太古の世界の目覚めと驚嘆
――水の音がする。葉の擦れる音。湿った風。
熱気と湿気に満ちた空気が肌にまとわりつく。
エオはまぶたの裏で明滅する光を感じながら、ようやく意識を浮かび上げた。
(……どれくらい気を失っていたのだろう?)
体が重い。筋肉の芯までじんじんと痛むような、深い倦怠感。
ゆっくりと上半身を起こし、ぐらつく頭を押さえる。
――ギフトの反動。
彼女の《可能性の灯火》は、望んだ結果に至る可能性が限りなく低いほど、その代償として魔力や体力を大きく消耗する。
これは“数分先の未来を見る”はずの実験だった。
しかし、今目の前に広がる世界は明らかにおかしかった。
視線を巡らせると、見上げるほどの巨木が空を覆っていた。
どこか現代の植物とは違う、原始的な構造の高木が鬱蒼と生い茂っている。
その足元には、濃密なシダ植物が群れをなして広がっていた。
遠くでは潮騒のような音がかすかに聞こえる。――海が近い。
(ここは……?)
見慣れた研究所の天井はない。無機質な装置の音も、実験灯の光もない。
あるのは、どこまでも鮮やかな生命の匂いと、むせ返るほどの熱帯の気配だった。
エオはようやく立ち上がり、湿った地面の感触を足裏に感じた。
足を踏み出した先、木陰を“何か”がゆっくりと横切った。
……影。
思わず息を呑む。
体長は7メートルほど。四足でのしのしと歩くその姿は、
彼女の記憶のなか、前世で読み込んだ図鑑のページにあった草食恐竜、《プラテオサウルス》に酷似していた。
「……恐竜……?」
病院のベッドの上、飽きもせずページをめくった記憶がよみがえる。
あのころ、どれほど“この目で見たい”と願っただろう。
けれど目の前のそれは、図鑑の挿絵とすべてが一致しているわけではなかった。
頭部から背にかけて広がる鱗は、わずかに虹色を帯びて光を反射している。
それは太陽の熱を和らげるための構造を持つ、現代科学には記録されていない適応形か、あるいは――
(……魔素を帯びている?)
エオの脳裏に浮かんだのは、プロムが話していた“魔石”のことだった。
古代の魔力を帯びた生物の遺骸が、地中で長い年月をかけて結晶化したもの。
彼の言葉が、今になって現実の感触としてよみがえる。
(……魔石のよう……)
そのときになってようやく、エオは改めて自身に問いかけた。
「……ここは、どこ……?」
遠くに海が広がっている。
熱帯性の木々が波打ち際まで続いており、空には巨大な翼を持つ飛行生物の影が滑空していた――翼竜。
それに混ざって、まるで強化されたカブトムシのような、信じられない大きさの甲虫類が飛んでいるのも見えた。
(こんなもの、“今”の世界には存在しない……)
耳の奥で自分の心音が脈打っていた。
エオは唇を震わせ、ひとつの名を呼んだ。
「……プロム……?」
だが、返事はなかった。
草木をかき分けて彼が現れることもなく、そこには自分一人だけがいた。
(もし、本当に……ここが太古の世界だとしたら)
それは、エオが《可能性の灯火》と引き換えに放った、ただひとつの“願い”。
そして今、その願いは、現実となって目の前にあった。
エオは視線を巡らせ、辺りの景色を頭に刻み込んでいた。
ふと、背後から葉擦れの音が聞こえ、体が固まる。
「……」
声を出さずに振り向くと、茂みの向こうから軽やかな足音とともに、あの銀白の髪を揺らす男が姿を現した。
いつもの飄々とした表情を浮かべ、淡い紅色の瞳が太古の光に煌めいている。
「やあ、エオマイア。無事で何よりだ」
プロムはまるで散歩でもしていたかのように軽く笑った。
普段だらしなく着崩している白衣は脱ぎ、今はそれを腰に巻いている。
「よかった……無事で。ねえ、一体何が起きたの?」
安堵と戸惑いが入り混じった声で、エオは尋ねた。
「おそらくここは太古の昔……君の“願い”にこいつが答えたんだろうね」
そう言いながら、彼は懐から《アウリス・クロノス》を取り出し、軽く振って見せる。
「どうせ時間を越えるなら過去へ行ってみたい、そう願ったんだろう?」
「……その通りよ」
エオはプロムの顔をじっと見つめた。
「ごめんなさい、こんなことになるなんて……」
彼女の声は震えている。
「珍しくしおらしいね」
プロムはにやりと笑った。
「僕は今、人生で一番ワクワクしている」
彼は周囲を見渡し、少し浮かれたように続ける。
「だってさ、こんな世界に実際に足を踏み入れられるなんて、普通じゃ味わえない。太古の生き物の生きた姿を見られるなんて、すごいだろ?」
プロムの瞳は研究所で話している時よりも、遥かに輝いていた。
「それに、そもそもの発端、この魔導具を生み出した天才は僕だ。君は僕を恨んでいる?」
「そんなこと……むしろ感謝してる。私もこんな夢みたいなことが起きて」
満足げに微笑むプロムを見て、エオも少しずつ肩の力が抜けていく。
「……これからどうするの?」
「まずは生き延びること。怖がっていても仕方ないさ」
プロムの瞳に真剣な色が宿る。
「戻る方法を探すのはそれからだ」
エオは深く息を吸い込み、まるで新しい決意が胸に灯るように声を強めた。
「プロムと一緒なら、どんな困難でも乗り越えられる気がする」
プロムは満足げにうなずき、軽く拳を握った。
「よし、じゃあ行こう。太古の冒険は、これからが本番だ」
二人は目を合わせて、互いに力強く微笑み、森の奥へと歩みを進めていった。
そこには未知の危険も待ち受けている。
だが同時に、失われた世界の輝きと謎が、彼らを歓迎するように静かに息づいていた。