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帰れるって言われたら

 その男は、王城の中庭にふらりと現れた。


 午前の陽射しの中で、まるでずっとそこにいたかのような、自然すぎる佇まい。


 洗いざらしのシャツに長いコート、肩にかけた革の鞄――陽斗にとって見慣れた地球の匂いが、彼の全身から漂っていた。


「……なあ、セリナ。あの人……どこか、変じゃないか?」


「え? ただの旅人でしょ」


 だが、陽斗の直感は告げていた。あれは、こっちの人間じゃない。


 確信に変わったのは、その男がこちらを見て、はっきりとした日本語で言ったときだった。


「――風間陽斗くん、だよな?」


「……っ!」


 驚く陽斗の隣で、セリナが小さく身構える。


「ちょっと、どういう――」


「落ち着いて。敵じゃないよ。ただ……俺も、君と同じなんだ。異世界転移者って意味で」


 


====


 


 名前はエリオット・グランツ。


 日本では、江里口蓮司えりぐちれんじという名だったらしい。三年前、この世界に召喚された英雄候補の一人。だが何らかの事情でその役目を放棄し、今は王都の外れで自給自足の生活をしているという。


「君と同じく、特別な力は持ってなかった。だからね、俺は帰る道を探してたんだ、ずっと」


 書庫の片隅。リリスの提案で、三人はひそかに話し合っていた。


「帰る道? 本当にそんなのが……?」


「ああ。正確には試してないけど……見つけた。ゲートの痕跡がね。古代文字でこう記されてた。異界より来たりし者、名を返せば、道は再び開かれると」


 リリスがそっと眉をひそめる。


「それは……伝承としては確かに存在します。ですが、それを実現した者はいない。代償が必要とされる可能性も高い」


 陽斗は黙り込む。

 頭の奥で、様々な感情が渦巻いていた。


 ――帰れるのか? 本当に、元の世界に?


 もう一度、家族に会えるかもしれない。友達に。失われた日常に。


 でも、ふと横を見る。そこには、セリナがいた。


 黙って、彼を見つめる蒼い瞳。


「……どうするかは、君次第だ。強制はしない。でも、知っておいてほしかった。君は、まだ選べるってことを」


 


====


 


 その夜。寝台に横になっても、陽斗は眠れなかった。


「選べるって、なんだよ……」


 かすかに呟いた言葉は、枕に吸い込まれていく。


 彼は今、確かに幸せだった。

 セリナと一緒にいて、日々の小さな積み重ねを、特別だと思えるようになっていた。


 でも――帰れると聞いて、心が揺れなかったわけじゃない。


(ずるいよな……)


 どちらも大事だと思ってしまう、自分の弱さが、情けなかった。


 


====


 


 翌朝、陽斗は迷いを抱えたまま、いつものように雑用任務に出た。


「……あんた、なんか変。いつもより鈍くさい」


「う、うるさいよ……考えごとしてただけだって」


 セリナはじっと陽斗を見つめ、それ以上何も言わなかった。


 その代わり、作業の合間に、ぽつりと尋ねた。


「……あの人のこと、気になってる?」


「……うん。少しね」


 嘘はつけなかった。


 セリナは、目を伏せる。


「……そっか」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。


 それが逆に、陽斗の胸を締めつけた。


 


====


 


 夕暮れ。倉庫の前で、一日の仕事を終えた二人。


「……なあ、セリナ」


「なに」


「もし、俺が帰れるかもしれないって言われたら……どうする?」


 セリナはゆっくりと、空を見上げた。


 橙色に染まる雲の向こう――陽斗の知らない未来が、そこにある気がした。


「……帰りたいって思うの?」


「正直に言えば……ちょっと、思っちゃった。ずるいよな、俺」


 セリナは、ゆっくりと首を振った。


「……ずるくなんてない。大事なものがあるから、迷うんでしょ」


 そして、続ける。


「……でも、帰るってことは、ここを捨てるってことでもある」


 言葉は穏やかだったけれど、その奥に、震えるような感情が見えた。


「私は……あんたがいなくなったら、きっと……」


 そこで言葉を切り、セリナは唇を噛んだ。


「……なんでもない」


「セリナ……」


「……ねえ。もし帰るって決めたら……最後まで、ちゃんとあたしに言って。お願いだから」


 その言葉は、静かだけれど、どこか切実だった。


 


====


 


 夜、リリスが書庫で独り言をつぶやく。


「――試される時が来ましたね。陽斗さん。あなたが、本当に選びたい未来は、どこにあるのか」


 そして、彼女の視線の先には、また新たな記録が生まれつつあった。


 その表紙に、光の文字で刻まれる。


 《風間陽斗 選定の章》


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