉さん、愛してます。今更、もうお互い穢れ切っているんですから、いくら混ざったところで変わりましませんよ」
深く、深く明彦が沈みこむ。何をどこで間違えたのか。
薫子は受け入れる事でしか自分は許されないと考え、ただじっと涙を流して月を見つめるばかりだった。
汚れた花弁は擦れ、削れ、散っていく。




