名乗りました
少し離れたところにいるそれは、よく見れば熊ではなく熊ほどの大きさをした狼だった。
今まで直にお目にかかったことはなかったけど犬より鋭いあの目つきは狼だ。たぶん。・・・大きいけど。
対して、夕闇迫る景色の中で男が一振りの剣を手にしていた。
頭だけ水から出した状態で観察していてふと思う。
あの男はどうしてここに?
散歩していたら狼と出くわして戦闘が始まっちゃったとか?
でもできるならもう少し離れた場所でやってほしかった。
そこは着替えに近すぎる。さっき広げたワンピースその他2点にもだ。
それにあんまり長くここにいると体が冷えるんですけど。
ぶくぶくぶくと、鼻の下まで浸かって口から息を吐く。
音を湖のさざなみにかき消されながら、じとーっと男の背中を見つめた。
ふいに男が動いた。
夕暮れの残滓を纏った剣先が一閃する。
まるで金属同士が擦れたような音をたてて狼の爪がそれを受け止めた。
なんてこったい。
わんちゃんの爪はメタリックな代物だったのか。さすが異世界。
狼の前足には異様な長さをした黒い爪が見えた。
ぎりぎりと圧し合っていた一人と一匹が同時に後方に跳ぶ。
再び睨み合う両者。
でもあたしにはそれどころじゃなかった。
火花が散りそうな緊迫した空気よりも、その横の着替えが気になる。
あれはやばい。次に男が勢いよく地面を蹴れば確実に土がかかる距離だ。
はらはらしながら戦いの行方を見守る。
じり、じり、とお互いを見ながら円を描くように少しずつ移動して男がさらに着替えに近づく。
待って!待て待て待て待て待て!
何かないか、何か・・・焦る心であたりを見回してあるものを見つけた。
それを湖の底から拾うと腕を振り上げ、狼の頭上に向かって投げつける。
見事、狼はそれをキャッチした。
ぱくん、と見事に空中でキャッチしたそれは動物の骨だった。
よくイラストで見るような形をした骨をくわえたまま、狼が頭を出しただけのあたしを見て男を見る。
しばらく男と見つめ合っていた狼がくるりと向きを変えると、悠然と森の奥へ帰って行った。
その背中が見えなくなるまで見送ってから男が剣を鞘におさめてゆっくりと振り返り、
・・・不自然な体勢で硬直した。
気まずさを抱えながら家に帰ると、先に戻っていた男がミルクを温めて待っていた。
火をつけるのに悪戦苦闘したらしい痕跡を見ないようにしてイスに座ると、男がミルクをコップに注いで差し出してくる。
それを受け取り一口飲むと、冷えた体に温かいミルクがじんわりしみていくのを感じて、ほうっと息をついた。
「先ほどはすまなかった。」
そう言って、ましにはなったもののまだ少し赤い顔を下げた男を見る。
いかに透き通った水でも沈む夕日が反射して丸見えではなかったと信じたい。
「いいえ・・・こちらこそ助けていただいたようで、ありがとうございました。」
立ち上がり頭を下げてお礼を言うと、二人とも頭を下げた状態で目が合った。
三日もあってしっかり目が合ったのはこれが初めてで、そのことにちょっと可笑しくなってプッと吹き出すと男も微かに笑ったようだった。
「あたしは七実 七宮。」
三日もしてからの自己紹介なんて変な気分だ。
たんこぶの介抱をしてたときは打ち所が悪かったのか男はぼんやりしてたし、それ以降はいつも離れたところから視線をよこすだけ。
一日の9割以上無言で、声を聞いたのはご飯を出したときだけだった。
食べた後は勝手に片付けてくれるからつきっきりでなくて済んだし。
やっぱりこの三日で自己紹介をする気も機会もなかったと思い直す。
「ナーミナーミャ?」
うん、こうなるよね。村のみんなもこうだったから。
「ノンノン、ワトソン君。な・な・み。な・な・み・な・な・み・や。」
さあどうぞ?耳に左手をあて、ちっちと右の人差し指を手前に振って促す。
「ナ・ナ・ミ・ナー・ミ・ア。」
少し戸惑ったような男が素直に繰り返した。
惜しい。惜しいけど仕方ない。ななみが言えただけでも良しとする。
頷いてから思い出した。この男はあたしを勧誘しにきた男だったことを。
仲良くなってどーすんの。
この男がちゃんと言えても言えなくても関係ないじゃない・・・
「私はレ・・・スウェーネ=ミレオ。」
言い間違えたらしく、その表情は照れているようだった。
胡桃色の髪は柔らかそうに緩いカーブを描き、蜂蜜色の目は見ようによっては金色にも見える。
胡桃と蜂蜜という実に美味しそうな色を組み合わせた男は見た感じ20代前半くらいで、王都からの使者なだけあってどこか気品を漂わせている。
着てるものも生地からして良さそうなものだった。
質素に見えて実は凝ったつくりの暗い青を基調とした上下に、さらに濃い色のマントを斜めにかけている。
アクセントに白と金が入った衣装は彼にとても似合っていた。