「サイゼは燃えているか?」
「サイゼは燃えているか?」
メロンソーダは全然メロンの味がしないな、そんな、馬鹿馬鹿しくも重大な事実に、僕は深夜のサイゼで突然、天啓に打たれたごとく、気づいてしまった。彼女との、「話し合い」の真っ最中だというのに。
仕事着である、白衣を脱ぐと、一緒に何か魂みたいなのも抜ける気がする。白衣の間は気も張っているが、その後は、どうでもいいやという気分。
仕事後の一服も最近はしない。どうせあの娘はきていないだろう。もう見かけなくなって3カ月は経つ。小娘ひとり、どうでもいいが、後味は悪い。
仕事帰り、コンビニで弁当を買って帰る。温めますか。お願いします。ウィーンと回るレンジ。その間に店員は袋を用意する。傾かずに入るようにぐ、ぐ、と袋の底を広げてくれる店員と、そうでない人がいる。わたしは密かに思っているが、きちんと広げて水平に弁当を入れてくれる男性店員はきっと夜の、つまり、あっちの方も上手なはずだ。経験はないが何故かそう思う。
そういう妄想を40近い処女の独身女が深夜、仕事帰りのコンビニで束の間することは許されないのか、気持ち悪いか。世知辛い世の中だ。だけど、世の中の人達よ、安心して欲しい。私は人畜無害で、きっとこれからも誰も好きにならない。だから妄想くらい許して欲しい。
携帯が鳴る。父親からだ。随分音信不通だったけど、最近連絡がくる。私が学生だった頃、母と私達を捨てて、若い女と逃げたくせに。
「貸せる金なんてないよ。もう電話して来ないでと言ったはずだけど?」
切ろうとすると、一瞬の沈黙のあと、父親は急に馴れ馴れしい口調で聞いてきた。
(それはそうとお前、あの時俺がつけてやった傷の痕は、まだあるのか?)
ぷちって、変な音が頭の中でした。それが、まるで漫画みたいだと思って笑いそうになったけど、瞬間的に口から出ていたのは短く簡潔な言葉だった。
「死ねよ」
切った勢いで、弁当を地面に落とした。踏みつけて、そのまま歩く。
向かいの席で彼女は腕を組んでこちらを睨んでいる。でも僕はついつい、組まれた腕で持ち上げられたその胸に目がいってしまう。白いブラウス。かけてやったら綺麗だろうな、メロンソーダ。
「でさぁ、まぁ聞くのも嫌になるけど、その女とどこで知り合ったわけ?」
「塾の、外階段」
「は!?何それ?意味わかんないだけど? ねぇちょっと、その女さ、今呼び出してよ」
「それは無理。それよりさ、ちょっとこれ飲んでみろよ」
僕は炭酸の抜けたメロンソーダを彼女に突き出す。
マルチーズなど、飼ってはいけないのだ。わたしは、良く読む方だ。約款とか、契約書とか、同意って押す前の長い文章とか。夫からも、そういうのはちゃんと読めって言われている。そういうのを読まない人達だ。たいてい、そういういい加減な人達がルールを守らずに、飼うのだ、たとえばマルチーズとか。このマンションは動物禁止なのだ。そう決まっているはずだ。ここで勘違いして欲しくないのは、わたしは別にマルチーズが羨ましいわけじゃない。そういう話じゃない。別にマルチーズなんて白いでかい毛玉みたいなもの、羨ましくない。むしろ、うっかりしていたら、蹴り飛ばす自信がある。
だからそういう事じゃなくて、これは、見回りなのだ。なぜなら私は正しいのだから。これ以上、あの女にルールを破られたら迷惑だ。そういう訳でわたしはゴミ出しの日、あの女が出したゴミを開けて中を見ることにしている。チェックだ。感謝して欲しい。
夜、人通りが収まった頃を見定めて、わたしはつっかけのまま、ゴミ捨て場に向かう。あの女の出したゴミ袋は昼間確認してある。上に乗っかったゴミ袋をどかして、目当てのものを取り出して、結び目をほどく。
また高い香水を買っている。これは幾らくらいするのだろう。箱を裏返して金額を確かめてゲッと思う。こんなのをつけて、男の気を引こうというのか、もう50のババアなくせに。下品な女だ。香水のビンもあったから、一応回収しておく。わたしは、改めてゴミ袋の奥に腕を突っ込む。何かの液が腕につくが気にしない。気にしていたら調べられない。指先が何か、触れる。底の方から茶色の紙袋を引きずり出す。ビンゴ! 隠したって無駄だ。紙袋を開けると金魚の死骸みたいに伸びたピンク色の使用済みのコンドームが見えた。
ゴミ袋をマンションのエントランス脇の植え込みの陰まで引きずっていって、下水用のマンホールの上で一つ一つ、それを取り出して伸ばして広げる。数を数える。わたしはスマフォを操作して、メモの画面を開いて確かめる。やっぱりだ。先週は5個。今日は7個。ふしだらな女だ。スマフォを操作して、「7」と打ち込む。記録しておかないと。それからコンドームを一つ取り上げて臭いをかぐ。ゴムのにおいと、焼き魚の焦げたようなにおいがするだけだ。しかし、わたしは満足してゴミ袋をもとに戻す。
「こんばんは」
いきなり背後から声がかかる。管理人か。いつの間にいたのだ。
「あぁ、管理人さん。聞いて下さい。犬を、マルチーズを飼っている人がいるんです。わたし、犬、苦手で。管理人さん、このマンションは動物飼うの禁止なはずでしょう?」
「そうですか。それはいけませんね。見つけたら私の方から注意しておきましょう。ところで、最近、ゴミを荒らす苦情が出ていましてね。不審な人を、見掛けませんでしたか」
管理人が笑いかけてくる。何だっていうのだ。カン!と音がした。あっと思ったら、足元に香水のビンが転がっていた。それを拾いあげるとわたしは黙って歩き出す。背後で管理人が何か言っている。知るか。何度でも言おう、わたしは正しいのだ。
席を立ち上がると、僕はテーブル越しに彼女の口元にグラスを押し付けた。
「やめてよ!」
「馬鹿野郎!飲め!」
グラスを傾ける。彼女が金切り声を出す。白いブラウスが緑に染まっていく。やっぱり綺麗だ。
あの電話から吐き気が止まらなかった。堪らず、家への途中にあるサイゼに飛び込んで、トイレを借りた。
それでようやく落ち着いて、出てきたら店内は騒然としていた。通路を挟んだ席で男が女に、飲み物をぶちまけていた。女の悲鳴に店員が集まってくる。男が女に言う。
「呼び出せ? 無理さ。あのなぁ教えてやるよ、踊り場からなぁ飛び降りて、こんな感じで死んだからさぁ、血でべっとりだよ、お前はメロンソーダで良かったな。」そして唐突にキャハハ!と笑った。女は涙ぐんで何か言っているが、よく分からない。店員の一人が男に退店するように促している。
禁煙席の方が騒がしい。管理人を振り切って、近くのサイゼで、ブログに今日の「調査」の「収穫」のことを書きつけていたが、一時中断して、見に行った。どうやら痴話喧嘩のようだ。面白そうじゃないか。しかも一人は見知った顔だ。店員の制止を振り払って二人の前に立つとわたしは有無を言わさず女の腕を掴んだ。バカめ。こんな男に捕まって。泣くのはいつも女じゃないか。
「あんた、ちょっと来な」
女の腕を引っ張った。嫌がる女を強引に立ち上がらせる。
「お母さん!? 何してんの!?」まったく、世話がやける娘だ。
「人前でそう呼ぶんじゃないよ!」
一喝して自分の分の支払いを済ませると店の外に出た。
眺めていたら、サンダル履きの女が割って入って女の方を連れ出していった。どうやら娘のようだ。本当かどうかは怪しいが、怪しい親子関係ならわたしだって人のことは言えない。それはそうと、あの男、気になることを言っていた。確かめる必要がある。
突然の闖入者にあっけにとられて店の入り口の方を眺めている店員の隙をついて、わたしは男の正面に座った。
「アンタ、ちょっと聞きたいんだけど?」
一枚、写真を取り出す。
「あんたがさっき、不穏なことを言っていた子って、この子じゃないよね?」
酔いから醒めたような顔つきでじっと写真を見ていた男はやがて口を開く。
母親?冗談じゃない、そう思っていたら入れ替わるように変な女が目の前に座った。今度は一体なんだってんだ。
女の差し出す写真を眺め、もう一度、女を見る。一体、この女は彼女とどういう関係なのだ。しばし、考えをめぐらす。そうか。もしかして。試しに言ってみる。
「あんた、もしかして、センセイか?」
わたしは男の言葉を聞くと席を立った。
「ここは私が払ってやるから、ちょっと、店を変えようか。アンタには、聞きたいことがある」
先に立って歩き出すと黙って男もついてきた。
4人の男女が去ったあとの深夜のサイゼはいつもの平静を取り戻していた。やれやれと店内を見回していた店員が、喫煙席に忘れ物を見つけた。いやこれは、忘れ物というより、ゴミか。
店員は、香水のビンをつまむと、厨房のゴミ箱へ投げ捨てた。(終)
このお話は、これだけでも完結していますが、自分が以前に投稿した短編、「嘘と蝶」を読んでいただくと、今回、この作品で出てきた、あの人が出てきます。これを読んで頂く事で、この物語の「裏」の部分が見えたりします。
宜しければ併せてぜひどうぞ。