新薬(前編)
何かの事務所……と呼ぶには少々広すぎるビルの一室。そこを青い服を着た男たち数人が闊歩する。
その男たちに指示を出す背の低い女性。あたりにはピリっと張り詰めた空気と漂っている。
ようやく一通り指示を出し終わり、ようやく一息を付いて自分の仕事に戻ろうと振り向いた時である。突如振り向いた自分の背後に当たる場所に立つ黒い影に気がついた。
「えっ!?あ、ちょっ!ちょっとあなた!」
その巨大な黒い影はその女性の抗議を意に介すことなくずんずんとあたりの青い作業員の仕事ぶりを見て回る。
「ちょっとハワード警部!入っていいかも聞かずに勝手なことを!」
「エミリー係長殿、入っていいか?」
「ダメに決まっているでしょう?まだ鑑識の作業中です!」
切れ長の目に随分とでかい図体をした刑事――ハワード警部はそれを聞いてすら出て行く気はないようだった。
「全くもう……それにしても今日はずいぶん早いご到着ですね。私たちですらたった今到着したっていうのに」
「たまたま現場近くにいたものだからね」
「あぁ~、そういえばあの病院ってこの現場近……」
エミリーがそう言いかけたと同時にハワード警部が横目でじろりとエミリーを睨みつけた。
「……コホン、まぁ仲睦まじいのは良いことだと思いますよ」
「……現場の状況は?」
「ガサ入れしたときは時すでに遅しでした。『夜明けの子』教団は監禁していた通称"患者"をすべて殺害後、幹部も高濃度の硫化水素を充満させた一室でひとり残らず自殺。結局教団の動機や目的は以前わかんないまーんま。今回の現場検証でなにか出てくるといいんですけど……。奥にまだ警部の大好きな教団幹部の死体もたくさんありますけど見ていきます?」
「お前には不謹慎という言葉を辞書で百篇引くことをおすすめしたいね。どちらかというと俺は殺害された"患者"たちの遺体に興味がある。この鬼畜どもは殺害した"患者"をどうしていたんだ?」
「ほとんどの遺体は地下の幽霊が出そうなくらい薄暗い霊安室と呼ばれている部屋に保管されています。ほんと一体何が目的だったのか理解に苦しみますね」
「そもそもガサ入れが早すぎるんだよな。まだ証拠固めの最中だったっていうのに……」
「まぁ終盤はかなりマスコミが騒いでましたからね~……。捜査本部も早期解決のつもりだったんでしょうけど、完全に裏目に出ちゃいましたね」
その凶悪な事件が最初に確認されたのは約一年前のこと、ハワード警部の所属しているD市警に恐ろしい情報がもたらされたのだ。
「……グリフィン財団の実態は実は違法な人体実験研究所?」
刑事部長と参事官に呼び出されたハワード警部に驚くべき事実をが伝えられる。
「その通りだ、このグリフィン財団がホームレスや家出した少年少女など足のつきにくい人間を誘拐し、施設内で違法な人体実験をしている新興宗教『夜明けの子教団』ではないかという疑いがある」
「この財団は裏でマフィアにも通じているという噂もあり、我々はこの財団の所有する施設は麻薬開発の巣窟になっているのではないかと睨んでいるのだ」
「なるほど、自分がそのグリフィン財団の捜査を……ってわけですか」
ヤクザもの相手の捜査というのは根気の勝負である。情報提供者や情報屋を探しつつ地道に内偵を続け、証拠を固めていかなければいけない。それを行わないガサ入れは怪我の元である。そしてこの一年でいくつか教団について落ちた情報がある。
まず、施設に出入りしている幹部と呼ばれる連中のほとんどが医師免許や薬剤取り扱いの免許を持っていること、そしてリーダーはフリッチと呼ばれる元医学大の教授だったということである。
さて、エミリーの制止を無視してビル内を歩き回っていたハワード警部だったが、とある部屋の一室に目を留める。ドアノブに触れてみるとカギが開いていたため中に入るとそこは多くの本に医学書や薬学書の立ち並ぶ資料室のような場所であった。
(捜査している時から思っていたが、やはりここはただの麻薬開発の研究所ではないな……)
捜査中から感じていた違和感が徐々に強まっていくのを感じていたところで警部は一冊のノートを見つける。
「『Dn投薬観察書』……?」
題名の意味はわかりかねるがひとまずノートを開く、といってもノートは前半しか記述がなく後半のほとんどがまっさらな状態で合った。
「なになに……?『被検体Dn124-2にZx薬8mgを投与……。5分後、症状HOを確認……。20分継続して繰り返し絶命」
何やら投薬実験の経過観察を記録した記録書のようなものであることにハワードはすぐに気づく。
「次のページは……」
続きをハワード警部がめくろうとした時である。
「警部!警部!あぁーもうまたこんなとこに勝手に入ってる!!」
エミリー係長殿に見つかってしまった。
「いや鍵があいてたから」
「お前は空き巣か!!もう警部の大好きな霊安室の死体を見せてあげますからさっさと出てってください!」
「お前は不謹慎という言葉をだな……」
係長があまり急かすものでハワードはついうっかりそのノートを懐にしまってしまう。が、これが後に予想外の事態を引き起こすことになる。
さて、その資料室のような場所は三階にあったのだが、地下の霊安室に行くには階段を使う必要があり、エミリー係長に蹴られながら霊安室に向かっていたところだ。突如階段の下の方から複数の足音と話し声が聞こえてきてエミリーとハワードは思わず足を止める。
「エミリー係長と、ハワード警部ですね?」
「えぇ、そうですけど?」
「私福利厚生省大臣官房秘書課のロードと申します」
「はぁ……」
数人の白衣を着た集団を引き連れなんとなく異様な雰囲気を醸し出しながら階段の下で仁王立ちをするその一団の集団にいる小太りの男が二人に話しかけた。
「失礼ですが、この現場の捜査は我々福利厚生省が引き継ぐこととなりました。この件は警察庁次長や刑事部長らの納得も既に得ております。警察の方はお引取りを」
「え?あのおっしゃる意味があまりわからないのですが……」
「そうでしょうね、二人を出口までお連れしろ」
っと、白衣の一団から屈強そうな四名がエミリーとハワードの両腕をがっしりとつかみ、現場の外へと追い出す。ハワードは一切たじろぐことはなかったが、エミリーの方は非常に往生際が悪く。
「ちょっと!おい!放しやがれごらぁ!」
っと女性が壊れる程の暴言を吐きながらも、多勢に無勢で福利厚生省とかいう男達によってまるで部外者は出て行けと言わんばかりに施設の外の黄色いテープの外側まで追いやられてしまう。追い出された直後は呆然としていたエミリーも長くは続かずすぐに悪態をつき始める。が、ハワードはそんなおおよそおしとやかではない言葉を連発するエミリーに声をかける。
「福利厚生省大臣官房秘書課とか言ってたな。聞いたことあるか?」
「……あ゛ぁ゛!?」
が、怒り心頭に発したエミリーの耳にハワードの言葉は達していないようだった。
「いや、初めて聞く名前だなって思って」
「そう……だね、確かに」
「…………帰るか」
教団の施設をひとしきり眺めたあと、気が済んだかのようにひょいっと背を向けるハワード。その様子にエミリーが腰を抜かす。
「ちょっと!あんた悔しくないの!?あんなわけのわからない連中に仕事を取られたのよ?」
「仕事が終わるのを待たせてる人もいることだしね。今日のところは退散するさ。あと、お前も一応警察なんだからあまり大声で殺すとか外で物騒なこと言わないほうがいいと思うぞー」
エミリーはまだ後ろで喚いていたががハワードは全く意に介さず教団の施設を後にするのだった。