失言、それから牽制
授業を終え、三階の教室から下校する人影を見下ろていた。それから片手に隠し持った手鏡をのぞき込む。
(変じゃないよね?)
教師は終礼を告げるチャイムを無視してなお、必要なのかよくわからない連絡事項を読み上げている。プリント配布してるんだから、みんな自分で読むだろうに。
前髪の調子を整えて、瞼に乗ったラメの量を確認する。
これからすごい美人に会うのだ。変な恰好で顔を合わせるわけにはいかない。
教師はやっと出席簿を教卓に置いた。ようやく話が終わる。学級委員長が起立を促す号令を口にしかけた時、教師は思い出したかのように生徒たちを引き留めた。そのタイミングは生徒たちを不自然に引き付ける。
「伝え忘れていた。最近『お箸』の異常行動が目立っている。このクラスにいる『白米』または『惣菜』の生徒らは、登下校十分に気を付けること!」
周りに合わせてさよならを口にすると、荷物を肩に担ぎながら先日の出来事を思い出していた。
『お箸』の異常行動。春になれは変質者が増えるのと似た現象だ。ストレスのたまりやすい時期は『お箸』たちの捕食本能が活発になるらしい。美白さんと出会ったあの日も、捕食本能にとらわれた人々から追いかけられていた。
不穏なニュースは脳内の片隅に置いておくとして。
待ち合わせの駅に到着する。きょろきょろとあたりを見回してみると、彼女はぽつんと佇んでいた。あからさまに避けられているようで、彼女の周囲にはぽっかり穴が空いている。通常、理性的な『お箸』は他人に被害を与えるリスクを避けるための行動をとる。だから彼女は周囲から孤立してしまう。
わたしは皆がちらちらと美白さんに寄せる視線に気づいていないかのような素振りで、スマホに夢中な彼女の肩を叩いた。
「お待たせしました」
「もう、あき。遅いわよ」
「ごめんなさい、先生の話が長引いちゃって~……」
唇を尖らせて文句を言う姿すら素敵だ。しかしその表情の裏には、ほっと安堵の感情が滲んでいる。
「さ、今日はお買い物、付き合ってもらうわよ」
「楽しみです!」
わたしはさりげなく彼女の腕に手をまわした。ぎゅっと抱き着くと、「暑いわよ」とぼやく。
でも嫌がって振りほどいたりはしない。
出会ってから一週間も経たずに知った。それは──美白さんには友達がいないということだ。
美人で『お箸』を異常に惹きつけてしまう美白さんは、誰からも避けられているようだった。それだけではなく、疎まれてもいるらしい。好きでその体質に生まれてきたわけではないのに。
わたしは心の底に沈む濁った感情から目をそらすがごとく、美白さんにいっそう強く抱き着いた。さすがに押しのけられてしまった。
姿見の前でネックレスの具合を確かめている。白いうなじから漂う色香に、まじまじと見つめてしまう。
「美白さん」
わたしはロングスカートの掛かったハンガーを手に彼女へ話しかけた。くるりと振り返る姿すら、美人画のようだ。
「……」
手の中にある黒のレザースカートを見下ろして、閉口する。
言ったらいけない、とわかっているのだが。しかし彼女にも失礼だ。本心を隠して友人をやっているなんて。
「……これ、似合うと思います」
喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
美白さんは微かに眉を曲げたが、すぐに笑顔を浮かべてわたしの手からハンガーを受け取った。同じように姿見の前でポーズをとりながら具合を測っている。
そんな姿を眺めながら、他に似合う服を吟味する。これも良さそう。というかどれを着ても素敵なんだろう。
あ~……
「好きだなぁ」
白のトップスを目の前にかざす。
「え?」
横から耳に入ってきた声に、わたしは振り返った。美白が目を丸くしてこちらを見つめている。
「……どうかしました?」
「……あ、いや。ごめんなさい、恥ずかしい勘違いしちゃったわ」
美白はさらさらの髪を何度も耳に掛けながら目を逸らす。それは照れ隠しというより、動揺を隠しているようで、さっと血の気が引いてゆく。指先がどんどん冷たくなっていく。
もしかして、口に出てた?
「あ、あの、今のは!」
「わ、わかってるわよ。その服気に入ったんでしょう?」
「いや、それは……っ」
なんで否定しちゃうんだろう。当たり前だ。感情を勘違いされて野放しになってできない。でも今はそんなこと言ってられる状況でもない。
本当にバカ。やっと話せる相手ができた美白さんを、自分の失言でまたひとりぼっちにさせてしまう。
「美白さんっ」
わたしは咄嗟に彼女の腕をつかんで引き留めていた。揺らぐ瞳をしっかりと捉えて、慎重に言葉を選び出す。
「わ、わたし──」
「好きなのよね?」
しん、と空気が冷える。
世界はわたしたち二人だけを残していく。外側はショッピングを楽しむ人たちで溢れかえっているのに、今は遠くの喧騒だ。
「友達として」
美白さんははっきりと口にした。
チャンスをくれている、と思った。わたしは返答に迷いながら、ひきつった彼女の笑顔を見上げ続ける。
「うれしいわ。私ずっと一人だったのよ」
告白の声はひどく震えていた。取り落としそうになった白いシャツは美白さんの細くてきれいな指に掬われて、商品棚に戻される。
『お箸』から度を越した愛、いや欲望を向けられた挙句に『お茶碗』、ましてや『白米』『惣菜』までもに距離を置かれている美白さん。
思わずきれいな手に目を奪われると、さっと背中の後ろに隠された。
違う、これはチャンスではないのだ。
「……」
「あき、私も好きよ」
──友達としてね
明らかな拒絶だった。
心の内を見透かされた上に、それはだめだと牽制を仕掛けてきた。わたしは一瞬視線を落とすほかない。選択肢はないのだな、と理解してしまえば表情に笑みを作ることができた。
「わたしも好きです」
けれど、続けるべきだった言葉は封印しておいた。