第十一話 泳ぐ死んだ魚
無駄に生きていた。
ただ流されるままに、社会の流れに流れ、勝手に体は大人になり、とりあえず川の言う通りに勉強して、進学して、就職して――。
そこに僕の意志はあっただろうか。僕の叫びは放たれただろうか。
そもそも僕は、何故川に流れていたのか。川から上がることも出来ただろう。
そんな事を考えていたら、垂れ流しにしていた朝のニュースが耳に入って来た。へぇ、ニート問題……。そうか、そうだったか。逃げたらああいう扱いをされるんだった。そうだったな。だから僕は川から上がることを恐れたんだ。川の外の、陸の上の世界を恐れた。いや、上がることによって後ろ指をさされたりするのが怖かったんだ。それに、親に迷惑をかける事も――いや、これは〝日本人として良い顔″をするために言っている言葉で、おそらくもう、家族なんかに期待も愛も持っちゃいない。
僕は臆病だ。死ねば川の外に行けただろうに、そうしなかった。死ぬ勇気もない。なのに生きる事も諦めている、中途半端な奴だ。こんな奴はさっさとおっ死ねばいいのに……それすらも、臆病が故の考えだろうな。
あぁ、無駄に生きている。空気を汚し、二酸化炭素を排出し、本当に必要な人がいると言うのに、そんな人らを押し退けて僕だけこんな豊かな暮らしをして……。
いっそ日本を出ればいいのか。だがこんな僕にそんな勇気などあるはずもない。そりゃそうだ。年収300万以下で低所得者扱いの時代ではあるが、実際年収300万以下なんて妥当で、政府は統計を中の上の人民層を基準にしてやがる。政府も国民もおかしな奴らばかりだ。この国は間違っている。一定社会において一定水準を超える人間は異物と判断され、排除されるか矯正されるかだ。そして自分の社会は間違っていないと言い、他の社会を間違っていると言う。そう言いつつ、自分の考えは間違っていないという事を確かめるため、自分の社会にいる人の顔を見る。
この国の民度は最高だな!
とかなんとか考えていたら、テレビが8時を知らせた。国民的ドラマの始まる時間だ、消さないと。このドラマはなかなか良いと思うが、少し気に入らない。あまりに平和すぎるからだ。あまりに普遍的で平和すぎる世界で起こる、ちょっとしたトラブルくらいしか描かれない。人間の衝突なんかも描かれるが、果たして人とはこんな衝突のみで済むのだろうか。
――いや、そもそも、排除と矯正を恐れて水準を超えないようにして生きてきた僕が言えるようなことじゃないか。
さ、行かなきゃ。今から出れば別に余裕を持って行ける。問題はない。
これからどこに行くかって? 就職面接だよ。僕は就活生かって? まぁ若くないわけじゃないがそう見えるだろうが、残念ながらそこまで若くない。30半ばの独り身の男だ。家族にも見放され、恋人も30年いない、ただの30のオジサンよ。じゃあそんな中途半端な人間がなぜ就活? 親の期待通り東北で指折りの大学に入り、そこそこ名のある大企業に就職して、さぁ今度は孫の顔だなんとか注文されて、それに応えるのが息子の務めだと無意識に信じて走って走って――。
転んだのはどこで転んだんだっけ。上司を殴ったんだ。それで暴行罪で起訴されて。何で殴ったんだっけ。馬鹿にされたんだ。僕じゃなくて、矛盾を。それは多分僕には全く縁のない彼らの事だったんだろうけど、ひとくくりにされて、彼女の事を馬鹿にされているように聞こえて、彼女は必死にただ行きたかっただけなのに、媚びを売ったのも生きるためで、彼女は望んだわけでも無くて、彼女はただひたすらに、ひたすらに、彼女は、彼女は、彼女は、彼女は彼女は彼女は彼女は彼女はあああああああ――。
頭の中に溢れる言葉と共に、足が速まり、こぶしの力が強まり、心臓が走り出し、鼻息が荒くなり始め、目玉が赤くなっていく。
彼女は、彼女は! 彼女はただひたすらに! 彼女は! 彼女は! 彼女も! ただひたすらに! 僕も! この理不尽な世界に! 僕は! 僕は……?
一瞬、自分の考えに疑問を抱いた途端、足が止まった。そうだ、バスの時間。急いで腕時計を確認する。8時23分。まだ5分はある、良かった。目的の2番乗り場を目で捉えて向かう。面接の事を考えよう。大学では何してきたか、前の職場では――。
などと考え始めていたが、途端に考えが抜け落ちた。いや落ちたのではなく、別のものが飛び込んできたんだ。もっと大きくて、僕の命にかかわるほど大きなこと。
彼女が、ここに、いるわけないだろう――?
細くて、背が低くて、黒髪で、小さな鼻に大きな目、整えていない短い眉、下手な笑顔――だが、彼女は今まで見たどの笑顔より、幸せそうだった。彼女を笑わせているのは……知らない男だ。子供? 友人か? 彼氏か? そいつはどこのどいつだ?
「ねぇ、おとうさん」
彼女は幸せそうに微笑みながら、その男に声をかけた。父親? だが君は確か、自分で父を殺めたんじゃなかったか?
なぁ、また僕を見てくれよ。僕、ここまで生きたんだよ。ここまで頑張ったんだよ。だからどうか、君の手で僕も――!
彼女の腕をつかんだ。僕だよ。覚えてる? どうしてそんな、不思議そうな顔をするんだ? そんなに恐れるんだ?
「あの、娘に何か用ですか?」
隣にいた少年が彼女をかばうように抱き寄せ、僕の目を睨んできた。あれ、僕は何を……。
バスが到着したようで、横から扉の開く音がした。
まずい。僕は何をしているんだ。だってよく見ればあこの子は彼女とは少し違うし、彼女がこんなところにいるはずがない。
「ご、ごめんなさい! 人違いでした……」
のどの奥から絞り出したように、震える声が流れ出た。
少女と連れの男は少し安心した様子で、だが男はまだ警戒している様子で僕を見て、彼女を守るように肩を持ってバスに乗り込んだ。一番前の席に少女を座らせ、男はその前の吊革を持って立っていた。そしてバスは何事も無かったことにするかのように、二人を連れて行った。
誰もいない1番乗り場に、僕一人だけが佇んでいた。
朝日に温められた無機質な白いバスターミナルに、黒いヨレヨレのスーツを着た僕だけが立っていた。




