時の海を越えて
実際に《アウリス・クロノス》を起動するのは、これで二度目だった。
しかも今は、あの実験室のように整った環境ではない。
湿った砂、打ち寄せる波、冷たい雨――
何もかもが、違う。
プロムにも、魔導具がいつ転移を開始するのかは読めなかった。
それでも、彼は走る足を止めなかった。
先ほどは「後から追いかける」などと軽口を叩いたが――
設計図が頭に入っているだけでは、どうにもならない。
あの材料を揃えることは、ほぼ不可能だ。
だからこそ、今この状況――二人を置いて魔導具だけが時空転移を始めようとしている事態は、最悪だった。
(僕だけなら、ここで死んでもかまわなかった。けど君は……)
思考の片隅で、彼はふと、エオと初めて出会った日のことを思い出していた。
転生者であり、特別な《ギフト》と非凡な才能を持つ少女。
それなのに、驚くほど謙虚で――
時折、どこか懐かしむように眺めていた、あの拙い手書きのノート。
尋ねれば、転生前の知識を目を輝かせて語ってくれた。
微かに震える声と、眩しいほど真っ直ぐな視線で。
(この魔導具だって……本当は、君のために……!)
砂に落ちていた《アウリス・クロノス》を掴み取り、プロムはそのまま倒れ込むようにエオの手を取った。
そして、二人の手を重ねるようにして、魔導具に触れる。
「……間に合った……」
「私が“プロムと時空を越えたい”って祈ったのよ」
倒れていたエオが、顔だけこちらへ向ける。
その唇がゆるんで、にやりと笑った。
プロムの目が、少しだけ潤む。
「やっぱり……君がいないと、だめだな」
その瞬間――
空間に、小さな穴が開いた。
「エオマイア。あの魚竜が跳ねたの、見た?」
「その時には、たぶん倒れてたわ」
「じゃあ……後で話すね」
空間の穴がゆっくりと、だが確実に広がっていく。
布を裂くように、時を切り裂くように――
そしてその光の中へ、ふたりの姿は飲み込まれていった。
ふたりの姿が、光の中に消えたあと。
その場所には――
魔力を吸い上げられ、輝きを失った鱗と殻だけが残されていた。
波打ち際に、崩れたまま散らばるそれらは、もう淡くも光らない。
どこまでも沈黙し、冷たく濡れたまま――
ただ、雨の音だけが残っていた。
しと、しとと降り続ける雨。
すべてを包み込む夜の闇。
人の気配も、魔導具の脈動も、もうどこにもない。
世界は、再び静寂に戻った。
……けれど。
その沈黙の中、
いくつかの鱗のかけらが――まるで心臓の鼓動の残響のように、わずかに震えた。
それは、誰にも届かない、小さな余韻。
時を越えて旅立ったふたりの記憶を、そっと、大地に刻みつけていた。
そこは、静かな森の中だった。
最初にエオの意識を掬い上げたのは――羽ばたく音。
そして、そのすぐ後。
どこか遠くで、重いものが地面を震わせるような間隔。
暖かい空気が頬をなでていく。海の音がしないことに気づいたとき、彼女の瞳がゆっくりと開かれた。
「プロム!」
エオは体を起こしながらその名前を呼ぶ。
すぐそばで、プロムは目を閉じたまま静かに眠っていた。
彼の無事を確認したことで、胸の奥がじんわりと緩む。
安堵の中で、視線が周囲に向いた。
そのとき、先ほどの羽ばたきの主が、静かに森を離れようとしていた。
翼には鉤爪のある指、爬虫類のような口には鋭い歯。
けれど全身を覆う鮮やかな羽毛は、確かに“鳥”のものだった。
その姿は、まるで進化の途中で生まれた奇跡のようで。
「……始祖鳥」
思わず言葉が漏れる。
図鑑で幾度も見た姿に似ているようで、どこか決定的に違っていた。
まるで“この世界の始祖鳥”とでも言うような、不思議な存在感をまとっていた。
違いを見極めるより早く、始祖鳥は一度枝へと舞い上がり、そしてそのまま、森の奥へと羽ばたいて消えた。
その美しさに心を奪われ、エオがまだ余韻に浸っていると、すぐ隣から声がする。
「……エオマイア。転移、成功したんだね」
「プロム!」
プロムの目が、細く開かれている。
そして次の瞬間、彼がふっと微笑んで言った。
「もう手、離しても大丈夫だよ」
「あ……ごめん」
ようやく気づく。
エオの手は、まだしっかりとプロムの手を握っていた。
彼女はそっと手を放すと、二人は並んで立ち上がった。
「まずは、周囲の安全を確認しよう」
そう言って、森を抜けるために歩き出す。
幸い、彼らのいた場所はそこまで深い森ではなかった。
木々の隙間からこぼれる光に導かれ、すぐに森の出口が見えてきた。
森を抜けた瞬間、ふたりは思わず足を止めた。
目の前に広がるのは、開けた草原。
地平線まで続くような緩やかな丘の連なりと、その上を吹き抜ける、穏やかで温かな風。
そして――
「……あれ……!」
エオの声が、風の中でかすれた。
遠く、丘をゆったりと歩く巨大な影があった。
その体は樹木をも超えるほど高く、長い首は空へとまっすぐ伸びている。
ときおり、その首がゆっくりと揺れ、葉をついばむような仕草を見せていた。
「ブラキオサウルス……」
エオが、ため息のように名前を口にする。
目覚める前に感じた振動は、きっとこの巨体が大地を踏みしめる音だったのだろう。
先ほど見た草食恐竜の倍はある。
その姿はまるで、大地そのものが歩いているかのようだった。
足音ひとつで空気が震え、風が変わる。
それでも、どこか穏やかで、安心さえ覚えるような気配をまとっていた。
「こんなに……大きいなんて……」
エオの瞳は、子どものように見開かれている。
転生前、彼女が図鑑や映像で見た“知識としての恐竜”とはまったく違っていた。
生きて、呼吸し、今まさにそこに“いる”という圧倒的な存在感――。
「あんなに大きな生き物が、本当にいたんだね……」
プロムの声も、感動に揺れていた。
「僕たち、ちゃんと未来に来てる?」
「うん、間違いない。ここはジュラ紀。私を一番ワクワクさせてくれた時代」
「じゃあ、僕にとっても面白いことがいっぱいありそうだね」
ブラキオサウルスの背に射す陽光が、黄金色の光を散らしていた。
エオとプロムは、静かにその姿を見つめていた。
言葉はなかったが、握り合った手のぬくもりが、すべてを語っていた。
ここまで辿り着いたこと。
命が、確かにこの星で続いていること。
そして、ふたりが共に未来へ歩み出したということ。
「ねえ、プロム」
「ん?」
「もっと……この時代を見てみたい」
エオの声に、プロムは小さく笑う。
「当たり前だよ。君と一緒に見たいって、ずっと思ってたんだから、そういえばさっきあの魚竜が跳ねたとき――」
丘を越える風が、草を撫で、ふたりの髪を揺らす。
新たな時代の音に耳を澄ませながら、ふたりはゆっくりと歩き出した。
この広い時の海を、ふたりで越えてゆくために。
空の果てで始祖鳥が羽ばたき、地を揺らす巨竜たちの足音が、まるで世界の鼓動のように響いていた。
――未来に還る。ふたりの旅は、まだ始まったばかりだ。
終
読んでくださった方ありがとうございます。
ようやくジュラ紀に来ましたが一旦おしまいです。
もっと書きたいな、と思うのですが知識が弱すぎるので練り直してまたいつか。
ありがとうございました。