四 公務
疫、病。
この生き物の業は、人の営みにとって、万古以来の脅威であり、いつでも社会の存亡を左右しかねぬ猛威だ。
それを鎮めるために、さらに、猛々しい武勇を誇るモノを祀る、という考えが存在する。
毒をもって毒を制すーーー病魔という猛毒を、蚩尤という特大の毒が。
「狂瀾は、既倒に廻る」
じゃり、ざ、じゃり、地蔵菩薩の立ち去られる足音がする。
「既倒へと至る以前には、いつでも、狂奔する怒濤が迫るもの」
その背中を、目で追う余裕すらない。
(これで、四海が平らかになるというのなら)
あるいは、そのためならば、この牛頭六臂のいかめしきモウドウ(艨艟、戦艦)も入り用になるのやもしれぬが。
地蔵菩薩は、行かれた。
二人は、まだ、立ち尽くしている。
悪所に来ると、やはり、なんとも言えぬ異臭と瘴気が、むう、と、押し寄せる。
だが、そこに詰めかけた人々のいきれと汗が、やり切れぬ排泄物の汚穢を上塗りし、まだしも、人間的な、世の中で許容できる程度のものに変えてくれている。
かなりの人混みだった。
槌音、かんなを掛ける音。
シトシト、細雨の降る中、真新しい木材の肌理が映える。
兵主神社建立が、急速に進められている。
この作業を見守る物見高い衆もいるにはいるが、やはり、悪所の穢れを厭うて、さほど見物客は多くはない。
それより圧巻なのは、普請に従事する工人の数で、そこに運搬される資材も含め、遷都直後に、よく、これだけの富が投入できたと思わざるを得ない。
鮮やかな赤に塗装された瓦も運び込まれている。
檜皮葺きや、せいぜいこけら葺きが主流であることを考えると、大寺に等しい豪華さだ。
人々は、霊感こそないものの、コザ(胡座)し、そそり立つ蚩尤の威容を、どこかで感じているのだろう。
四つ眼の牛頭をいただく六臂の巨躯(六本腕の巨体)のあたりを、ちらちら見ている。蚩尤が坐しているのは、兵主神社が建立される、その敷地の位相だ。
「あれが、兵主神、ということで、間違いないのでしょうな」
「蚩尤、か」
ひょうずのかみ。
もとより、牛頭、という妖魔の象形は、それだけで地界(冥府)と人外に直結するまがまがしさだ。
この姿形をした魔は、極悪なものばかり。地獄に通じている。
蚩尤は、その中でも、草分けにして、極めつけの感がある。
(この悪神が、要石となっておる)
災いを押さえる鎮護の石のように。
いつ、殺生石に変わるか分かったものではないが。
(鍾馗様にしても、いかめしすぎるであろう)
二対の眼が、見るともなく、地上を照覧している。
もし、まざまざ、一人を凝視すれば、恐ろしさ以上に、この神がたたえる烈しさで、全身が燃え上がるかもしれない。
押し寄せる大津波であり、いや、巨壁のように水平線を覆い尽くす海嘯が訪れる直前、平板に凪いだ海だった。ーー活火山の火口をのぞき込むと、溶岩というのは、すさまじい熱気をたたえつつも、その融けた巌の水面は、案外静かに、速やかに廻っている。
内々に沖する怒気と烈波が、この霊異はすさまじい。
刷雄と世道は、建立の急がれる普請現場を離れた。
悪所を見て回る。あの小鬼や、弊衣蓬髪の疫病神どもが、掃いたようにいなくなっている。異臭を放つ水路にわだかまる魔気も、魍魎の形象を結ぶことなく、かげ(罔両)のまま、雨降る都城の薄暗さに、わずかに所在を得ている。
こうやって歩いていても、どうしても意識せざるを得ない。
兵主神の威武が、あたりを払っている。
「疫気の抑えには、有効よな」
「水浄める霊験は、望めそうにありませんな」
世道が、ため息を吐く。
「その苛烈な闘気で、えやみを押しのけている武の鎮守。水浄めんとすれば、大方、あまたの血潮を流して、汚水を押し流す仕儀となりましょう」
「やれやれ。糞尿にまみれ、その上血まみれの地所か。戦場以外のなにものでもないのう」
「そういう神でしょう。兵主神」
「しかし、主上が、その軍神をして、悪所を鎮撫すると決されたのじゃ。否やはない」 「まこと」二人は肯く。
「われらの勧進は無駄に終わった。さりとて、悪所を浄化する使命は公務。なれば、このむくつけき牛頭殿の左右を補弼する気構えでおらねばなるまい」
二人は、なおも悪所を回り、兵主神の武威が、りんりん、魔も疫もゴウプク(降伏)させているのを確認する。
刷雄は肯く。
「取りあえずは、これで良かろう。地鎮、まさに、地を鎮める功徳はありそうじゃ」
「文を鎮めるから文鎮、地を鎮めるから地鎮、と」
「まあ、どうも、神異にして妖異のおもむきもある。地異(大地震)が起こらぬよう、祈るとしようぞ」
「この神に、ですか」
蚩尤を見上げる。
(そのことじゃ)刷雄には、依然、ひっかかっている。
一体、誰が、蚩尤なぞを守護神にして、得をする。
「世道よ。も一度、普請現場に戻ろうぞ」
「はて」
二人は、兵主神社が建立されつつある現場に足を運ぶ。
工匠、力夫、車馬の響き。喧騒と槌音。刷雄は、雑踏を、漫然と見渡す。
(なんじゃ)
なにかが、気にかかる。
人、人、人。
その装いや、人相。
(うーむ)
「ひとまず図書寮へ帰りましょう」
「む」
「蚩尤、などという、とんでもないモノが出来したのです。なぜ、これが、兵主神などと呼ばれ、この長岡京に勧請されたのか、調べることができるかもしれません」
「うむ」
二人は、悪所を離れる。
世道が、図書寮で調べものをしている間、刷雄は、独り、座禅を組み、おのれの心象と向き合う。止観ーーー心の中の事物に意識を止め、それを、観相して、内々まで暴く。
心に浮かぶのは、あの、普請の現場だ。木工、荷役、それを監督するものたち。
なにが、こうも、心に懸かる。
罔象女神を勧請する企図は、最初から、妨害されていた。
赤い道服の方士。徐福。
徐福が、あの方士を雇ったなにものかが、蚩尤を、兵主神という名で勧進したのか。
なぜゆえ。
たっぷり、半刻(一時間)も瞑想した後、刷雄は、目を開ける。
ムクリ、と、身を起こすと、そのまま、図書寮官衙を飛び出し、西堂(朝堂院での位置)の大蔵省へ駆け込む。
「おい、節部の」
と、旧知の友を呼び出す。
「おぬし、心臓に毛が生えているやからよの」
と、節部こと、あやのなにがし(漢某)が、顔を出す。
大蔵省は、一時期、節部省と名称が変更されていた時期がある。
その時期に知り合ったため、大蔵省に戻ってからも、節部、節部の、で、通している。
この名称変更をしたのは、刷雄の父であり、反乱し敗れてからは、旧称に復した。よくもまあ、藤原南家の古傷をほじくり返す呼び名を連呼する、ということだ。
「何用かな。図書頭殿」
「ぬしに、ちょいと、ご教示願いたいことがある」
「仏具典籍を保管し、その司書をするおぬしらに、ものを教えることなぞできるのか」
「文物は、われらが管掌」
あや氏(漢氏)の友を見る。
「財物は、おぬしらの領分であろう」
「予算については、しかるべき部局を通せ」
「いや、確かに、国庫についての相談なのじゃが」
忙しなく、単衣の袖に腕を入れる。声を低くした。
「悪所の官幣社(官営神社)、聞いておるか」
「ああ。兵主神社」
「あれを建立する費用は、国庫から出たのかえ」
「おやおや」
節部が、刷雄を見る。
「なにやら、怪しいにおいを嗅ぎつけたな」
「ここ最近、悪臭ばかり嗅いでおるが、まだ、鼻はばかになっておらぬ。費用の出所を知りたい」
「猟犬を気取って、つっつきすぎるなよ」
かぶりを振る。
「金品の流れを追っていれば、さまざまなことが見えてくる。いや、百鬼夜行じゃ」
「火の車よりはましであろう」
「だれが、そうではないと言った」
うらめしそうな目つきになる。




