異世界でも普通になりたかった
目が覚めたら、空がやたらと青かった。
――あれ? 今日って、学校あったっけ。
寝ぼけた頭でそう思った瞬間、風間陽斗は気づいた。寝袋に包まれているわけでも、ベッドの上にいるわけでもない。目の前には、見たことのない草原が広がっていた。
「…………は?」
間抜けな声が口をついて出る。
木々の葉はどこか日本のものよりも艶やかで、風にそよぐ音すら異質だ。空に浮かぶ雲は、なんだかのんびりとしていて、どこか絵本の挿絵みたいに見える。
そして何より、遠くに見える町の建物。石造りの壁と三角屋根の家々が整然と並び、塔のように高くそびえる建物には、見たこともない旗がはためいていた。
「まさか……いや、そんな……」
これは、あれだ。ラノベやゲームでよくある――
異世界転移。
ようやく事態を理解し始めた陽斗の肩を、後ろからトントンと叩く者がいた。
「おい、そこの兄ちゃん。……大丈夫か?」
振り返ると、粗末な革の鎧を着た男がこちらを覗き込んでいた。背中には剣を背負っていて、まるでRPGのモブ兵士みたいな出で立ちだ。
「あ、あの……ここって、どこですか……?」
「へ? ……お前、まさか、召喚されたクチか?」
その一言で、陽斗の全身が固まった。
ま、まさか本当に異世界に来ちまったのか……!?
冷や汗がつーっと背中を伝う。だけど、心のどこかで期待していた展開でもあった。そう、異世界に来たってことは、もしかして――
「俺って勇者だったり……します?」
試しに聞いてみると、男はしばらく沈黙したあと、ものすごく微妙な顔で首を横に振った。
「いや……ただの転移者ってやつだろ。最近多いんだよ、お前みたいなの。特に才能もスキルもないヤツが、ぽんって現れるのがな」
陽斗の希望は、音を立てて崩れた。
「……そ、そうですか……」
陽斗は草の上にしゃがみ込み、がっくりと肩を落とした。
異世界転移――正直、ちょっと憧れてた。チート能力を持って無双したり、美少女に囲まれたり、魔王を倒して英雄になったり……。だが現実は、そんな都合よくできていなかったらしい。
「……とりあえず、腹は減ってないか?」
気の毒に思ったのか、兵士は陽斗を近くの町――エルメシアと呼ばれる場所まで連れていってくれた。町の門番に説明してくれたおかげで、陽斗はあっさりと中に入ることができた。
「最近、転移者の受け入れ先は、王城の庶務課に回されるらしいぜ。そこで働けりゃ、食いっぱぐれはねえって話だ」
「庶務課……」
つまり、雑用係というわけだ。
チート能力どころか、ファンタジーっぽい職業ですらない。夢見ていた異世界生活とのギャップに、陽斗の心はすでにボロボロだった。
でも、立ち止まっても仕方がない。ひとまず、案内された王城の庶務課に向かうしかなかった。
王城――というには少し地味で、実際には、城というよりは大きな役所といった趣の建物だった。重たい扉を押し開けると、埃っぽい空気と紙の匂いが鼻をつく。
「……はぁ、また一人来たの?」
出迎えたのは、肩までの栗色の髪を一つに結んだ少女だった。制服のような作業着に、無愛想な表情。どこか怒っているような、そんな顔。
「えっと、庶務課に来いって言われて……」
「見ればわかる。転移者って、どいつもこいつも似たような顔してるから」
「うっ……」
ぶっきらぼうな物言いに、陽斗は思わず後ずさる。けれど彼女は構わず、机の上から紙束を取り上げると、陽斗に押しつけた。
「これ、今日の作業リスト。できなきゃ置いていかれるだけだから」
「あ、あの……お名前は?」
「セリナ・アーデン。あんたの教育係みたいなもん。……まあ、最初の数日だけね」
セリナ。どこか人を突き放すような目をしていて、でも、その中に小さな灯が宿っているような気がした。
(……俺、嫌われてる?)
それとも、そもそも興味すら持たれていないのか。どちらにせよ、陽斗は異世界最初の出会いにして、早くも心を折られかけていた。
――だが。
それでも、逃げたくはなかった。
(チートも、魔法も、ないけど……せめて、ここで生きてみたい)
そんなささやかな決意が、陽斗の胸に灯り始めていた。
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その日の作業は、とにかく地味だった。
書庫の本の整理。文具の補充。使用人の洗濯物の分別。厨房に薪を運び、水桶を補充して――
ファンタジーの『ふ』の字もないような、雑務の数々。
「手、止まってるよ。……あんた、帰りたいの?」
「い、いえっ……!」
セリナの冷たい視線が刺さるたび、陽斗は背筋を伸ばして作業に戻った。とはいえ、セリナ自身も手を抜いているわけではない。文句を言いながらも黙々と働き続け、手際も早い。
陽斗はふと思った。
(この人、なんでこんな仕事してるんだろう)
雑用とはいえ、王城の中で働く人間だ。多少なりとも魔法が使えるとか、剣が使えるとか、そんなスキルがあってもおかしくないのに。
「……そんなにジロジロ見ないでくれる?」
「え、あ、いや……」
しまった。見てたのがバレた。
「別に、剣も魔法も使えないよ。私」
唐突にセリナが口を開いた。目は書類に向けたまま、ぽつりと。
「身分も低いし、家族もいない。生きてくために、ここで働いてるだけ。別に珍しくないでしょ、そんな人」
「…………」
何も言えなかった。
セリナの言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。陽斗は、目の前の少女がどこか自分に似ている気がした。
普通で、特別じゃなくて。
でも、今できることを必死にやって――生きている。
だからこそ、陽斗は決めた。
「俺、頑張ります。この仕事、ちゃんと覚えます」
「ふーん……」
セリナは軽く鼻を鳴らしただけだったが、その横顔の輪郭がほんの少しだけ、やわらかく見えた気がした。
それが、風間陽斗の異世界生活の始まりだった。