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神様

作者: いちは

高校には行かない、と恭一が母親に告げると、

「かあちゃん、天国のとうちゃんに叱られちまうよ」

母親はそう言いながら、ため息をついた。

早く働いて金をもらって、母親に楽をさせてやろう、などと考えたわけではない。

恭一は単純に、もうこれ以上、勉強することが嫌だった。

足し算引き算までは良かったが、掛け算になると九九の暗記が苦手で、

割り算では頭が混乱し、分数やらになると意味不明だったし、

数学になると式の中にローマ字が入ってきて、英語も同時にやっている気になった。

作文もダメ、理科も社会も覚える気なし、体育はまぁまぁ、図工は器用にこなせて、

道徳の時間に時どき聞かされる可哀想な話には、

こっそり涙ぐみながらも、俺には関係ないなどと強がってみせた。

放課後には、同じデキの悪い友人たちとつるんで、時には他校の生徒とケンカもした。

母親は、恭一の生活態度にあまり口出しはしなかったが、

一度、相手に大怪我をさせた時、母親は大声で怒り、恭一は初めてビンタをされた。

「なにすんだ、クソババァ」

思わずそう叫んで、ちょっとだけ後悔して、しかしそれ以後、恭一は母親のことを、

「クソババァ」

と呼ぶようになってしまった。


働き始めた当初は、十分に一回くらいのペースで、

「やってらんねぇ」

と言っていた。

作業がきつかったわけではないし、職場の仲間ともうまくやっていた。

ただただ、なんとなく「やってらんねぇ」という言葉が口から出てくるのだった。

やってらんねぇと言わなくなったのは、職場の先輩であるコウヘイの一言がきっかけだった。

コウヘイは、恭一より五つ年上で、高卒で土木作業員をやっている。

兄のいない恭一にとって、仕事を手取り足取り教えてくれるコウヘイは、

もし兄がいるとしたら、こんな人が良いなと思えるような先輩であり、

恭一は「コウさん」と呼んで慕った。

ある日、やってらんねぇとぼやいた恭一は、コウヘイから、

「そのわりに、お前、しっかりやってるよ」

そう言われた。

小学校時代からあまり褒められたことがなかった恭一にとって、

コウヘイからそう言われたことはすごく嬉しかった。恭一は、

「うす」

と答えて、それ以来、やってらんねぇとは言わなくなった。

怒られたり褒められたりしながら一生懸命に働いて、初めての給料をもらった日。

恭一が小学校三年生の時から、ずっと一人で育ててくれた母親の苦労が、

なんとなくでしかないけれど、分かったような気がした。


働き始めて五ヶ月目になる八月。

恭一の通帳には五万円が貯まっていた。

恩返しとか親孝行とか、そこまでの気持ちではなかったが、

恭一は母親を温泉旅行に連れて行くことに決めていた。

旅行代理店を何軒かまわり、土曜日と日曜日に二人で一泊二日、

交通費込みで四万二千円というプランを予約した。

宿は古そうだったが、夕食に母親の好きな刺身が出るのが決め手になった。

温泉旅行の件をコウヘイに話すと、

「八月に温泉はねぇだろよ」

と笑われ、恭一はその時に初めて、そういうものかと気づいたが、

今さら旅行代理店に金を返せとも言えないので、

「うちのクソババァ、すんげぇ温泉好きなんすよ」

と言って誤魔化した。

「おふくろさん、喜ぶよ」

コウヘイは恭一の肩を叩きながらそう言った。

残高が八千円に減った通帳を眺めるのは、

不思議と五万円入っていた時よりも楽しかった。

母親と一緒の部屋で布団を並べて眠るのかと思うと、

みぞおちのあたりがモゾモゾと、恥ずかしいような、

落ち着かないような、そんな気持ちになった。

刺身を前にして満面の笑顔で喜ぶ母親に、真顔で、

「なんでもねぇよ、これくらい」

と言っている自分を想像しながら眠りについた。


「クソババァ、明日からの土日、あけとけよ」

金曜日の出勤前、母親の弁当を受け取りながらそう言うと、

「はいはい、ったく、口の悪さはとうちゃんゆずりだね」

そう言いながら母親は笑った。

その日は、今年一番の暑さだった。

湿度が高く、雲ひとつなく、風も吹かず、蝉が鳴きじゃくり、道路には蜃気楼が見えた。

そんな炎天下の午後二時五分。

恭一の頭の上に鉄骨が落ちてきた。

痛みはなかった。

誰かがふざけて飛び掛ってきた、小学校や中学校の時みたいに。

そんな感覚だった。

気づくと、目の前にアスファルトがあって、アスファルトは思いのほか熱くなかった。

目を上に向けると、コウヘイが何か叫びながら走ってくるのが見えた。

コウヘイは、怒っているような、泣いているような、変な顔をして、

一人じゃ持ち上がるはずのない鉄骨を必死に動かそうとしていた。

その姿がおかしくて、恭一は笑ったつもりだったが、咳しか出なかった。

ようやく、自分が鉄骨の下敷きになったのだと気づいたが、

痛みがなくて、だからまったく実感がなかった。

今日はもう、仕事にならないな。

怪我したの見たら、クソババァ驚くかな。

今日の弁当の玉子焼き、ちょっと塩辛かったな。

ウインナー二個じゃなくて、三個にしろっていつも言ってんのに。

帰ったらまた文句言ってやる。

温泉は、キャンセルして仕切り直しだな。

そんなことを考えながらも、恭一はもう母親には会えない気がした。

会えない寂しさよりも、母親を一人にすることが辛かった。

また一人、家族を失って泣く母親の姿を思い浮かべ、恭一はつぶやいた。

「かあちゃん、ごめん」


恭一は自分の涙で目が覚めた。

見慣れた部屋の、万年床の上。

全てが夢だったことに気づき、夢で泣いたことが恥ずかしくなった。

洗面所へ行って顔を念入りに洗ったが、相当に泣いたのか、目は赤いままだった。

出勤前、いつものように母親から弁当を受け取る時、

「クソバ、いや、かあちゃん、土日はあけといてくれよ」

恭一がそう言うと、母親は、

「なんだい気持ち悪いねぇ」

そう言って笑った。

迎えのバンに乗ってコウヘイたちに挨拶をしながら、

今日からまた、かぁちゃんと呼ぶようになるのかなと考えると、

恭一は久しぶりにくすぐったい気持ちになった。


およそ六時間十五分後、恭一の夢が正夢になることを、この時の恭一は想像だにしていない。


神様なんて、いないのだ。








しかし、作者が作品に及ぼせる神の力によって、恭一を救うことにした。

作者の傲慢かもしれないが、女手一つで五年以上も頑張ってきた母親と、

不器用ながらも母を大切にする恭一には、小さな幸せを感じながら静かに生涯を閉じる、

そんな舞台を用意してあげたいと思った。








八月の温泉を、母親は喜んでくれた。


それから三十年後、母親は病室のベッドの上で、恭一夫婦と三人の孫たちに囲まれていた。

真夏の温泉は良かったねぇと、母親は静かに笑い、そのまま息をひき取った。

恭一は、かあちゃんかあちゃんと、何度もそう呼びかけて大泣きした。

さらに三十三年後、恭一は妻と息子二人、娘一人、八人の孫、ひ孫一人に囲まれ、

自分は笑顔で、皆は泣き笑いをしている中で世を去った。

正夢から救われて六十三年の間に、一体どんなことがあったのか。

小さな不幸せ、ささやかな幸せ、ちょっとした悔しさ、ふとした喜び。

いろいろな出来事を積み重ね、幸せな終りを迎えるまでの恭一の人生は、

読者の想像力という神の力に委ねたい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 良いお話でした。 涙がすぐそこまで来るくらいに感動しました。 [気になる点] あるわけがありません。
2010/06/26 20:59 退会済み
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