届かない声
【届かない声】
大学に通うためにアパートを借り、一人暮らしをはじめて一週間ほどがたったある晩のことでした。
真夜中に寝苦しさを覚えて目を覚ましますと、金縛りで体の自由が一切きかない状態でした。
さらには胸のあたりに何かがいる気配がしました。
胸への圧迫感と体の硬直、そして不気味な気配とで遠くなりそうな意識の中、必死で目を凝らして見るとついにその謎の気配の正体がわかりました。
そいつの正体は、パイプ椅子に腰掛けて、静かに目を閉じている中年男性でした。
道理で胸が苦しいわけだ!
設置面積の小ささが仇となり、パイプ椅子の脚がわたしの胸に食い込んでいる!
恐ろしさと息苦しさの中、わたしは必死になってかすれる声で念仏を唱えました。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
しかし、消えるどころか中年男性はゆっくりと体を前傾させはじめたんです。少しずつ顔が近づいてきます。
わたしはとり殺される恐怖に涙を流しながらも、叫ぶように念仏を唱えました。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏!」
すると、中年男性は右耳をわたしの方に向けたかと思うと、その耳にそっと手を添えたんです。
なんと聞こえていなかったのです!なるほど聞こえていないのでは念仏が効かないわけです。
わたしはこのままではいけないと思い、学生時代に声楽部で鍛えた喉で全力の南無阿弥陀仏を聞かせてやろうと大きく息を吸い込み、
「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏ッ!南無阿弥陀仏ゥッ!南無阿弥陀仏ァアーッ!!」と窓ガラスが震えるほどの声で叫び散らしました。
しかし、中年男性は人差し指を立てたかと思うと、また、右耳に手を添えたのです。
聞こえなかったからもう一度、そう催促されたのです!声楽部で鍛えたこの声が!しかもこの距離で!ありえない!
わたしは青春時代の情熱の熱さを否定されたようで頭に血が上り、気がつくと
「なんで聞こえへんねん!お前、この距離やど!」と怒鳴っていました。
すると、中年男性はサムズアップをして、ゆっくりと闇に溶けていきました。
わたしは再び涙を流してしまいました。
わたしの青春は間違ってなかったのだと。




