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第十二話 生きた花と死んだ蠅

 アメリカから戻ったあぐりと千歳は実家に戻り、あぐりはすぐ近くの高校に通っていた。千歳は千歳で画家として描きたい絵を描き、教室の教師として務め、少し遠くの高校の芸術コースの非常勤講師としても努めていた。

「まぁよく働くこと。自分の絵は描けてるの?」

 燈子が煎餅をかじりながら話しかけた。

「一応。あ、今度お母さ……ばあば描いていい?」

「なんだか、息子にばあばって呼ばれるの、まだくすぐったいね」

 燈子は満悦そうに笑って体をくねらせた。

「なんかやだな~あぐりに頼むわ」

「えぇ~お母さん描いてよ~」

「死に顔なら描くよ」

「うっわ酷い親孝行」

 燈子は拳で千歳の腕を軽くどついた。

 そこにあぐりがやって来る。

「ねぇおとうさん、今月の小遣いまだ?」

「とうとう金を請求するようになったか。もっと言っていいんだぞ、こいつ地味にがっぽり稼いでるんだから」

 燈子がそう言いながらあぐりの尻を叩いた。

「ダメです、このお金は全部あぐりちゃんの学費です」

 千歳は燈子に顔を見せつけ、

「まだ崩せてないから、明日でいい?」

 あぐりは素直に頷く。

「そうだ、あぐちゃん、お父さんの個展どうだった?」

 燈子があぐりを膝に座らせながら訪ねると、

「よくわかんない」

 あぐりは燈子の肩に頭を置いて、甘えるように抱き着きながら応えた。

「ほらー、あんなの描いたって何になんのよ」

 燈子が鼻で言うと、

「何にでもなるわ」

 千歳はそっぽを向きながら言い、コップに注がれたビールに口をつける。

「でもね、なんかすごかったよ。いろんな色が広がってて、色とりどりで、この世じゃないみたいな」

「お、あぐりちゃんわかってる~」

 千歳は嬉しそうにあぐりの頬をつついた。

「へー、あぐちゃんはわかるんだ」

「なんとなく」

「あかねちゃ……あぐりちゃん、できたよ」

 そこに曾祖母があぐりを呼んだ。

「ひいばば、また私の名前間違えてる~! 私は茜祢ちゃんじゃない! あんなに出来の良い子じゃありません~」

「あらそう、ごめんなさいね」

 曾祖母はボタンを付け直した制服の上着を渡す。

「それくらい自分でやりなさいよ、学校で習ったでしょ?」

 燈子は口をとがらせて言う。

「ひいばばがやった方が確実だもん。あと私忙しい」

「遊んでばかりのくせに」

「うっせぇ」

 あぐりは上着を持って二階へ吸い込まれていった。

「そうだ、個展に行ったとき、あぐりが怪しい男に腕を掴まれてさ」

 千歳がコップを机に置いて話始める。

「やだまた不審者~!? え、あんた側にいたでしょ?」

 燈子は心底嫌そうな顔をする。

「真横にいたよ。息切らして半狂乱になったお母さんみたいな顔でさ、やばいと思って咄嗟にあぐりちゃん抱きしめてガン飛ばしてやったよ」

「そしたら?」

「人違いだって言われて。丁度バスも来てたし、すぐ乗り込んだよ。それから窓からずっと睨みつけてやった」

「ひぇ~」

 燈子は身震いしながら席を立つ。

「どんな奴だった?」

 話に興味を示した新造が燈子の座っていた席に座る。

「毛が伸び放題で、肩に少しかかってた。白髪交じりだったな。ヨレヨレのスーツだったよ、黒の。背は普通かな、あと痩せてた。なんかね、ずいぶんやつれた感じの人だったよ。40代かなぁ?」

「あぁ~、その年代は不審者多い」

 新造は指さしながら席を立ち、

「それっぽい人いたらマークしとくわ」

「助かるわー運動部」

「へっへ」

 新造は嬉しそうに鼻を擦ってお菓子の入ったスーパーの袋を漁り始めた。

 その後、千歳はあぐりを風呂に入れるために部屋にやって来た。

「あぐりちゃん、お風呂入りな」

「んー、もうちょっと」

 あぐりはイヤホンで耳を塞いでパソコン画面に見入っていた。

「いつもちょっとちょっとちょっと、いつまで待たせるの」

「んー後でね」

 あぐりは早口で強めに言うと、手をひらひらと泳がせて千歳を振り払った。

 千歳は顔をしかめた。これは一喝入れないとと思い、息を吸った所に千歳の父親がやって来て、

「じいじ、あぐちゃんとお風呂入りたいな~」

 ドアの陰から言った。するとあぐりはパソコンの画面を閉じ、イヤホンを投げ捨て、

「じいじと入る~!」

 父親に抱き着いた。

「もう高校生でしょ、何してんの」

 千歳が父親からあぐりを引き剥がそうとすると、

「幾つになろうが関係ないもんね~?」

 父親が訪ねるようにあぐりに言うと、

「ね~」

 あぐりも嬉しそうに答えた。そして二人は仲良くくっついて風呂に向かった。

「アレ、性教育的にどうなの……」

「誰の遺伝だろうねぇ?」

 通りすがりの新造が声をかける。

「遺伝してないよ」

「伝染か」

「もうお母さんしかいないじゃん」

 千歳は肩を落としてため息をついた。




 あぐりが学校から帰路を向かっていた時だった。この日は部活があったため、学校を出るころには随分と空が藍色だった。

「あんた、どこの子だい? いっそうちに――」

 演劇部で公演する劇に向けて、セリフを覚えようと台本を読みながら歩く。だがそのうちに飽きてしまい、台本をカバンに入れて足早に歩き始めた。その時、背後から別の足音がすることに気が付いた。何かついて来ていたら嫌だなと思い振り向くが、それらしい影は見当たらない。

「考えすぎかな……」

 そう独り言をつぶやき、また足を家に向けた。だが確かに、自分の足音に合わせて、別の足音が入って来ていた。辺りがもう暗かったのもあってか、妙に気味悪く感じ、あぐりは速足で家に向かい、玄関に着くまでに鍵を取り出し、玄関の扉に飛びつくとすぐさま鍵を開けて家の中に飛び込んだ。

 家の温かいライトが出迎え、甘い木の香りがあぐりを包み込む。途端に安堵が訪れ、あぐりは倒れるように玄関に座り込んだ。

「あら、あぐりちゃん。おかえり」

 曾祖父が二世帯を隔てるドアから顔を出した。

「た、ただいま」

「どしたの、そんなに疲れて」

「ちょ、ちょっと走ってみたの」

「元気だねぇ。ワシもむかぁしはよぉはしって家に帰って、すぐかかぁのてつだいやしてりょうふんはふはひは」

 途中から祖父の言っていることが理解できなくなり、あぐりはそそくさと二階へ上がって行った。

 おそらく自分の思い込みだろうと思い、特に誰かに話さずにこの日は終わった。

 だがまた次の日の帰り道。

 この日は部活が無く、夕方には帰ることができた。友人と一緒に歩いて帰る。

「あ、なっちゃん見て」

 あぐりが夕空を指さす。

「聖女様の御髪だよ」

 そう言ってスマホを空に向けてシャッターを切る。

「聖女様の、なんて?」

 友人が聞き返す。

「ほら、空の色が、一番下は夕日の赤、上は夜空が見え始めているでしょ。そんでそれが淡く見えているから、空が全体的に虹色になるの。淡い虹色が空に見えるの」

「ほんとだ」

「それがね、聖女様の髪色によく似ているから、聖女様の御髪って言うんだって。おとうさんが言ってた」

「へー、初めて知った。綺麗だねー」

 友人はスマホを持っていなかったため、

「後でパソコンに送って」

「おっけー」

 あぐりはまたもう一枚写真を撮った。

「このね、夕方の始まりくらいが一番きれいなんだよ。おとうさんがよくこれを撮ってるから、そっちの方が綺麗に撮れてるから、頼んで送るよ」

「まじ? いいの? やった」

 友人は嬉しそうに足踏みする。それから少し話しながら歩き、二人はそれぞれの帰路に別れた。

 あぐりは鼻歌を歌いながら歩く。そしてまた、あの足音があぐりの足元に忍び込んでくる。あぐりは急に足を止めると、すぐさま背後を振り向いた。すると、紺色の分厚いミリタリーコートを着た人物が数歩後ろにいた。それはあぐりと視線がぶつかり、急いで物陰に隠れた。

 あぐりの背骨を冷気が撫でる。

 まるで寒さに飛び上がるように、足は途端に体を持ち上げ、大きく飛び跳ね、地面を蹴って蹴って、家へ体を押し運んだ。

 必死になって走った。走って走って走って、とにかく家を目指した。玄関に飛びつき、取っ手を握って体を預けて引っ張るが、金属の重い音がして開かなかった。

「なんで!?」

 すぐにカバンの中の鍵の存在を思い出し、急いでカバンを開ける。だが焦りの余り手が言う事を聞かず、カバンを開けようにもチャックが布を噛んでいて言う事を聞かなかった。とにかく必死でわずかに開いたカバンの口に両手の人差し指を突っ込み、力任せに引き開ける。

「あぇ、あぐりちゃん」

 しゃがれたその声に、走り回っていた自分の気がピタッと立ち止まった。

 足を引きずる音を立てながらゆっくり近づき、自分の目指していた玄関の真横の玄関を引き開けた。顔を上げると、ゆっくり玄関に入る曾祖父の背中が見えた。

「どうしたの、そんなに焦って。はぁはぁ、ゲームしたかったんか。ここ、あいてるべ」

 曾祖父は顔にしわをたっぷり集めて笑った。あぐりはさっきまでの出来事がまるで嘘のようで、

「うん」

 ほとんど息の混ざった返事をして玄関に入った。

 その日の夜、食卓は例の人物で大盛り上がりだった。

「やっだ~! やだやだ、ひゃー怖い‼」

 燈子は身震いしながらみそ汁をすする。

 曾祖母はかわいそうにと言うようにあぐりを見つめた。

「じいちゃん、もしかしたらそのストーカーが家に入ってくるかもしれないから、絶対玄関は閉めてね。開けっ放しにしちゃダメ」

 新造が曾祖父に強く言うと、曾祖父は少し落ち込んだ様子で手に持ったお椀に顔を鎮めて返事をした。

「ね、新造あんた明日からバイトもっと遅めてくんない?」

 燈子はきんぴらごぼうを口に運びながら言うと、

「え~?」

 新造は少し不服な様子で返事をした。

「あぐりちゃんに何かあったらどうすんのよ!」

「わかったよ……」

「あぐりちゃん、部活は何曜日?」

「火曜から金曜。土曜日は塾だから休んでる」

「月曜はひいばあばにお迎え頼もうか。火曜から金曜は新造が行ってあげて。ひいおばあちゃん、それでいいですか?」

 曾祖母は深く何度も頷いた。

「こんな時になんであのアホはんだよ」

 燈子は少し怒り交じりにぼやいた。食器を積み重ねて席を立つ。

「あれ、そういや兄ちゃんいないね」

 そう言いつつ、新造は席を立った燈子に茶碗を渡しておかわり、と言うように炊飯器を指さした。燈子は茶碗を受け取るも、自分でやりなさいよ、と小声で咎める。

「合同展示で? 関西まで行くって? はーバカじゃないの。こんな時に何で父親がいないのよ。第一、母親がいないってのに、父親がいなくてどうすんの」

 燈子は強く茶碗を机に置いた。

 あぐりはまたあの恐怖を思い出し、ため息を漏らして食事を口に運んだ。

 また別の日。

 学校の坂下に新造がいるはずなんだが、どうにも姿が見当たらない。不安に思い辺りを見回していると、

「おい」

 ぶっきらぼうな低い声が飛んできた。その方を見ると、ジャージ姿のいつもの新造が突っ立っていた。いつにも増して不愛想だった。

「新造、外だと不愛想だね」

「別に、普通だよ」

 とか言いつつも、すました顔であぐりとは関係のない様子で前をスタスタと歩く。

 あぐりはそっと背後を確認する。近づいてくる様子はないが、確実にあの人物は柱の陰に隠れてじっとしていた。

 それから数週間、曾祖母と新造が迎えに来てくれて、時々燈子や千歳が迎えに来てくれた。それでも毎日のようにいるこのストーカーを思うと、逆に可愛くも感じられてきた。特に何かするわけでもなく、ただ遠くで見ているだけ。それでもやはり、いつ何をされるかわからない恐怖もあった。

 ある日。春の香りのする、雨の日だった。明日は学校のイベントで、国内最大のテーマパーク・ネズミ―ランドに行く予定だった。心を躍らせながら帰路をスキップで進む。スマホに新造から「バイトが急に入ったから行けない、誰かに電話して」とメールの通知が画面に出る。が、通知を完全に切っていたあぐりはぞれに一切気付かず、イヤホンで耳を塞いで歩いていた。

 家の近くの墓地の脇道を抜け、唯一ある街灯の真下を通り抜けた直後だった。わずかに自分の腰の後ろに見えた、地面を照らす街灯の明かりの中に、一つの人間の影が入って来た。その影は街灯の下で一度立ち止まると、走り出す恰好で両手両足を肩幅に広げ、街灯の明かりの中から飛び出した。

「あれ、人影――」

 そう思い顔を上げて振り返ろうと思った矢先、背後から何者かの手が顔を掴んできた。

「えっ何!?」

 一瞬何事か理解できず、悪戯好きの燈子の仕業かとも思ったが、いつまでも抱き着いてグイグイ引っ張ってくる様子は確かに違った。燈子ならすぐに手を離して声をかける。

 そしてようやく状況が分かった。まさかの本当にとうとう、ストーカーが――。

 あぐりは必死になって体を振り回し、

「助けてーーーーーーー!!!! 助けてーーーーーーーー!!!!」

 とにかく叫び声をあげた。声の大きさに自信のあったあぐりはとにかく出せる限りの声を出した。

「はなせっ!」

 そこに聞き覚えの無い男の声が飛んできた。途端、ゴッ、と鈍い音がして、背後の人物に振動が走った。気味の悪い暗闇の腕があぐりを離した。急いで背後を確認すると、分厚い紺色のミリタリーコートを着た男が、前身黒い暗闇の男とつかみ合いをしていた。あのストーカーだ。倒れたストーカーは逃げようとする暗闇の男の足に抱き着いて、

「逃げろ! 早く!」

 無造作に伸びた髪の中から大きく口だけが覗き、そう叫んだ。

 あぐりは必死になって家に向かって走った。インターフォンを必死に何度も連打して、とにかく指でインターフォンを叩いた。すると玄関の音がして、一目散に玄関の中に飛び込んだ。

「あぐりちゃん、おかえり」

 曾祖母が出迎えてくれた。その丸々とした顔を見るなり途端に安心感が全身を包み込み、

「さっき、不審者に襲われた――」

 あぐりは心を落ち着かせなければと思い、普通に話し出したが、みるみる声が震えていった。驚いた曾祖母はあぐりを抱きしめ、顔と頭を大きな手の平で何度も撫でまわした。あぐりは涙をこらえようと必死に目を押さえ、そそくさと二階へ上がって行った。そして寝間着に着替え、ベッドの中に潜り込んで、大好きな蛙のぬいぐるみを抱きしめた。それでもまだ、暗闇の男に触れられた部分に汚物でも塗られたかのように気持ち悪く、全身の震えが止まらなかった。曾祖母からの連絡を受け取った燈子が急いで帰って来た。すぐさま警察を呼び、事情を話した。話している最中にも涙はどんど溢れてきて、

「そうね、怖かったよね」

 女性警官が背中をさすりながら事情聴取を進めた。

 一通り事を終え、警察が帰って行った後、全身ずぶ濡れで息を荒げて千歳が走り込んできた。千歳の姿を見るなり、リビングで小さくなっていたあぐりは両手を伸ばし、震える小さい声で、

「おとしゃん」

 そう千歳を呼んだ。千歳はすぐさまあぐりを抱きしめた。そしてただ何も言わず、ひたすらあぐりの身体をさすった。騒動を聞きつけて帰って来た新造が千歳から濡れた上着を剥がす。千歳はあぐりをより強く抱きしめて、

「今日はお父さんと寝よう」

 そう言うと、あぐりは何度も頷いて涙を千歳の胸に染み込ませた。

 二人であぐりのベッドに入る。体温の低いあぐりは、体温の高い千歳のおかげで普段よりとても暖かい布団に包まれた。千歳はじっとあぐりを抱きしめて、頭を撫でていた。

 何事も無かったように、6時35分、時計のアラームがいつも通りあぐりを起こした。だがいつもより目覚めがよく、清々しい空気だった。窓のシャッターを開けるボタンを押し、ゆっくりとシャッターが開けられていく。雨上がりの洗い立ての空には雲がまだ残っていて、白い朝の空が覗いていた。

 ベッドの中に千歳はすでにおらず、あぐりはいつも通り特に何かするでもなく、まっすぐダイニングに向かった。

「おはよう、あぐりちゃん」

 真っ先に声をかけてくれたのは燈子だった。あぐりを抱きしめて、普段座っている席に促される。その横に座っている千歳も「おはよ」と軽く声をかけ、あぐりの頭を撫でた。朝食もいつも通り、みそ汁とトーストだった。

「ジャム何にする?」

 燈子がいくつかジャムを机に並べる。あぐりはその中から特に好きなメルバジャムを取ってパンに塗り始める。

 朝食を終え、あぐりはいつも通り学校に向かう。

 学校に着くと、生徒たちはすぐ、校舎裏に停めてあるバスに向かう。あぐりもその流れに乗り、自分のクラスのバスに向かった。

「あぐりー!」

 友人があぐりを見つけて手を振った。真っ先に特に仲の良い友人が声をかけ、

「メール見たんだけど、本当に大丈夫? ケガとかしてない?」

 あぐりを気にかけてくれた。あぐりは友人の優しい顔を見るなり、

「なっちゃ~ん」

 友人に抱き着いて肩に頭を乗せた。

「今日はホラ、せっかくのネズミ―ランドなんだからさ、楽しんでそんなこと忘れようぜ!」

 別の友人が励ましてくれる。

「うん、そうだね。ね、班決めまだだよね、どうする?」

「じゃあ、絶叫系無理なのと平気なチームに分かれよう」

「ね、あぐりは向こう行ったらまず何する?」

「まずは~、ワゴン探すかな。何か美味しいもの食べたい」

「え~、また太るよー」

 女子高生らしい会話が飛び交う。そのうちバスに乗るよう声が掛けられ、あぐりらはバスに乗って遠足を楽しんだ。

 帰り際、担任に声をかけられ、

「お父様から電話があってね、昨日不審者に襲われたんだってね?」

 その言葉に一瞬体が強張った。

「怖かったわね~。大丈夫? ケガとか無い?」

 担任は心配そうにあぐりを見た。けどあぐりは今日のおかげか、意外にもあっさりしていて、

「ありがとうございます、平気です。転んだりしたんですけど、カバンがクッションになったおかげでケガとかも特になく」

「気を付けてね。一応、他の生徒に、こういう不審者情報があったって伝えてもいい?」

「はい、是非」

 担任はあぐりを背中を軽く撫で、手を振って見送った。

 それからしばらく、ストーカーは姿を見せなかった。今まで背後を守られていたことを考えると、今、彼がいなくなってしまったのは少し寂しく、背中が冷たく感じた。

 春も終わりが近い初夏の見え始めるころ。部活の無い日は1人で帰れるようになり、部活のないこの日は1人で帰路を向かっていた。ふと、墓地に入る十字路の横道の始まりに、電柱の陰に隠れる紺色の塊がはみ出ているのが見えた。あぐりは少しためらったが、彼のおかげでもあるんだし、ともう一人の自分の声が聞こえ、その方に足を向けた。

「ねぇ、オジサン」

 紺色の塊が一瞬振るえるのが目で分かった。

「オジサンでしょ、私を守ってくれたの」

 あぐりは腰を折ってオジサンの顔を覗き込んだ。オジサンは深くかぶったフードから横顔を覗かせてあぐりを見つめるだけだった。けど、なかなかその場を離れようとしないあぐりを追い払うためにも何か言わなければと思い、

「ぼ、僕は何も……あの時の夜の事なんて」

「夜って知ってるんだ。じゃあオジサンだ」

 そう言ってあぐりはオジサンの腕を掴んで立ち上がるよう促し、

「来て、行きたいところがあるの」

 オジサンを引っ張って何処かに向かった。オジサンはされるがまま、子供に引きずられるぬいぐるみのようについて行った。

 到着したのは小洒落た小さいカフェだった。ドアを開けるなり、軽いカウベルの音が鳴って、店員のコロコロとした女性の声が飛んできた。人数を尋ねられ、あぐりは指を二本立たせる。その背後でオジサンは首と手を左右に振るが、あぐりの肘が身体をどついて来た。

 二人はコーナーの人目が付きにくい席に案内された。

「ここね、行きたかったんだけどなかなか行く勇気が出せなくて。家族誰も生きたがらないし、おとうさんは仕事だし」

 あぐりはそう1人で次々に思った事を口にしながら、メニューを手に取って料理を選び始める。だが、うつむいてソワソワするだけのオジサンに、

「背筋伸ばして!」

 細長いメニューをオジサンの顎の下に入れ、顔を持ち上げた。あぐりの強い眼差しと、オジサンの怯えきった視線がぶつかる。オジサンの全身から脂汗が噴き出る。

「オジサン、結構可愛い顔してるんだね」

 あぐりは頬杖をついてオジサンの顔を見つめる。

「お、大人をからかうのも大概にしなさい」

 オジサンはそう言って席を立とうとすると、

「いいのかなー? だってオジサン、ストーカーだよ? ここ、近くに交番あったねぇ」

 あぐりが後ろの向こうの方にある窓を見ながら言う。オジサンはため息を机の上に流しながら重い腰を下ろした。

「フフッ、素直じゃないんだね」

 あぐりは微笑みながらメニューを開いてオジサンの方に向けた。

「これおすすめだよ。まだ食べた事無いんだけど、オジサンでもイケると思う。私はこっちにするから、そっち半分ちょうだい」

「えっ、でも」

「え、独り占めするつもりだったの!?」

 あぐりが目を細めてオジサンを見つめると、

「わかったよ」

 オジサンはうなだれて、呼び鈴を押した。

「えっ、まだ」

 あぐりは急いでメニューを見回す。すぐに店員がやって来て、オジサンはメニューを指さしながら、

「これと、これ、あと~……これとこれとこれ、一つづつ」

 店員は注文の確認をすると、会釈をして下がって行った。

「ちょっと、私そんなにお金持ってないよ!?」

 あぐりは机に身を乗り出して言うと、

「いい、僕が奢るから」

「それじゃフェアじゃないじゃん!」

「いいんだよ、子供は」

 オジサンは机に突っ伏して顔を隠してしまった。だがすぐに腕を何か硬いものでつつかれ、顔を上げると、

「勉強するから」

 あぐりが数冊の教材を机の上に広げた。二人だけでも狭い机の上に教材を広げるから、机からはみ出た教材が落ちそうになり、オジサンが急いでそれをキャッチする。

 スラスラとシャーペンが教材の上を滑っていくが、途端に止まって動かなくなってしまった。

「ねぇ、オジサンここ分かる?」

 あぐりが教材を向けてきた。オジサンは問題を読むなり、

「あぁ、これは簡単だよ。これね、裏技があってさ。この数字を最後のこの数字と掛け合わせて――」

「本当だ、すごいわかりやすい!」

 そうこうしているうちに、注文した料理が運ばれてくる。あぐりは目を輝かせて料理を見つめ、すぐさまスマホを取り出して写真を撮った。

「そうだ、ほらオジサンも一緒に」

 あぐりはスマホを片手で持ってオジサンに背中を向けると、内側カメラでオジサンと自分を写して撮った。

「ねぇどうして笑わないの?」

「え……っ、今何を」

「フフ、不細工」

 あぐりは画面を見て微笑ましそうにする。そしてフォークを持って、どの料理から手を付けようかと、料理の上でフォークを泳がせた。

「本当に奢ってくれるなんて」

 あぐりは悪戯な表情で顔を覗き込んだ。

「当たり前だろ、子供に奢らせるなんて……」

「それじゃオジサン、また来週」

 あぐりはそう言って、手を振って帰路を向かった。オジサンも夕焼けに消えていくあぐりの背中に小さく手を振り、背を丸めて反対側に向かって帰って行った。

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