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第十三話 朽ちる魚

 また来週と言われ、果たしてまた会っていいものだろうか。よく考えてみろ、こんなオッサンと女子高生だぞ? 犯罪臭しかしないじゃないか! どうする? もう一度彼女と会話したいが、また会ったらまた次も、と繰り返してしまう。切るなら今だ、今なんだよ。ほらもう今日はまっすぐ家に帰って発泡酒買って帰って録画でも見て早めに寝て――。

「やっほ、オジサン」

 ――ダメだ。

「ねぇオジサン、今日はどこに行く?」

 この子はどうしてここまで僕に構うのか。僕は君をストーカーしていた犯罪者まがいなんだぞ?

「……君、毎日暇なのか?」

「暇じゃないよ。月曜日は暇かな」

 そう言って彼女は僕の袖を引き、

「今日はァ……ん?」

 彼女が僕の身体に顔を近づけてきた。な、何かついてる? 必死になって探すが、特にこの上着には何かついている様子はない。すると彼女は僕の方に向き直り、

「オジサン、お風呂は?」

 そう言えば、光熱費が勿体ないからあまりまともに入ってない気が……。

「よし!」

 そういうと彼女は僕の手を握って歩き出した。柔らかく細い少女の手が、僕の節くれだった指をやんわりと包み込む。きめの細かいスベスベの肌は、ちゃんと握っていないと手から滑り逃げてしまいそうで――。

 なんて考えているうちに、到着した。この時代に少し似つかわしくないような、古っぽい配管だらけの銭湯だった。

「ここね、たまに来るの。部活の昼休みに来たりもするんだよ。でも狭いから、部員だけで満員なんだ」

 そう言って銭湯の中に連れて行かれる。

 昔から変わらないような構造の銭湯で、入って最初に番頭が待ち構えていた。

「随分と昔ながらの銭湯なんだなぁ」

「そうなんだ」

 彼女は少しどうでもよさそうに靴を脱いで下駄箱に入れる。

「おや、番頭を知ってるたぁ、お前なかなか良い趣味してんな」

 番頭席に座っていた女性が身を乗り出して僕に話しかけてきた。真夏のように薄着で、下着もまともに着ていないのか、Tシャツの上から胸の形が良く分かった。いかんいかん、何を見ているんだ。

「えっと……でも、見るのは初めてでして」

「ま、そうだろうな、こういう形の銭湯はもう日本に数えるほどしかない。と言いつつも、この銭湯は他の銭湯より十分若くてね」

 番頭は眼鏡を上げながら言った。

「え、建て替えたんですか?」

「いや、この形の銭湯が作りたいと思って作ったんだ。元々ここは私の家の所有地で源泉が出ていて、地元では足湯として使われていたんだがな。その前に私の家は有名な旅館の家だったんだ。全国各地に展開していたんだが……私の代で畳んだ」

「おばちゃんまた何かしたの?」

 彼女がからかうように言うと、

「失礼な物言いだねコイツは。元々経営不振だったんだよ、それが丁度私の代で崩れた。でもやっぱり温泉から離れられなくてね、こうやって銭湯を自ら建てて経営してるってわけさ」

 番頭は番頭台の上であぐらを掻き、座椅子の肘置きに肘を置いてココアシガレットを銜え始めた。

「さ、オジサン、いいから早くお風呂入ろうよ」

 彼女が僕の背中を押して脱衣所に向かわせる。

「早く脱げ~色男っ!」

 番頭が急かすように脱衣所に顔を覗かせて言ってきた。

「見ないでくださいね!?」

「何だい、そんなに貧弱な体なのか? どれどれ」

「だから!」

 番頭台から高笑いが聞こえてくる。早く入ってしまおう。

 この時間帯は人が来ないのか、風呂場に人影は無かった。シャンプーやボディーソープは備え付けられていた。

「そうだ若いの」

 背後から声がして振り向くと、先ほどの番頭が見下ろしていた。思わず驚きの声が腹の奥から吹き上げる。

「お前、まだ初回だろ? 初回限定で垢すりを無料で貸し出してるんだ、使いな」

 青い垢すりを渡される。

「え、でも」

「あんた小汚いからちゃんと洗いな。彼女が言ってたぞ、彼氏が臭いって」

 番頭は鼻をつまみながら笑う。ってか、彼女じゃない!

「タオルはドアの横に置いてあるから、好きに使いな」

 番頭は手を振って出ていった。とりあえず洗うか。

 先に頭を洗い、石鹸で顔を洗い、垢すりにボディーソープを付けていた時、どこからか高い鼻歌が聞こえてきた。彼女のか。あの小さい鼻から流れる鼻歌だと考えると、どうしてこうも愛おしいのか。かと思えば、

「アジのブル~ス~ゥ、あぁ九十九里の砂浜、君の肌ァ」

 途端にこぶしの効いた歌が流れてきた。疑いたくもなったが、明らかにこの声は彼女のだ。

「サマーシャワー色のアンチョビダンスゥ~! 君の瞳に映る一匹1ドルゥ」

 何だこの歌詞。

「俺のミリタリーパンツに酔いしれなァ、そこのクリームサワー」

 真面目にこれは笑いを誘っているのか、何なのか。最近流行りのご当地ソングとかいう奴か?

「アァ~、アジのブルースゥ~!」

 ダメだ、だんだん面白くなってきた。ついにこらえきれなくなり、笑いが口からあふれ出た。

「ねぇ、どうしてみんな笑うの!? 『ダグラス・ヒモーノー愛の歌』だよ? ここらでは有名でしょ?」

「そんな曲、聞いたことも無いよ」

「えぇ~、オジサンはここいらの人じゃないの?」

「僕は元は青森に住んでたんだ」

「じゃあリンゴ好きなんだ」

「いや、何も青森県民だからって……」

 壁の向こうから彼女の嬉しそうな笑い声が聞こえる。恐らくこの向こうに彼女がいるんだろう。よく見たら、天井は繋がっているようで、わずかに隣と繋がる隙間があった。……覗こうだなんて、バカなことはしないさ。

「オジサン、どこまで洗った?」

 突然彼女の声が降って来る。

「え、いや、まだ体洗ってて……」

「私もう上がるね」

「えっ、今急いで……」

「いいよ、急がないで。ゆっくりしてていいよ」

 隣から湯を上がる音がする。裸足の足音がヒタヒタと離れていき、戸を開ける音がした。一気に静寂が訪れる。ゆっくりしてくれと言われたし、でもそんなに遅くならないようにしておこう。

 体をすすぎ、湯に浸かる。小さい銭湯であるが、やはり足の伸ばせる湯船は良いな。仕事で傷んだ体が癒えていく。

 そろそろ上がらないと、彼女に失礼だな、早めに上がろう。

 戸を開けると、番頭の言っていた通り棚に白いタオルが置かれていた。バスタオルで体を大まかに拭き、腰に巻き付ける。

「ねぇオジサン、まだ? 湯冷めしちゃう」

 急いでフェイスタオルを取って頭を拭きながらロッカーの前に移動する。ロッカーを開けて中からパンツを探す。おっと、誤って足元に落としてしまった。

「はい」

 あぁ、どうも。……ん。

「オジサン、結構痩せてるんだね」

 急いで顔を上げると、僕のパンツを持った彼女が目の前にいた。今日一番、いや人生で一番の叫び声が腹をぶち破って出てきた。

「ちゃんとご飯食べてる? あばら骨浮いてるじゃん」

 彼女は手を僕の頭に伸ばして来た。急いで避けようとするも、素早く頭を掴まれ、強く頭を拭かれた。

「オジサン、髪はいつ切ってるの?」

「いや、もう、随分切ってない」

「髭は?」

「これは、面倒くさい、だけで」

 パッと手が離れたかと思うと、彼女はお腹を抱えて笑い出した。

「オジサン、本当にオジサンなの? 童貞みたい」

「ど……っ!?!?」

 大人をからかうのも大概に……!

 ふと、叩かれたとも違う刺激が頬に感じた。何だ?

「ハイ、奢り」

 手探りで頬に当てられたものを持つと、手のひらにキンキンに冷えたコーヒー牛乳の小瓶が握られていた。

「オジサンはこれがいいかなって。私はこっちにした」

 彼女が見せる小瓶にはフルーツ牛乳と描かれていた。

「やっぱりお風呂上りはこれがいいよね」

 彼女は僕の横の長椅子に座ってラベルを剥がして蓋を取り、フルーツ牛乳を飲み始めた。まだ湿る、首筋に張り付く髪を少し鬱陶しいように指で剥がしながらも、嬉しそうに飲む無邪気なその顔は、彼女によく似つつも、彼女とは違う少女だった。僕もその隣に座ってコーヒー牛乳を飲む。

「ほらバカップル、お客さん来たからそろそろ離れんと」

 番頭が顔を出して呼びかけた。

「カ、カップルじゃないです!」

「おじさん、良かったね~」

 彼女が僕の腕に抱き着いた。

「ほらほら」

 番頭がやって来て、彼女を引き剥がしてくれた。

 急いで服を着て彼女と番頭の前に並び、財布を取り出すと、

「はい、800円。これでいい?」

 彼女がお金を番頭に差し出した。

「そんな、僕が払うよ」

 急いで彼女の手を引っ込めようと腕をつかむと、

「やだセクハラ~」

 急に冷たい顔をされた。思わず手を離すと、彼女はそのままお金を番頭に渡した。そしてポイントカードらしきものを取り出し、

「ひぃふぅみぃ……お、あと1回来たらタダになるよ」

 番頭がカードに書き込む。ふと、彼女の財布の内側の透明なポケットに目が行く。学生証だろうか、不愛想な顔の彼女の写ったプラスチックのカードがこちらを向いていた。斑……あぐり、あぐり? 他の項目も見る暇もなく、財布はさっさと彼女の脇に抱えられたカバンの中に隠された。

「さ、オジサン行こう」

 彼女に手招きされ、靴を履いて後を追う。

「今日は楽しかったね」

 彼女がそう言いながら僕の手を握って来た。

「私のおとうさんはね、もう35にもなるんだけどね、まだ高校生みたいな成りでね。オジサンみたいに大きな手じゃないんだ。だから、オジサンみたいな手ってすごい憧れてた」

 僕の手を持ち上げ、じっと見入るように眺め、甲の浮き出た骨や血管を解剖するように指先で撫でていく。

「じゃ、私帰るね」

 彼女は僕の手を落とすように離して、さっさと帰路の方に走って行ってしまった。


 会社で仕事をしていた時だった。

「なぁ、お前最近親戚の子でも来てんのか?」

 先輩に声をかけられた。

「いえ、もう家族とは縁を切りましたし……」

「そうなの? まぁそれは良いんだけど、この前女子高生にお前の事聞かれてさ、昼飯どうしてんのかって」

 昼飯?

「ほら、お前食ってるときの方が少ないだろ」

「あ、あぁ」

 そんな事聞いて何になるってんだ。話をどうにか振り払おうと、先輩に次の工程へ回すために製品を渡す。先輩がそれを持っていこうとした時、

「おい、アレそうなんじゃないか?」

 肘で呼ばれ、顎で示された方を見る。そこには私服らしい彼女が――あぐりさんがいた。

「何で仕事場まで……」

 帽子を脱ぎながらあぐりさんの元まで駆け寄る。

「銭湯で、これ」

 ポケットから出されたのは、僕の名刺だった。

「オジサン、アキラさんって言うんだね」

「いや、あのね」

 説教をしようにも、こんな太陽の下では暑いだろう。工場の裏に案内した。積み重ねられた木箱の上に座る。

「気持ちはありがたいけど、もうダメだよ。ほら……学校でいじめの原因になるだろ」

「別に、今更だよ」

 今更。もしかして、母親の事か?

「ほら、私、変人だから。それにおとうさんもおとうさんだし。表向き、五月晴の苗字を名乗ってるけど、本当は全然違う苗字だし」

「あれは君の父親じゃないのか?」

「お母さんはとっくの昔に死んだ」

 彼女が? だって彼女は永遠になったんだ。いやまさか、その永遠ってのが……そういうことか?

「多分、ね。私の予想だけど」

 あぐりさんは気だるそうに首を傾け、

「哀れに思った?」

 弱々しく笑って見せた。その顔はやはり明らかに、あの枯れた花と同じで、こんなにも血の通った生き生きとした瑞々しい花なのに、どうしてこんなにも枯れた色をしているのか。

 そんな僕の苦悩なんて全く知らないようで、あぐりさんは白い小さな紙袋を突き出し、

「入れ物は使い捨てのだから、そのまま捨てていいよ。ひいばあばの味付けだから、口に合うかわからないけど」

 少し申し訳なさそうな表情をした。どうして君がそんな顔をしなければならないのか。

「ひゃー、暑いね、もう夏も本格的になって来たや」

 あぐりさんは手で首元を扇ぐ。

「ね、オジサン、相変わらず鬱陶しそうで暑そうな髪型だけど、切らないの?」

 僕の無造作に伸びきった髪を指さされる。

「も、もう少ししたら切るよ」

「ふーん、そう。でもあまり切らないでね、私、オジサンのその髪型、気に入ってるから」

 あぁ、どうして君はそうも、自分勝手で、他人を人とも思う様子もないのか。僕をそこら辺の雑草の一つのように見るその目が、僕は、僕は――。

「それじゃ、お仕事の邪魔になるね。バイバイ」

 彼女は立ち上がると、涼しい顔で僕の顔を覗き込み、速足で去って行った。

 熱さにやられたんだろうか。


 雨がずっとしとしとしとしとと、うるさいほどにずっと振り続けている。台風も近づいているため、先の工程の工場から製品が流れてこないので会社は休みとなった。そして運良く、風邪を引いた。寝冷えでもしたのか、生活が良くなかったのか……。彼女に言われてから身だしなみに気を付けるようにした。そのおかげでむしろ免疫力は上がっているかと思ったのだが、体の菌を落とすと免疫力が下がる説もあって、結局どちらも差して変わりはしないのだろう。なら、彼女に嫌われるより、風邪を引いた方がマシだ。

 昔はこんな風に考えを巡らせて、悶々としていれば時間は勝手に過ぎて、風邪も勝手に治っていた。

 雨が降っていると言えど、やはり日本の夏は暑い。学生だった頃は地球温暖化問題が云々で日本も異常気象が観測されていたが、聖なる神の手帖とかいう怪しい研究機関のおかげでこうしてそこそこ過ごしやすい夏を過ごしている。でも、暑いものは暑い。これは僕の平均体温が高いが故なんだろう。上に来ているTシャツを脱ぎ捨て、ズボンも脱ぎ捨てる。じめじめしていて陰鬱になって来る。日本の夏ってのは本当に昔っから僕のようにジメジメとジメジメジメジメ――ピンポーン!

 何、正解? いや違う、インターホンの音だ。こんな体の重いときに……。

「こんにちは、丸鼻急便です」

 女性の声だ。何か頼んだっけな……あぁ、もしかしたら、祖母が時々送って来るミカンとか柿とかかもしれない。だとしたら早めに受け取らないと。

 家に人がいる事を示すために返事をし、どうにか起き上がってそこら辺に投げ捨ててあったタンクトップを拾って着る。そして玄関を開けると、

「やっほ、オジサン」

 ヤバイ。急いで玄関を引く。

「痛い、痛いよ!」

 痛い? 急いでドアノブから手を離すと、ヒョイと彼女……ではなく、あぐりさんが入って来た。

「ごめん、痛いの嘘」

 あぐりさんは袖の広い白いシャツから覗く細い腕をさすりながら困った顔をした。シャツの下の、腰を絞るベルトからカーテンのようにふわりと流れるスカートから、やはりこの子も街を歩く若い女の子と同じなんだと感じ、少し、このトタン屋根のおんぼろマンションに似合わなさすぎると感じた。だが手に持った小さいトートバッグに描かれた何も写していない油絵は、少しこの家に似ていると思った。

「あのさ、こんなおじさんの家に上がって、何かないはずないでしょ」

 これでは僕が真っ先に犯罪者になってしまう。

「オジサン、私には手を出せないでしょ」

「どうしてそんな事が言えるんだ?」

「だって、私に何か重ねてるでしょ」

 あぁその、何でも見透かすようなその目が、正にそうなんだよ。あぐりさんは嬉しそうに微笑むと、靴を脱いで素足で部屋に上がった。7畳一間の、家具も机と小さな棚一つの何もない部屋。台所ももう一体何10年前かって思うくらい古いモデルのアルミのもので、風呂も浴槽は膝を抱えて入らないと漬かれないような、それくらい小さい。窓も一つしかない。

「なんか質素だね」

 そう言いながら、あぐりさんはさっきまで僕が寝ていた布団に座った。汗が染み込んでいるのが冷や冷やした。

「な、何飲む? と言っても、冷蔵庫の中は大したもの無いし……」

「なんでもいいよ」

 そう言われ、本当に何でもいいのか悩みつつ、子供でも飲めそうなもので、冷蔵庫にあった貰い物の缶の甘酒を渡した。

「後はビールばっかで……」

 恐る恐る渡すと、

「私このメーカーの甘酒好きなの!」

 嬉しそうに僕から奪った。カポッと軽い音を立てて缶が開けられる。

「これね、夏限定の青いやつもあってね。結構あっさりしててそれが一番好き」

 嬉しそうに缶を頬に抱きながら彼女は話す。彼女が抱きしめているのは赤い缶、冬用の年中あるものだった。

「ねぇ、夏休みに友達とプールと祭りに行くんだ。でも二人だけだと不安だからさ、オジサン、保護者として付いて来てくれない?」

「お父さんに頼めばいいだろ」

「おとうさん、仕事で夏休み中はロサンゼルスに行くから」

「ロサ……」

 出た、横文字の地名。

「その後はスイスに行くんだって。なんかね、空の国に関して呼び出されたんだって」

「空の国?」

「うーん、新造……あ、おとうさんの弟がね、そう言ってた」

 アークィヴンシャラ国の事だろうか。何かあったのか? ここしばらく各報道でも耳にしなくなった。

「でも、僕なんかが友達とのお出かけについて行っていいの? こんな、怪しいオジサン……」

「あ、大丈夫。親戚のおじさんがついてくるって言ってある」

「もう言ったの!?」

「だって、オジサン優しいもん」

「君ねぇ……」

 そういうところに付け込まれて……ほら僕みたいなのがさ。

 そんな楽しいのかもわからないような会話を繰り返し、それでも彼女は楽しそうに笑ってくれて、時間はあっという間に3時間は経っていた。

「そうだ、塾」

 つい先ほどまで楽しく会話していた彼女は途端に学生の顔であるあぐりに戻り、スマホで時間を確認する。

「オジサン、今日はありがとう。楽しかったよ」

「あ、近くまで送るよ」

 脱ぎ捨てたズボンを拾って立ち上がろうとした時、何かビニールのようなものを踏みつけて滑って転んでしまった。その際、何か柔らかいものを掴んだ気が。あぐりさんは大丈夫だろうか。

「ごめん、大丈……」

 目の前に彼女がいた。青白い顔をした彼女が、乾いた目をこちらに向け。

「アキラくん」

 乾いて皮がさかむけ、切れて血の固まった弾力のある唇が、僕の名前を呼んだ。まだ一度も呼んでもらえていなかった、呼んでもらいたかった。

 細い彼女の腕が僕の手首から肘、腕を通って肩に乗り、首筋を撫でた。

 痺れるような甘い感覚が脳裏から溢れ出て、脊椎をピリピリと刺激する。顎の骨にも浸透し、舌の裏から唾液がじわじわと流れてくる。

 今僕がしたいと思った事が何通りか頭に文字として出てきた。果たしてこのうちどれから選べばよいのか、それとも正解はあるのか、そもそも選んで良いのか。

 それもそうだがそれよりも、僕は彼女の花をもうずいぶんと見ていない。枯れた花に、折れそうな枝、赤く熟れた実から垂れる緑色の膿、それに集る赤虫、そしてその全てを包み込む真っ白い無垢なガーゼ――。

 その首筋の、服の下に隠れている花が見たい。小さな花束が見たいんだ。お願いだ、僕はもう何年も我慢した。君のために忘れようと花を何本も潰した。君を想い花を作っては君のために壊し、作っては壊し、作っては壊し、作っては壊し――もう何年も繰り返した、地獄の刑罰のように。だからお願いだ、そろそろ手を差し伸べても良いじゃないか。僕ももう大人なんだ、僕の子の恋情を、今の君ならわかるだろう?

 ――だが、白い服の下に花など無く、若くハリのある艶やかな肌が広がるのみで、手のひらの下で鼓動する首の血管は小動物のように早く動いていた。違う、これは彼女じゃない。

 急いでこの誰だかもわからない人間を掴みあげ、玄関から外に押し出した。

「いたっ」

 外から彼女の声がした。だが開けちゃダメだ。惑わされてはいけない。だってそうじゃないか、彼女はもう、いないんだよ。一度も彼女は僕の名前を呼ばなかった。だから彼女が僕の名前を呼ぶはずが無いんだよ。

「ふぅ……」

 小さい声と共に軽い足音は遠ざかっていく。ごめん、ごめんねあぐりちゃん。僕は君を傷つけた。僕の愚かで汚いこの感情で純粋無垢な君を傷つけてしまった。一切罪のない哀れな君を傷つけてしまった。本当にごめんなさい。ごめんなさい――。

 ――雨に混ざって、誰かの荒い息遣いが聞こえてくる。誰だ? 僕のと、似ている。もう一つは……女? あれ、僕はなぜ布団に腕を立てて……。薄暗い視界が開けてきて、薄暗いながらも青い世界が見えてきた。僕は何故必死に腰を動かしているのか。それはまるでウサギの所業や犬のそれとも似ていて、情けなくて、不格好で。

 誰かの泣き声が聞こえる。鼻水をすすり、しゃくり上げる高い声。

「――だったのに」

 なんて?

「オジサンだったから、信じたのに……!」

 ――はァ……ッッ!!!!

 今、何が起きていた? 僕の下にいたのは、まぎれもなく、あぐ――

「うっ、うぐぅ、げぇえ゛っ、ゲホッ、かは、う゛、ゴホッゴホッ……」

 誰かが嘔吐する声がする。ヒィヒィと裏返った高い声で喘ぎ、台所の流しに必死にしがみついて、顔中ゲロまみれになって、情けない限りだよ、こうはなりたくない。だが、吐瀉物の下のアルミにぼんやりと写ったそれはまさに僕で、あの情けないなりたくないなぁと思ったそれは僕なわけで、結局そうなってしまっているわけで。ふと、壁の向こうから女の喘ぎ声が流れてきていた。

 最っ悪だ。最悪だ! 僕は最低だ! こんな人間、何で未だ生きているんだ! さっさと死んでしまえばいい! 死ね! なのに……今すぐこの手で殺してやればいいのに、この手が怖がってそうしようとしない、そうさせてくれない。怖い。僕は弱い。情けない。どうしろって言うんだ、僕が何をしたって言うんだ。この苦悩はいつまで続くんだ。僕はどこに向かえばいい? 僕はどうすれば解放される? 会いたい、彼女に会いたい。彼女の手で楽になりたい。彼女に殺されたい。どうか僕を殺してくれ。制裁を下してくれ。


 あぐりちゃんの約束は全部無視した。もう彼女に合わせる顔など無かった。第一、こんな顔見せれるわけ無いだろう。

 今日もただ、今までの毎日が送られるだけで。工場に行って、製品をラインに流して、取って、流して、取って……指示通り動くだけでいい、何か考えてりゃそのうち終わる。機械が全て担うこの時代に人の手で作るなんて、おかしな話だ。そんなこんなこの会社に対しての不満を悶々と考えていて、気づけば昼休み。ほらな、もう半日終わった。

「なぁ、お前」

 同僚の男に話しかけられた。名前すら知らない奴だ。

「お前、女子高生とよくいるよな。いいよなぁ、お前みたいに若いやつは。で、いくらなんだ? お前みたいなやつでも相手にしてくれんのか」

 いくら? 彼女は価値がつけられるほどの人物じゃない。

「おい、何とか言えよ」

 彼女は売り物じゃない。彼女は人だ。化け物でも売春婦でもない、一人の女性だ。

「女子高生だからなぁ、2万かなぁ」

 何でそんな額なんだ、彼女は僕らの日収より価値が無いと言いたいのか。

「いや、お前でも遊べるんだから1ま……」

「だまれぇぇぇっぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」

 鈍い音と金属の音がした。コイツを殺さないと、彼女がまた泣く羽目になる。もう彼女の苦しむ姿を見たくないんだ。

 いつぞやはそれを見たいとも思った。だがあの時の僕はとても愚かだった。浅はかだった。彼女の事を何も知らないで、勝手にそれを彼女に求めていた。犯罪者だ。大罪人だ。こんな僕は存在すら消えていい人間だ。それをお前は軽々しく彼女を穢したいだとか口にしやがって! 彼女の苦痛を何も知らないくせに! 彼女が生きるために! 希望の為にどれだけ自分を犠牲にしてきたことか! お前らは何も知らない! どうして彼女だけあんな目に合わなきゃならないんだ! どうして彼女だけが! 彼女は何もしていないじゃないか! だというのに対してお前はァ!!

「落ち着け、落ち着けって!!」

 彼女は! ただ生きたいと思って! 彼女は生きたがっていた! 生きたかったというのに! 幸せになりたかっただけなのに! 彼女も! 僕も! この不条理な世界を憎んで、それでも自分を犠牲にしないと幸せになれなくて! その為に自分を犠牲にしてきたというのに! それでもまだ苦痛が足りないと言うのか! 僕は! 彼女は――!!!!


 木に布を1枚巻いたようなサンダルを握りしめて眺めていた。もうこれっきりにしよう。これで終わりだ。彼女の為にも、僕は消えなければならない。あの時と同じように、紺色の分厚いミリタリーコートを着て部屋を出た。

 いつもの通学路を少しずれた墓地の裏道の入り口。そこで待っていると、彼女からおのずと声をかけてくる。

「……オジサン、やっほ」

 彼女は少し困った顔をして、目を逸らして僕を見た。

「今日は、これを返しに来たんだ」

 あれから最後に会ったあの時にあぐりちゃんが置いて行ったサンダルを渡す。彼女はサンダルを握りしめると、

「ありがとう。お気に入りだったから、どうしようかなって思ってた。でも、忘れたからこうしてまたオジサンに会えた」

 彼女は嬉しそうに笑った。違う、彼女はそんな、頬を染めて笑ったりしない。それでも、やっぱり首を傾けて笑う仕草は彼女で、この子は彼女ではないけれども、彼女で――もう、どっちでもいい、解放されるのなら、彼女であれば何でもいい。

「えっ、オジサン!?」

 逃げよう、こんな世界から。こんな世界にいてはまた君は悲しむ。傷ついて苦しんで絶望するんだ。もうそんな君は見たくない。僕に幸せにできるかはわからないけど、少なくとも今よりは君を幸せにする。だから僕と逃げよう。

「オジサン、聞いて。ねぇ、オジサン……アキラくん!」

 アキラ? 君はいつも僕の事を「君」って呼ぶじゃないか。

 前を見た時、知らない場所にいた。鬱蒼として木が生い茂っていて、ジメジメした、トンネルのある場所だった。もしかして、この向こうはこの世界の出口……?

「あのね、一つだけ聞いてもらいたい話があるの」

「……話?」

 荒い息を整えながら彼女の顔を睨む。もう、僕の本当の気持ちが分からない。

「お母さんね、死んだと思ってた。でもね、違うの。本当はもしかしたら、生きてるかもしれないって」

「本当か!? 本当に彼女は!」

 彼女の肩を揺すった。

「わ、わからない。私の推測だけど。時が来たから、答えを教えるっておとうさんが……」

 おそうさん? その言葉の一字一句を口にした。彼女の父はもういないだろう? そうだ、この子は彼女じゃない。あぐりちゃんだ。彼女の子だ。僕が名付けた彼女の子。よく見たらこの子、涙ほくろがあるじゃないか。彼女にそんなものは無かった。彼女にはただ花があるのみだった。

「僕も、ずっと君に話していなかったことがあるんだよ」

 ゆっくりと手を離す。あぐりちゃんは恐怖に染まった顔で僕の顔を見つめる。僕が怖いかい? こんなオジサンとこんな場所に来ているんだ、そりゃ怖いよな。この後どうしてやろうか。

「僕は君の名付け親なんだよ、あぐり」

 まっすぐにあぐりの目を見つめた。彼女とよく似た、知らない色をしたその目を。

「僕は君のお母さんと同級生でね、友人のいない彼女にとって唯一の友人だったんだよ。そして彼女の最後を見届けた唯一の人物でもあるんだよ」

「お母さんの事、知ってるの?」

「あぁ、全部知ってるよ」

「教えて! お母さんは今どうしてるの? 私の事どう思ってるの? どこにいるの!?」

「何も知らないよ」

「……何も? 本当に何も?」

 あぁ君も、どうせ知ることになるんだから、その時絶望すればいいさ。

「いたぞ!」

 知らない声が飛んできた。複数人の警察官がやって来て、僕を地面に押さえつける。

「やめて! おとうさん! アキラさんは何も悪くない! おとうさん!」

 僕よりもずっと若い、僕の一つ年上のその父親は、僕を睨みつけていた。娘を傷つけられた復讐の目か? それとも彼女を苦しめた復讐か? もしかしてこれが僕の望んだ制裁の結果なのか?

 なんにせよ、おそらくこれで終われるんだ。僕は解放される。逃れることができる。やっと川の外に行ける。そこは海なのか、地上なのか、はたまた知らない大きな魚の腹の中なのか。

 ありがとう、小鳥遊さん。

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