ギリシャの債務不履行をみて
ギリシャ国民が、
「借りた金なんぞ返すわけないだろ。
困るの外国人。喜ぶのギリシャ人!」
というのを堂々と集会で言っているわけです。
それに反対するギリシャ人が、
「ヨーロッパから外れる」
というような意見を出していた。
日本語で翻訳されたのでニュアンスの差異はあると思います。しかし、この二つの意見はとても象徴的なものでした。
自国のことをミクロ的に見れば、益をもたらすのは前者の意見でしょう。自国の利益を追求した場合、担保の無い借金は踏み倒せば良いのですから。
ただ、長期的に見れば、後者の意見も聞くに値するものです。
国家の信頼というものを考えれば、約束を守る国家であり国民であることを示さねばいけません。
それが出来ないならば、貿易どころか、共通の秩序を守る対象として見られない。
潜在敵国。
そういう言葉があれば、ギリシャはそうなるでしょう。
これが帝国主義の時代であれば、そのような国は粛清されても非難されませんでした。
いや、現代でも、制圧する価値がある土地であれば攻撃を受けていたかもしれません。
あるいは、人種という要素も出てくるでしょう。
人種問題のえげつなさは、攻撃をする決断の際に顕著であります。
同人種なら、少なくとも、会議を重ねることを選ぶし、現状のEUはそのようにしか見えません。
中東域を攻撃する時、これほど会議を重ねていましたか。
サイクス・ピコ協定でもいいです。
フサイン・マクマホン協定に対して、それと同じ信頼をもって挑みましたか。きちんと約束は守ってやろうという気持ちはありましたか。
私は別に、人種問題を提起したいわけではありません。
「信頼」
というものを、扱おうとしているのです。
かつて、『円』が出来たときの逸話に、駐日英国公使(ハリー・パークス?)が、
「通貨は純良でないといけない。この純良さを失えば国家の信用は粉々になる」
そう言って、手にしていたシャンパングラスを床にたたきつけた。
造幣局の開業式だったので、たぶんに酔ってもいたのでしょう。
それでも、これから対等に交易する相手にする態度として、相応しいものか。
明治時代の、それも廃藩置県の前のことでした。
『円』は信頼を勝ち取るために、その後も様々な目に遭います。
今では、確たる信用を得ている通貨です。
それに至るまで、どれほどの困難があったのか。
何も、お国自慢をしたいわけでは有りません。
約束、信頼というものは一度でも破れば取り戻すのに困難を有する。
そんな単純な、子供でも分かることを言っているのです。
一般企業でも同様です。
なぜ、経営倫理というものを守らないといけないのか。
儲かればいいんだ。
自分さえ良ければ、他人なんか踏み倒していいんだ。
そんな態度で保てるほど、信頼は安くない。
何故それを理解しないのか。
このギリシャの話を、日本に落とし込むなら、私は次のようにします。
「友人は選ぶべきもの。信頼は一日にしてならず」
何かをやっていこう。
そうするなら、仲間は選ぶべきです。
約束を破り、自己のことしか考えない輩とは絶対に組んではいけない。
戦後において、バカの一つ覚えの如くに、「自由と平等」というものが叫ばれました。
結果、勝手気ままな人間が増えた。自由と平等は簡単に得られるものと勘違いしだした。
これからの未来は、その反動がくるかもしれません。
強固な階級主義や人種差別が起きても不思議ではないのです。
もし、『信頼』を保てる人間が制度を運用するならば、それらを良い方向に扱うことができるでしょう。