雨玉
僕には、目がないのでそこに何が在るのか分からない。
僕には、鼻がないのでそこで何が香っているのか分からない。
僕には、耳がないのでそこで何が囀っているのか分からない。
僕には、口がないのでそこにいる何かに語りかけることができない。
僕には、肉がないので包んでいる暖かさを知ることができない。
何もない僕ではあるけれど、この虚無とも真空ともつかない漠然と茫漠とした空間で、茫然と何かを想うことだけは許されているようだった。
許されている?
誰にだろう?
僕は誰に許されているのだろう?
誰に許されているのか分からないけれど、取り敢えず僕は触感のない両腕を上げ、その先についているだろう手を虚無とも真空ともつかない空間に伸ばしてみた。伸ばしてみたところで何も感じることのできない僕には、そこで何が起きているのか分からない。ただ何もない宙へと伸ばされただけかもしれないし、もしかしたら、プラットホームで電車を待っていた男子高校生を線路の上へと突き落したかもしれない。感覚のない以上その可能性は無限大に想像することができ、幾億もの出来事を仮想することができる。
でも僕は、僕の伸ばした二つの手が、どうか春風に浚われて暖かな草原を舞う草葉へととどいていることを願う。そして、舞踊する草葉が無意味に突き出された僕の手を取って踊りに誘ってくれることを願う。
僕の願いは、草葉にとどいただろうか?
それを確かめる術を、僕は持っていない。
持っていないが、僕は想像することだけは誰かから許されている。だから僕は、いくら現実に反していようとも都合よく想像をめぐらせる。
宙を舞っていた草葉は、僕が伸ばした手をかいくぐるようにして青空の果てへと小さな螺旋を描いて飛んでいってしまった。
虚しさの残る胸を撫で、僕は草葉が消えていった青く厖大な空を、うんと背伸びして見上げる。白色に焼け付けてくる太陽が目に痛い。伸ばした首筋にも痛みが奔っているが、そんなことより僕は、遥か頭上で混淆する青と蒼と碧の美しさに呼吸を止め、瞬きを止める。横隔膜を細かく痙攣させ、この空の青さを必死に瞳に掻き入れる。
忘れたくないから。
忘れられたくないから。
僕は、ただ夢中で空の青さを記憶する。
僕は覚えていられるだろうか、空が青かったことを。
空は覚えていてくれるだろうか、僕が見上げていたことを。
そんな僕の鼻先を甘く切ない香りが、ふっと、掠めていく。
それはどこか遠い記憶のように懐かしく、初恋の想いでとも似た匂いで、僕は何だか無性に泣きたくなって、潤んだ瞳で匂いのありかを探す。
どこだろう?
花火のように爆ぜたアブラナからだろうか?
水墨画のように地表に咲いたスミレからだろうか?
ここには、探そうと思えば幾らでも香りの在り処があった。
僕は腰を屈め、草陰を覗いてみる。そこでは湿気を好んだ昆虫たちが密談を交わしていた。盗み見ようとしていた僕の存在に気付いた彼らは、鋭い触角を一斉にこちらへ向け、作り物のような羽を擦り合わせて静かに鳴いた。
「ごめんごめん」
慌てて僕は彼らに謝罪し、屈めていた身体を起こす。上体を戻すと、僕の視界いっぱいに世界が広がった。
そこは、
空々しい空と、
身勝手に大地に根付いた植物たちに挟まれた、
息が詰まるほどの自己本位に爛れた、
どうしようもない空間だった。
あれほどまでに感銘を与えてくれた空は、僕のことなどもう忘れて、いや、そもそも気付いてすらなかったかもしれないけれど、あの涙を誘う青空に暗黒の陰りを生み出していた。
突然、骨が抜かれたかのように全身の力が抜けた僕は、仰向けになって大地に倒れた。
迷惑そうに羽を鳴らして散り散りに草のなかへと消えていった昆虫たちに、「ごめんよ」と、声を発しようと試みたが喉からは何もでなかった。
天上の空には黒雲の勢力が軍配を上げているようで、視界の端に追いやられた青は、恨みがましそうにくすぶりながら消えていった。
違う。
消えてしまったのは、僕の視界だ。
しつこく瞬きを繰り返しても、僕の瞳にはもう何ものも映らない。
鼻はまだ生きているようで、小鼻を大きく膨らませて空気を吸入すると、湿っぽい大地の匂いがした。でもそれも、次第に薄れていっている。
感覚が少しずつなくなっていくと、頭もぼんやりとしてきた。そろそろ想うことも許されなくなってきたようで、僕の終わりも間近まで迫っているようだった。
この虚無とも真空ともつかない漠然と茫漠とした空間からも追い出される前に、僕は最後に一言だけ、この世界に残しておこうと思う。
今まで構ってくれて、本当にありがとうございました。
それを残した僕の口のなかに、
瑞々しく冷たい粒のようなものが、
幾つも幾つも飛び込んできたようだが、
僕にはもうそれが何であるのか分からなかった。
久しぶりに短いものが書きたくなったので、書いたものです。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。




