空のペットボトル
「空き缶だと思って蹴ったら中身が入っていたんです。昨日下ろしたばかりのスーツに、コーヒーのしみがついたら、誰だってイラついてしまうでしょう」
私の話を聞いているのか、少年はさっきから部屋の隅に腰かけ、手にしたナタをもてあそび続けている。
「有り金出しますから解放してくれませんかね。あなたにされた仕打ちは誰にも言いませんから」
「あのさ」
少年がやっと反応を示してくれたことがうれしくて、私は思わず白い歯を見せ、慣れ親しんだ営業スマイルを作っていた。
「うるさいんだよ。殺すぞ」
えくぼが可愛いと団地の主婦方から好評を博している必殺の笑顔も、この状況では何の役にも立たないらしい。少年は立ち上がると、身動きのとれない私のほうに近づいてきた。
「またまた。本当は殺す気なんて無いくせに」
少年がナタを振りかざすと、窓のない薄暗い地下室にぶら下がった唯一の照明、白熱電球の光がさえぎられ、私は少し嫌な気分になった。
「いや、無いのは度胸かな?」
私がそう言った瞬間にナタが振り下ろされた。それまで、かろうじて落下を抑えこんでいたロープはぶつりと切断され、重いギロチンの刃が私の首筋を切断した。
返り血を嫌ったのか、少年はナタをその場に放り出し、背後にあった扉からそそくさと退出していった。
あとに残されたのは、首からびゅーびゅーととめどなく血が涌き出続ける私の首から下と、それを黙って見つめる首から上。ただこうして転がっているだけでいるのも、あまりに能がないので、こうなってしまった経緯を思い起こしてみることにした。
捕らえられてからどれぐらいの時間がたったのだろうか、あの日も今のように、まるでコンクリートに覆われているかのような重いくもり空だった。
私はほかの人と比べると、どうも感情の起伏が少々激しいようで、気分が良いときには限りなく人当たりのいい性格をしているが、そうでないときはさっきのように、命すら落としかねないような暴言すら吐いてしまう。もっともこれは、他人を見下して優越感に浸ることのできる、セールスという仕事においては、大いに役に立ったが。
そういうわけだから、私は天気の悪い日には働かないことにしている。雨だと服にしみができてしまうし、くもりはくもりで、晴天に雲というしみができてしまうからだ。
だがそういう日に限って急ぎの用ができたり、それまでのスーツがボヤ騒ぎで、すっかりだめになってしまっていたりするものである。
そんな面白くない気分のときに、新調したスーツにコーヒーがかかり、タバコのポイ捨て現場などを目撃してしまったらもう、やることはひとつしかない。
思い切り助走をつけた私の渾身のとび蹴りを、少年は紙一重でかわすと、その勢いのままはなった上段回し蹴りで私をアスファルトに沈めた。
気がつくと私はこの拷問部屋とおぼしき地下室で、ギロチン台にかけられそのまま首をはねられていた。
状況を整理してみたところで、別に事態が好転するはずもない。それどころか脳をめぐる血の流れが、いよいよ致命的なほど遅くなってきた。
私は首と胴体をつなげて復活すると、落ちていたナタを拾って隣の部屋に行き、ジュースを飲んで一服していた少年をたたき殺した。
驚いた彼が吹き出したトマトジュースがスーツにかかったが、もはやそんなことはどうでもいいことだった。真っ白だった私のスーツは、私自身の血ですでに、余すところなく赤黒く染まっていたのだ。ただ、のどが渇いていたのでジュースはいただいておくことにした。
ジュースを飲みつつ外に出ると、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。
私の毛羽立った心はたちまち慰められる。
空のペットボトルの底にこびりついた赤いしみに透かされた光は、地面にとても美しい影を作っていた。