1『赤色のプロローグ』
――幸せが崩れ去るのは、いつも一瞬だ。
秋の風にわずかな冬の冷気が混ざり始めた、十一月の東京。大学の帰り道、都会の喧騒と解体工事の作業音の響くアスファルトの街並みを、彼とその友人は三人で歩いていた。
彼――田奈淵 怜は十九歳、大学二年生の青年である。怜について簡潔に説明すると、ごく一般的な家庭に生まれ、そこそこ偏差値が高い大学に合格し、順風満帆のキャンパスライフを満喫中の善良な一般市民――といったところである。特筆すべき特徴や特技や特殊な能力は、特には存在しない。
怜は寝違えた首をぐりぐり回していると、横から大きめのあくびが聞こえてきた。
「くぁー……眠たっ」
「講義中にあんだけ寝たでしょーが。コアラなの?」
「一日は二十四時間あんだろ! じゃ、十二時間寝ないと十二時間活動はできないべ?」
してやったりと謎理論を披露する癖っ毛の青年は、中学からの腐れ縁である怜の旧友――天宮 奏だ。陽キャの塊のような性格で謎発言が飛び出すが、要領がいいのか成績はなぜか高い。
奏がニヤリと笑い、一歩前をイヤホンを耳に挿しながら歩く眼鏡の同級生にがばっと飛びつく。
「たーけちゃんっ。何聞いてんの? ビーエムダブリューってやつ?」
「英単語だっつの。準一級もうすぐ受けんだよ」
「うわマジメくんだ! 怜、ガリ勉がいたぞガリ勉!」
「マッジーメ! あそれマッジーメ!」
「お前らうるせえ!」
と言いつつもイヤホンを外す短髪の青年は水城 健。大学で怜と奏と偶然同じ講義を受けたのがきっかけで、いつの間にか三人でよく遊ぶようになっていた。
「あっ! 歩きスマホは危険行為だべ!」
「フーマジメ! あっそれフーマジメ!」
「歩道で騒ぐな!!」
ワイワイと騒ぐ怜と奏、それを健がたしなめる。もう半年になる、怜ら三人のいつもの光景がこれだ。――ちなみに、奏の言っていたビーエムダブリューは、おそらくASMRと言いたかったのだろうと推測される。
「そーいや健ちゃん。ママへの誕生日プレゼントがーとか言ってたっしょ、いい店あって……」
「おいっ! ……奏」
「あっ……」
しまったと、健に言われ奏が口を噤む。楽しげに弾んでいた会話が途切れ、先程までとは空気が一転。冷たい木枯らしが、クレーンに吊られた鉄骨をかすかに揺らしていた。
「あー……ごめん、怜……」
「……いーって、大丈夫」
目を伏せ、申し訳なさそうに謝る奏に、気にするなと怜はなんとか笑みを浮かべながら答える。
今年の七月、怜は母親を亡くした。ちょうど大学が夏休みに入った時である。若い頃から元々患っていた癌が急速に悪化し、言葉も遺せないまま命を落とした。葬儀が執り行われたのも、そう昔の出来事ではない。
「……あ、そうだ課題終わった? 金曜までのやつ」
なんとか声の平静を保ちながら、空気を切り替えようと別の話題を切り出す。
大好きだった母親が死んでしまったことは、とても悲しい。でも、それで大切な親友達にまで気を遣わせるのは、お門違いというものだ。
「……ああ、終わったぞ」
「……あー、オレは、えと、えーと」
「奏はまだだろ」
「あれの期限、今日までに変更だったしな」
「えマジ!? ちょ待った待って、え!?」
「うそうそ、冗談じょーだん」
焦る奏にネタバラシ、見事に引っかかってくれたようだ。そして、気まずい空気も払えたようで何より。
「なんだびっくりしたじゃん怜ちゃーん!」
「あはは、悪い悪い。でもそろそろ取り組まないとマズイぞ? 終わらなかったらどうなるか……」
「怜も課題終わってないだろ」
健の冷静なツッコミも入りつつ、奏とじゃれ合いながら歩道をゆっくりと歩く。
――だから気づかなかったのだろう。
怜達の頭上に降り注ぐ、幾多の鉄骨に。
「……は」
「えっ」
テレビの映像でしか見たことのないような、その瞬間を目の当たりにした怜と奏は硬直した。上空が全て赤銅色の鉄柱で覆われるその光景はまるで現実味がなく、立体映像のような何かなのかと錯覚したほどに。
数瞬後、脳が状況を遅れて理解した。
死ぬ、と。
「あ……」
「っ……お前ら!!」
二歩分後ろを歩いていた健が、怜と奏の襟を引く。刹那、緊迫した親友の横顔が至近距離を通過し、二人は背後へと投げ飛ばされた。尻餅をついた体勢の怜が、後ろへ手を伸ばし切った青年を見上げる。
柱状の死が、親友を押し潰した。
「…………っ!」
声にならない声が漏れる。身を挺して二人を守った親友は、こちらへ伸ばしていた腕を残して、その身を鉄骨に飲み込まれていた。ぐぢゃり、と赤銅色の鉄骨が血肉を押し潰した悍ましい音が、辺りに鈍く響く。
「あぐっ……いっ、でえ……!」
怜の右、同じく尻餅をついた体勢の奏の苦悶の声。見れば、鉄骨を避けきれなかったのだろう左の足が、その膨大な質量に押し潰され、脛より先を無惨な肉の塊へと姿を変えていた。
「か、奏…………健……!」
救急車、より先に友の名前が口の端から漏れた。致命傷ではない奏より先に、深刻な傷を負ったであろう健へ急いで駆けつける。応急処置用にハンカチを取り出して奏へ投げ、そして一刻も早く健の元へ。
震える手で、鉄骨の下から伸びる親友の手を握りしめ、数トンもある鉄の塊を何とか持ち上げようと腕を差し込む。
「っ健! 大丈夫か! たけ……」
その直後。握った右の掌は、何の抵抗もなく鉄骨から抜けた。
なぜなら、その腕には、肘より先が存在しなかったから。
「ひっ」
裏返った声が、怜から零れる。千切れた血塗れのイヤホンが、鉄骨の隙間から転がり出た。直後、赤銅色の鉄鋼よりもなお赫い、紅色の水溜まりがゆっくりと滲み出た。
「っあ……う…………ああ……」
周囲の悲鳴とシャッター音も、豹変した街の景色も遠ざかる。ぐるぐると、パレットに垂らした絵の具の色を一緒くたに掻き混ぜたように、怜の心が暗い色に塗り潰されていく。
――もし。もし、怜が、悪ふざけを、していなければ。健は――
「っ健……怜……大丈夫、かよ……」
背後、痛みを堪える声が健と怜の安否を心配する。自らも脚の一本を失いながらも、目を固く瞑って痛みを堪えながら必死で声を投げ掛ける奏。振り返ると、今にも決壊しそうな程に表情を痛苦に歪めていた。
「今、救急車っ、呼んだからな……うぁっ、もうちっとだけ、我慢しろよ……」
振り返ると、携帯電話を握りしめた奏が途切れ途切れにそう紡ぐ。脚は、咄嗟ではあるが正確に処置できていた。
「かなっ、奏、健が、健っ……」
――きっと、本当に不運だったんだと思う。
視界の右。全身が震え、何でもいいからと、少しでも何かに救いを求めようとした怜だから気付けたのだろう。
横転した大型トラックが、ガードレールを破壊して奏へと突っ込むのを。
「かな――」
動けぬ親友へと、横から圧倒的な質量の鉄の塊が迫る。その暴威が肉体をぐちゃぐちゃに潰し、跡形も残さずに血煙へと変貌させる光景を、幻視した。
「ゔあ゛っ」
怜の全身を、莫大な衝撃が襲う。まさに肉体を粉々にされたような激痛が走り、蹂躙する。トラックと共に、解体作業中のビルの外壁を突き破り、内部へと弾き飛んだ。正面には、大量のガラスの破片の向こう、突き飛ばされた奏の姿。
――動けて、よかった。
――健も、こんな気持ちだったのかな。
場違いな感想を二つ抱きながら、怜は血をとめどなく流して横たわる。周囲には、鉄筋が剥き出しのコンクリートが多数、老朽化していたのか端々が欠けている。
「……ひゅーっ……っゔ……」
ボロボロの天井を見上げながら、それ以上にボロボロの怜は、灼熱のような激痛に苛まれていた。全身の肉はミンチとなり、ガラスの破片が幾つも突き刺さっている。骨は砕け、内臓にまで深刻な損傷を受けているだろう。血はとめどなく零れ落ち、迸る灼熱の痛みがゆっくりと纏わりつく冷気へと変わっていく。
死の寸前であることは、最早明らかであった。
――もし、死んだら。天国に行けたなら――
「…………?」
激痛が暴れ狂う体と、赤く染まる視界。黒い波に揺られて遠ざかる意識の中、遠くで何かが響いた気がした。必死に何かを叫ぶ、どこか懐かしい声。親友の――奏の声。
「……ぐっ、ゔぁ……がな、で」
その声に、獣のような声で、必死で答える。応える。脳裏に浮かぶは、二人の親友の笑顔。熱が失われていく指先が、僅かに動いた。
「……っ、かなで――」
神経を集中させていた聴覚が、異音を捉える。霞む両目で見えたのは、トラックの衝撃で限界を迎えたのであろう、罅と亀裂の走った天井。
その瓦礫が、歪な四角形に分離する。地響きのような音と共に落ちるは、まさかこの短時間で二度も見るとは思いもしなかった、超質量の落下物。それが、息の根を止めんと怜へと降り注ぐ。
「………………かな、で……健」
――もし、死んだら。
――母さんに、会えるかな。
直後、瓦礫が怜を押し潰した。
* * *
視界がぼやける。寝起きのように意識は混濁し、思考は靄がかかったように曖昧だ。
不透明に濁った思考の海の中、海馬に荒く糊付けされた記憶の帯を、ゆっくりと紐解く。
この記憶が確かならば。怜は、鉄の質量に肉体を潰され、全身を瓦礫に粉々に砕かれ――
「……っああああああぁ!!」
悪夢が突然途切れたかのように、怜は飛び起きた。額には脂汗が浮かび、呼吸は浅く荒い。
「はぁっ、はぁっ…………」
乱れた呼吸を、周囲の空気を吸い酸素を体へ染み渡らせることでなんとか落ち着かせる。――その空気に、怜は違和感を覚えた。
「空気が、澄んでる……?」
母の生まれ故郷である群馬を、家族で訪れた時。直近では、母の葬儀を行ったときに訪れた山間の、その空気と同じくらいか、あるいはそれ以上に綺麗で生命力に満ち溢れた空気だ。
なぜ、とその答えが出る前に、怜のぼやけていた視界が鮮明になり、周囲の景色を映し出す。
「え……?」
怜の視界に入ったのは、青々と茂る緑色の木々であった。
生命力に満ち溢れた木々は生き生きと生い茂り、立ち並ぶ樹木にはコンクリートジャングルなど見る影もない。
「……おち、つけ。落ち着け俺。確か、瓦礫が降ってきたところは確かなはずだ、ろ……うっ」
怜は思わず、手で口を抑えてしまう。あの激痛、体の欠損、赤く染まる視界。
普通の人間にとって、自分自身と、大切な誰かの『死』の感覚は、決して耐えられるものではないのだ。
「っう……ふ、う。……考えろ、考えろ俺」
数多の生物がひしめく地球で、人間の生き残るための武器である知恵を絞って、この状況の考えうる可能性を挙げてゆく。
何らかの施設の、森林の撮影スタジオか。
救急ヘリでの輸送中に、どこかの山奥に墜落したか。
いまだ意識はなく、病院のベッドで明晰夢を見ているにすぎないのか。
もしくは、ここは俗に言うあの世、天国か地獄なの
あるいは――
「……いやいやいや、それだけは確実にありえない」
だが先に挙げた三つも、信憑性は非常に低いのも事実だ。こんなスタジオが街中にあるとは考えづらく、大病院までに森林を横切ることもないだろう。夢だとしても、
「……うっ、いっつ……」
ぎゅっと頬をつねってみたが、鋭い痛みを感じるのみであり、とても夢とは思えなかった。――夢であってほしかった、そんな気持ちが自分の中にあることにも気づく。
「……奏、健」
悲運にも起きた鉄骨の落下、悲運に悲運が重なった大型トラックの横転、そしてトラックの衝撃により崩れたビルの瓦礫。
足が潰れる重傷を負った旧友と、鉄骨の下から出てきた親友の腕――
「う」
思わず口をおさえる。
グロテスクに変貌した親友の腕が、怜を庇った腕が――
「ヴルルルルゥ……」
「……ッ!」
真後ろから低く野太い獣の唸り声。本能的な危機感を覚え、怜は思わず振り返る。
三メートルは優に越すであろう巨体は、赤銅の毛皮に包まれていた。全身は熊のシルエットに近く、丸太のように太い手脚に、ぎらつく眼には餌の姿を映し、生え揃うはぞっとするほど鋭い牙と爪。
その短刀のような爪の並んだ剛腕が、高く振り上げられていて。
「え」
ぞぶり。
怜の右腕が、宙を舞った。
「……ゔぁああああああああっ!!」
眼前の獣は、苦しみ悶える怜を意にも介さず、怜を喰おうと、痛い、痛い、痛い――
「あ゛っ、うあっ、ゔああああああっ!!」
逃げ惑う怜は余りにも矮小で、貧弱で、突き立てられる爪に、牙に、何も抵抗することは叶わなかった。知恵など何の意味も持たず、ただ圧倒的な暴に蹂躙されるのみ。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
容赦なく、肉は抉られ、食いちぎられ、引き裂かれる。うるさいほどに脈打つ心臓は欠けた手脚に血液を送り、自身の返り血を浴びた左腕は地面を掻きむしり、響きわたる絶叫は胴に穿たれた大穴で遮断される。
「ゔ…………あっ、あ……」
なぜだと、悪意ある第三者の意図としか思えないほどの理不尽な現状を、非道な運命に血を吐きながら叫ぶも、その答えを得ることは決してない。
視界が真っ赤に染まる。それは血の色か、絶望の色か。
または、友を死なせた罪人の辿り着く地獄の景色か。
「………………ぁ」
怜は、その身に受けるには余りにも残酷な、二度目の死を遂げた。
* * *
「………………ゔああああああっ!!」
悪夢から目覚めるように、怜の意識は覚醒する。
奇しくも、つい先刻と同じように目覚めた怜は、荒い呼吸を繰り返し、腕で汗を拭い――
「え……? 腕が、ない……」
肘より先、十九年付き合ってきた右の手は存在しなかった。肺は膨らまず呼吸は停止し、汗の一滴たりとも流れ落ちはしない。
反射的に周囲を眺める。先程と何ら変わりない、樹木の生え揃った静かな森林の中だった。
「……何が、起こったんだ? どうなった……?」
壊された日常、突如として降り立った森の中、そして脳裏にこびりつく絶望と恐怖の記憶。あまりの不可解に脳が追いつかず、ふらりと地面に倒れそうになり、左手をそばにあった樹木に付けて体を支え――
「うわっ! ……すり抜け、てる?」
左手は、質量など感じさせない様子で樹皮を通り抜けた。押しても引いても何の抵抗もなく、すかすかと素通りするのみ。
ふらついたものの、なぜか転倒しなかった足元を見る。その両足首は透け、つま先に至っては完全に見えなくなっていた。
「……ゆう、れい……?」
――この日、田奈淵怜は幽霊となり、呪われた運命の元にこの世界に降り立った。