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青空学徒

作者: 薬屋綿流


   親愛なる先生へ


     前略


     中略


     後略


     追伸


私は、人間に疲れました。

   私は、人間を諦めました。

   私は、人間をやめました。


生徒より  




 朝霞千尋の寝起きは最悪だった。ソファーで寝ていたせいで身体のあちこちが痛み、昨夜風呂に入り忘れたせいで髪の毛と身体が妙にべたついて気持ち悪く、さらに空腹感からくる苛立ちが徐々に募っていく。

 普段から健康的で整った生活習慣を送っている千尋にとっては、慣れない不快感であった。

 ――伯父貴のせいだ。

 千尋は昨夜の出来事を思い出し、後悔のこもった息を吐き出した。

 千尋の伯父は、簡単に云えば千尋の親代わりである。幼くして両親を亡くした千尋を引き取り、男手だけで育て上げたのである。強面で表情の変化の少ない大男なのだが、ここ最近はよく千尋の仕事場兼自宅のアパートに来ては、千尋と酒を酌み交わしているのだ。とは云っても、千尋は下戸なので伯父がひとりで浴びるように酒を飲んでいる有様。隣人からの苦情も絶えず、千尋にとっては迷惑なだけである。

 それだけならまだしも、今回は面倒な置き土産を残していった。

 それは伯父が帰り際に言っていたことだった。

〈千尋、お前確か、人捜しとかの仕事してたよな? 俺の仕事仲間なんだけどよ、何でも息子の友人を捜して欲しんだと。お前暇だよな? うん、暇だ。絶対暇だ。明日、ここに来るように言っておいたからな? 力になってやってくれよ。〉

 有無を言わさず一方的にそう告げると、伯父は天狗のような顔で帰っていった。

 確かに千尋は捜し屋という仕事をしているにはしているが、それはあくまで副業。せいぜい小遣い稼ぎ程度でしかない。

 本業は作家とイラストレーターである。小説やエッセイを書いたり、雑誌などに載せる挿絵を描いている。仕事がたくさん入る時は、締め切りなどに追われて忙しい身になる。だが、仕事が入らなければ暇という不安定な職業である。

 しかも、幸か不幸か、この時の千尋は暇な身であった。

 千尋は素早く身なりを整えると、軽く部屋の掃除をした。原稿などは全て郵送なので、普段、あまり客の来ない部屋は散らかっていたのだ。

 一通り片付いた頃に、インターホンが鳴った。千尋はネクタイを締め直し、ドアノブに手をかけた。



 ――面倒なことになったな。

 


 目の前には、若い女が立っていた。

 さらさらと靡く漆黒の髪。きめ細やかな白い肌。抱きしめたら折れてしまいそうな細い身体。良い意味で不自然なほど整った美しさだった。

反対に、その服装は眉を顰めてしまうようなものだった。よれよれの黒いズボンに男物の白いワイシャツ、何よりも不自然だったのは小さな顔に不釣合いなほど大きな帽子を深く被っていたことだった。

「誰ですか?」

 と無表情で尋ねると、千尋は一瞬だけ背筋に悪寒を感じた。

 目の前の女は帽子を被ったまま小さく頭を下げ、

「はじめまして、柚木静音と申します。おそらくすでに朝霞寿三さんからお話は窺っていると思いますが」

「というと・・・・・・あなたが伯父の仕事仲間の方?」

 千尋は目の前にいる女を凝視した。伯父の仕事仲間にしては、あまりにも若すぎる。どう見ても女学生にしか見えない。おそらく千尋の半分ぐらいの歳だろう。

 静音は千尋の言葉に首を振った。

「いいえ、違います。依頼主である柚木善治は不慮の事故に遭ってしまい、代わりに娘の私が来た次第です」

「なるほど・・・・・・そうでしたか」と言うと千尋はしばらく考え込んだのち、警戒を解いた。「それじゃあ、仕事の話をしましょう。どうぞ上がってください」

 千尋はドアを大きく開いて中に招き入れようとするが、静音は立ったまま動こうとしない。

 ――襲われる心配でもしているのか?

 若者の、しかも女の考えていることはあまりにも難解で、複雑で、千尋のような枯れた男には到底理解できるものではなかった。今の考えもただの推測でしかない。

 しかし、何かを警戒していることは嫌でもわかった。いや、それよりも強い、拒絶に近い雰囲気だった。

 焦燥というか恐怖というか、そういう感情的なものではなく、発作とかそういう病気の類だったのかもしれない。胸が締め付けられ、視界が揺らぎ、手足に寂しさに似た痛みが走る。身体と意識が分離して、まるで肉体という匣の中から世界を覗き込んでいるようだった。

 深淵のような乖離だった。

 そうまでして逃げたいのだろうか。

 ――逃げられやしない。

 ただ、人が怖いだけだった。

「・・・・・・ケーキは好きですか?」

「え? あ・・・・・・はい」

 突然の、しかも意味不明な質問に静音は当惑した。

 千尋はぎこちなく頭を掻きながら、

「少し歩きますが、近くにデパートがあるんです。最近、その中に喫茶店が入ったらしいんですけど、むさい中年男がひとりで行くのはどうにも恥ずかしくてね・・・・・・・・・・・・少し付き合ってもらえませんか?」

「・・・・・・・・・・・・はい」



「ショートケーキとコーヒーを」

 千尋が無愛想に注文すると、店員は静音の被っている帽子を訝しげな表情で一瞥しながらも、屈託のない営業スマイルを浮かべて厨房に去っていった。

「本当に喫茶店ですね」

 運ばれてきた水を一口飲んで、静音が呟いた。

 ログハウスの雰囲気を出そうとしたのか、店は落ち着いた焦げ茶色を貴重とした内装だった。若干の薄暗さを感じてしまうが、この方がそれぞれの席のプライバシーが守られているようで安心できた。

店内には聞き覚えのあるクラシックが流れていて、仕事の話をするのにちょうど良かった。

「どこに連れて行かれると思いました?」

「誰もいない公園の公衆トイレとか」

「あー・・・・・・そう・・・・・・」

 弁解する気も起きなかった。どのようなプロセスを経て、自分が静音の中で変質者になってしまったのか。考えれば考えるほど疲れてしまう。

 茶色の椅子の上に座り、テーブルに置かれたコップの中の水に薄っすらと映る自分を見つめ、項垂れる。伯父のこともあってか、千尋は疲れきっていた。

 ――ここが公園のベンチじゃなくて良かったよ。

 望まない未来を予感して、千尋は小さくため息をついた。

 そんな千尋を尻目に、静音は淡々と切り出した。

「それでは依頼内容を確認させてもらいます」

「人捜し、でしたね。確か、あなたのお父さんの息子さん、つまりあなたのお兄さんの友人を捜してほしいと」

「若干、違います」

 ――え?

「その友人を捜していただき、これを渡してもらいたいのです」

 と静音がズボンのポケットから一枚の手紙を取り出した。四つ折になったそれを開き、向かいに座る千尋に手渡した。

 そこには珍妙な文が書かれていた。本文は全て省略されており、宛名らしきものと追伸、そして差出人の名前だった。

 ――『生徒』・・・・・・ふふっ。

 追伸の内容と差出人の名前『生徒』が、千尋の頭の中の何かに引っかかった。

「・・・・・・・・・・・・」

 右手の親指の爪を噛みながら熟考。その間に店員がイチゴショートケーキとコーヒーを運んできた。「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げると、条件反射で千尋も頭を下げてしまった。

静音も店員も少し驚いていたが、千尋にその自覚はなかった。

店員が去ったあと、千尋が口を開いた。

「このし・・・・・・手紙に書かれている『親愛なる先生』について、何か心当たりはありませんか? 例えば男だとか、女だとか、おそらく友人のことを指しているのだと思うのですけれど・・・・・・」

「いえ、私は何も・・・・・」

「では、ここに書かれている『生徒』についてですけど・・・・・・これはお兄さんを指しているのでは?」

 静音は首を横に振った。違うという意味だろうか。それとも答えられないという意味だろうか。

 千尋は詳しく聞くことはなく、淡々と次の質問に移った。

「そうですね・・・・・・そうしたら、いつ頃に書かれたものなのかわかりませんか? いえ、この際何でもいいです。知っていることを話してください。何でもいいんです」

「残念ながら・・・・・・。依頼主である父ならば何か知っていたかもしれませんが、私は何も伝えられていません」

 ――それで『捜せ』などと無理な話だ。

 千尋はテーブルにコーヒーが置かれているのに気づくと、一口のどに流し込んだ。熱い感覚が胸の真ん中辺りを流れていく。

 沈黙。

 勝手に流れ込んでくる音楽が思考を邪魔する。とはいっても、いくら考えたところで解決できるような問題ではないので、雑音にすらならない。

 今は、ゆっくりとクラシック音楽を楽しむ方が得策だった。

 ――このままこの話はなかったことになればいいのに。

 千尋がコーヒーを飲みながら、そんな都合の良いことを考えていると、

「わかりませんか? 何も」

 静音が消え入りそうな声を出した。帽子のせいで見えないが、所在なさげに千尋を見つめているようだった。

 千尋は遠慮も思慮もなく、

「はい」

 と大きく頷いた。

 すると、静音は俯いてしまった。もはや口元すら見えない。表情が窺えないので、声と雰囲気から感情を汲み取るしかない。無論、千尋に汲み取れるはずはなかったが、周りにいる客は帽子を被った少女を心配そうに見ていた。

 いくら千尋でもその視線に気づかないわけがなく、人間性不足ながらも静音に声をかけた。

「まあ、その、ケーキでも食べて」

「・・・・・・・・・・・・」

「おいしいと思うよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「もしかして、イチゴが苦手とか?」

「・・・・・・・・・・・・」

「あー・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 千尋は、ほとほと嫌気が指した。××に。

 ――人生、自分の都合のいいようにはいかないな。

 半ば諦めに、千尋は静音に訊いた。

「静音さん、あなたは本当にこの手紙をその友人に渡したいと思っているんですか?」

「・・・・・・はい」

 帽子の下からはっきりとした声がした。

「何が起こっても、ですか?」

「はい」

 強い声だった。若さのエネルギーとでも言おうか、決意の固さとでも言おうか、とにかく千尋が持ち合わせていない、とうの昔になくしてしまった輝きだった。

 ――羨ましい。

 と千尋は本心から思った。

 同時に、

 ――終わらせるか。

 と軽く決意した。



 屋上に出た。

 千尋はフェンスを背に座り込む。静音はその隣で立っている。

「関係のない人間には聞かれたくないので誰もいない場所を選んだわけですが、襲われる心配はないので安心してください。ここは公園ではないので、大声で叫べば、もしかしたら誰か来てくれるかもしれません。だから、安心してください。まあ、それ以外のことは保障できませんけどね」

 笑顔で身の危険を煽るような言葉を捲くし立てる。性格の悪さを隠す気になれなくなったのか、そんな余裕はなくなってしまったのかのどちらかであった。

千尋にとって、今日は最高の厄日だった。何年も待ち焦がれていたが、一生来なければいいとも思っていた。

「座ったらどうですか? スカートではないから見られる心配はありませんよ?」

 千尋は静音を見上げる。その目に映る彼女の表情は、やはり見えない。

「結構です」

「身体でも触られると思っているんですか? それとも――」

 急に千尋の視線が冷たくなる。さっきまで浮かんでいた笑顔はすぅっと消えてしまい、氷のような無表情が静音を見ていた。

「――お兄さんの服が汚れるのがそんなに嫌ですか?」

「っ!?」

 蹴られた。左肩を思いっきり右足で。女の力とはいっても、運動不足で老化の始まった中年の身体には随分こたえた。

 千尋は倒れた身体を起こし、右手で左肩をかばうようにさする。

 しかし、その表情に変化はない。

「若いですね。突発的に感情が昂るのもそうだが、その感情についていける身体の反応、その動きも若さの証拠だ。本当に羨ましい」

 何事もなかったかのように口を動かす千尋とは反対に、静音は何が起こったのかわからない様子だった。息が上がっていて、興奮がまだ冷めていないようだ。

「落ち着くまで待つよ。話はそれからです」

 立ち尽くす静音を横目に、千尋はフェンスに凭れる。

 気がつくと、もう夕方になっていた。空が茜色に染まり、影が長くなる。オレンジ色のやさしい光を見ていると、眠くなってしまうほど心が落ち着いて、今日一日の出来事を忘れてしまいそうになる。

 ――昔は青かったのに。

 虚ろな瞳は茜色に染まっていた。

「昔はこうやって空ばっかり見ていた・・・・・・」

 千尋は思い出しているかのように、独り言を呟き始めた。

「決して勉強ができるわけでもなく、何か部活に入っているわけでもなく、人気者とかムードメーカになれる能力はなかったし、満足に悪いことも出来ないから不良にもなれなかった。

それでも人とはうまく付き合っていたつもりだった。彼女もいたし、可愛がってくれる先輩も、慕ってくれる後輩もいた。先生たちの評判も良かった。媚を売っていたわけではないけれど、それと近いことは常日頃からしていたから当然といえば当然だけど。

それでもやっぱり駄目だ。

幸せを感じなかった。

自分が生きているという感覚がなかった。嬉しいと思うことも、楽しいと感じることもない。悲しかったり、苦しかったり、憎かったり、そういう感情は飽きてしまうほど抱えていたけど、『過ぎたるはなお及ばざるが如し』というか、あんまり多すぎると鈍化してしまうんだ。それが当たり前になってしまって、感覚として、感情として捉えることができなくなってしまう。

周りからの反応も感じなくなった。というより、耳を貸さなくなった。どんな賞賛も批判も全部無視した。

何も見えなければいい。

何も聞こえなければいい。

何も感じなければいい。

そう思っていると、不思議なことに本当にそうなった。見る見るうちに視力は落ちて、人と会話をしていると何度も聞き返したり、感情の振れ幅がどんどん小さくなっていった。

感情を作ったり、真似たりすることは簡単にできたから生活に支障はなかったけどな。

だが、泣くべきところで泣けなかったり、笑うべきところで巧く笑えなかったり、そういうのが辛かった。

中途半端な凡夫は苦労するよ。

何か一つでもいいから、人より誇れるものが欲しかった・・・・・・」

 すっと千尋は静音の方に向き直った。そして、憂いを含んだ目で、申し訳なさそうな表情を作った。

「そんな俺とは反対に、あなたのお兄さんは立派でした。勉強もできたし、人望も厚かった。何より、心がきれいだった」

 ゆっくりと静音に歩み寄り、距離を三十センチほどに詰めた。すると、静音の頭の上に乗っている帽子に手を置いた。

「いつも妹の、あなたの心配をしていましたよ。生まれたばかりのあなたのことを気にかけていた・・・・・・」

 そっと帽子を取る。

 すると、静音の端正な顔が露わになった。まるで人形のように精巧に作られたみたいだった。日本人らしい清楚な美しさがそこにあった。

 しかし、一部だけ違っていた。

 灰色の目。

 遺伝子による先天的な色素の異常。

「『静音が大きくなった時、瞳の色でいじめに遭うことはないだろうか。瞳の色が違うというだけで、自分を卑下したりしないだろうか』そんなことばかり言っていたよ」

 千尋のその言葉に、静音は喜べばいいのか悲しめばいいのかわからないといった表情をした。

 初めて人間らしい顔を見せてくれた静音を千尋は愛おしそうに見つめ、

「そんな彼でも運動は苦手だったようだが、それをカバーできる才能を持っていた」

 千尋の表情が急に暗くなった。

「彼には文才があった。書き始めたばかりだとか言っていたが、いくつも賞を取っていた・・・・・・」

 静音の身体が小刻みに震える。両手を強く握り締め、歯を食いしばる。

「だから・・・・・・」

 静音は千尋の言おうとしていることがわかっていた。だから、それが憎らしくて堪らなかった。灰色の目が怒りで揺れる。声が震える。今にも襲いかかりそうな様子だった。

「そう。だから、俺は真似た。彼の文体を完全に真似て、小説を書いた。そして――」

 千尋は苦悶の表情を浮かべ、



「――彼の才能を奪った」



 ぐわっと静音が千尋の胸倉を掴む。そして、右手を振り上げ、殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。

 千尋はそれを無表情で受ける。何も感じていない。まるで人形のように。

「あなたさえいなければっ! 奪いさえしなかったらっ!」

「兄さんは死ななかった・・・・・・と?」

「うくっ・・・・・・」

 静音の目に涙が浮かぶ。

 そんなもの知ったことかと千尋は言葉を続けた。

「『人間をやめました』これは死んだということだろ? コピーだからね。オリジナルの表現方法ぐらいすぐわかる」

「うるさいっ!」

 また殴られた。握り拳は千尋の鼻に直撃し、血に染まった。

「・・・・・・あなたは優しい人だ」

 千尋はただ不思議に思っていた。目の前にいる少女は、どうしてここまで必死になれるのだろうか。

 やはり、何もわかっていない。笑えばいいのか、泣けばいいのか、怒ればいいのか、理解できないのでどのような顔をすべきかわからない。妥当なところで無表情を作り出す。

「『生徒』・・・・・・修治は完璧主義者だったからね。文才で俺に負け続けたのが許せなかったんだろう」

「申し訳ないという気持ちはないんですかっ!?」

 殴る。

 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。

 突き飛ばす。

 倒れる。

 蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。

「はあ、はあ、はあ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・気が済んだ?」

 息も絶え絶えになっている静音とは反対に、暴行を加えられ続けた千尋は平然としていた。顔にいくつも痣を作っておきながら、痛みを感じていないようだった。

「ごめんね。子供の頃から殴られているから、このくらいは平気だよ。痛覚が鈍化しているんだろう。痛いとも思わないね。」

 むしろ、これが普通だとでも言わんばかりに酷く落ち着いた声だった。

 しかし、その身体は壊れた吊り人形のように弱弱しい動きだった。手足を震わせて、ふらふらと立ち上がろうとするも、身体は満足に動いてくれない。背中が大きく曲がった状態で立つのがやっとだった。

「もう年寄りだ。昔は全然平気だったのに」

 かつての自分が羨ましく思える。だからこそ、この馬鹿げた茶番を終わらせるつもりだった。

 全てをなかったことには出来ないとしても、作りかえることは出来る。編集、いや、改竄だ。未来も過去も現在(いま)すらも否定して、極上のグランギニョールを見せてやる。ステージに上がる。主役はくたびれた中年。二度目で、きっとこれで最後になるだろう物語を始めよう。

「あのさ、少し気になることがあるんだけど・・・・・・確か、修治は父子家庭だったね。君の『柚木』という苗字は再婚相手のものかい?」

 さっきまでの争いはなかったかのように、千尋は世間話でもしそうな口調で尋ねた。

 当然のことながら、静音は当惑していた。

「怒っていないんですか?」

「え? 何で俺が怒るの?」

 至って自然に聞き返した。もし怪しまれていたとしても、嘘だと思われていたとしても、今の自分をやめるわけにはいかなかった。世間の基準としての常識は、千尋にとってもう意味のないものとなっていた。

「怒る理由も、必要も、そんなものは最初からないよ」

 自分を示す。単純な役作りだった。

 しかし、静音には真実のように見えていた。

 ――見え透いた嘘を嘘だと思える人間は少ない。

 結局のところ、自分にとって都合のよいことが正しいのだろう。

「それで、質問の答えは?」

「・・・・・・・・・・・・」

 静音は俯き、何かを考えているようだった。言おうか言うまいか悩んでいるのが、千尋には手に取るようにわかった。察するに、話したくない事情があるのだろう。話せないという場合もあるが、間違いなく前者だろう。

「質問の是非を答えてくれればいいんだよ」

 諭すように優しい言葉をかける。

 静音は困惑の色に染まった顔を上げて、

「違う。あなたを試すための偽名よ」

「試す?」

「自殺に追いやった旧友の妹かどうか気付くかと思って・・・・・・」

 着ている服もそれが目的だったのだろう。

 不意に、静音と修治の姿が重なって見えた。目も鼻も口も、肌の色さえ全く違うというのに、一瞬だが目の前に修治がいるように思えた。やはり兄妹であるからだろうか、それともこれは呪いか何かの類なのだろうか。

 そのせいか、恨み言もちょっとした悪口にしか聞こえなかった。

「いつから――」

 沈んだ声に、千尋は現実に引き戻される。

「いつから気付いていたのですか?」

 最初から。

「手紙を見せてもらった時だね。というか、手紙に俺の名前も修治の名前もあいてあったから」

「『先生』と『生徒』ですか・・・・・・?」

「あいつなりの嫌がらせというか、皮肉なんだろうね。『先生』を英語にするとTeacherになり、その頭文字は“T”だ。俺の千尋もローマ字表記にすると、頭文字は“T”になるんだよ」

「じゃあ、『生徒』はStudentの頭文字とローマ字表記にした修治の“S”っていうこと?」

「そうそう。駄洒落みたいなものだよ」

 その程度の暗号でしかない。いや、暗号という域にまでは達していない。ただの言葉遊びだった。

「・・・・・・そういう関係だったんですか?」

「まさか。ただの友達だよ」

 そう言って、千尋は眉を顰めた。

「でも、兄はあなたを尊敬していました。会話に出てくる話題は、ほとんどがあなたのことばかりでしたよ?」

「そう・・・・・・」

 嬉しくも何ともなかった。むしろ、あからさまな嘘に対する怒りばかりが込み上げてくる。

 ――ただの役作りだろ。

 わかってしまうというのは、それなりにつらいものだった。

 だからこそ、千尋も言うことが出来た。

「修治はいい人だったから。昔も、今もね」

 ふと静音の瞳を見つめる。

 ためらいながらも、千尋は声に出していた。

「俺は・・・・・・俺は悪人だから、正直言って申し訳ないという気持ちはない」

「・・・・・・っ!?」

「修治が勝手にひとりで死んだだけだ」

「兄は・・・・・・兄はあなたを尊敬していたのに・・・・・・」

「関係ないよ、そんなもの」

 静音は愕然とした。最早、殴る気力も罵倒する気すら起きなかった。

 悔しさが頬を伝う。

 その姿に千尋は目を丸くした。すると、急に身体が鉛のように重くなった。

 ――何だ・・・・・・人間らしい部分も少しは残っているじゃないか。

「でも――」

 静音は虚ろな瞳を千尋に向ける。

「――償いぐらいはするつもりですよ・・・・・・」

 千尋は片足を引き摺りながら屋上を後にした。

 屋上には、夕日が一つ浮かんでいた。



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