番外編3 ピッパ、フィリパ、ピピ
大きなお屋敷の小さな部屋でお母様と暮らしていたのを、ほんの少しだけうっすらと覚えている。
お母様はお仕着せを着ていたから、そのお屋敷で働いていたのだろう。
「あれ、あの服」と言って指差すと、それが「お仕着せ」と呼ばれていることをドニに教えてもらった。
「お母様、あれを着てた」
「お前の母さんが?」
「うん。あとね、わたしはピピじゃなくてフィリパ」
マルセルに引き取られて二年ほど経つと、ピピは様々な言葉を覚えてゆくのと同時に、自分のことを思い出して時々語るようになった。
「お母さんの名前は?」
「うんとね、たぶん、エルザ」
「姓はわかる?」
「わかんない」
ピピは、母のお仕着せ姿は覚えているのに、母の顔を思い出せなかった。
しかも、日に日に記憶が薄れてゆく。それが幼いピピにはとても恐ろしかった。
わたしは誰の子?
わたしの本当のお家はどこ?
確かなものが自分には何もなくて、その心細さで押し潰されてしまいそうになる。
マルセルとドニが自分のことを引き取ってくれたのはわかっている。そして彼らが自分のことを大切にしてくれていて、追い出したりしないでくれることもピピにはわかっていた。
でも、本当に自分はここにいてもいいのかな?
誰かがわたしを連れ戻しに来たりしない?
何度打ち消しても、そんな不安や疑問がわいてくる。
「お父さんの名前はわかるかい?」
「うんと、どる、···どるじぇる?」
「ドルジェル?」
「うん、そこのお家にお母様といた」
マルセルは、ピピの言うドルジェル男爵には心当たりがあった。
最近羽振りの良い新興貴族だ。そして元王女、バディム公爵夫人の取り巻きの一人だった。
ピピが彼の子かはともかく、貴族界隈に縁のある子どもなのはわかった。
それはドニも同じで、どうやら俺の回りはそんな者が多いなとひとりごちた。
「ピピ、君の出自はどうでもいいんだよ、君はもう、うちの子だからね」
「···ひつじ?」
「ぶっ」
ドニがメェェ~と鳴き真似をして茶化した。
「フィリパは素敵な名前だけど、その名前は君がお嫁さんになるまでは隠しておこう」
「どうして?」
ドニまで不思議そうな顔をして聞いた。
「怖いおじさん達に連れていかれるのは嫌だろう?」
「いや!」
ピピはマルセルにしがみついた。
「うん、だからね、ピピっていうのは君を守るための魔法の名前なんだ。フィリパという名前は秘密にしないとね」
「うん、わかった」
ドニもピピも「秘密」という言葉に弱かった。
ドニはある時、ピピに秘密を打ち明けた。
「マルセルには息子がいるんだよ」
「ええっ!?」
絶対に秘密だぞと念を押されたピピは、こくこくと頷いた。
ドニはマルセルの付き人をしていたが、マルセルはピピを仕事場には連れていかなかった。
その代わり、読み書きを教え、平民でも入学できる学園に通わせた。
マルセルは貴族の令嬢として通用するようにピピを育てた。
「貴族になれと言っているのではないよ。だけど、君の両親に申し訳なくならないように育ててあげたいだけだ」
マルセルは蒼い矢車菊の花が好きだった。
ドニ兄様が亡くなってからは、しばらくそればかり部屋に飾っていた。
あの時は本当にマルセル父様もげっそりとやつれてしまい、共に辛い時期を過ごした。
学園を卒業すると、デジレ伯爵家へ行儀見習いに行くことになった。
父と離れるのは寂しかったが、フィリパという名前を名乗るように父に言われた。
「もう、その名前で生きても大丈夫だよ」
そう言って父は私を送り出した。
どうやっても顔を思い出せない母の、「ピッパ」と私を愛称で呼ぶ声だけを、ふと思い出すこともあるけれど、それは夢みたいなものでしかなく、私を現実に愛してくれる人はみな、私のことはピピと呼ぶのだ。
私にこの名前をくれたのはドニ。私の唯一の最愛の兄さんよ。
デジレ伯爵邸に着き、デジレ伯爵家の人々へ挨拶をしようとしたら、私は耐えかねて泣き出してしまった。
そこにいたのは蒼い矢車菊の瞳の人と、マルセルの瞳にそっくりな人がいたから。
「マルセルには息子がいるんだ」
かつてドニに聞かされた秘密の人。
そしてマルセルの想い人ルル、蒼い矢車菊の君。
その二人も私のことを家族としてピピと呼んでくれるの。
私の名前はフィリパ、そしてピピ。
(了)




