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御聖断

 沖縄で日米の激戦が始まっていた昭和二十年四月五日、小磯内閣は総辞職しました。その日、梅津美治郎参謀総長は木戸幸一内大臣に呼び出され、沖縄戦の見通しと今後の戦局、内閣と統帥部のあり方などについて意見を求められました。梅津参謀総長は戦局の見通しについて苦しい説明をします。

「沖縄戦もなかなか困難である。見通しは決して良好とは言えないが、敵を撃攘しうると否とにかかわらず、あくまで戦う態勢で進まねばならない」

 内閣と統帥部の統一についてはあくまで否定的でした。

「大本営内閣や戦争指導内閣などは考えられるものの、統帥と国務を一緒にするということは困難である」

 梅津参謀総長にしてみれば、終戦のその瞬間まで統率ある強力な陸軍を保ちたかったと想像されます。そうでなければ日本本土は一方的に侵略されてしまい、全面的無条件降伏になってしまいます。文官政治家に軍部が干渉された場合、軍の士気や戦力が低下するおそれがあります。また、軍内の過激分子が暴発し、軍の統率がとれなくなる可能性もあります。したがって、停戦交渉を含む終戦工作によって条件付き降伏を成立させるためにこそ、精強な帝国陸軍が最後の最後まで必要だと梅津美治郎は考えたようです。

 同日、鈴木貫太郎大将に大命が降下し、七日、鈴木貫太郎内閣が成立しました。主要閣僚は阿南惟幾陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相などです。阿南大将の陸相就任を誰よりも喜んだのは梅津参謀総長です。

(阿南ならば終戦の最終段階まで陸軍の統制を保ちうる)

 阿南惟幾は梅津美治郎の三期後輩です。ふたりは同郷ということもあり、若い頃から親しい仲です。陽気な阿南と静かな梅津は馬が合いました。梅津美治郎にとっては数少ない知己です。

「父と阿南さんは昔から最も親しい間柄のようであった」

 戦後、そう語ったのは長男の梅津美一です。


 すでにアメリカ軍による日本本土への空襲は、その規模と頻度を増していました。アメリカ軍がサイパン島とテニアン島に大規模な飛行場を整備し、本格的な日本本土空襲を開始したのは昭和十九年十一月です。当初は高高度からの精密爆撃で軍需工場などを狙っていました。しかし、高高度からの精密爆撃は難しく、戦果が上がりませんでした。そこでアメリカ軍は方針を変えました。焦土作戦を採用したのです。昭和二十年二月以降、アメリカ軍第二十一爆撃集団司令官に任命されたカーチス・ルメイ少将は低空からの夜間絨毯爆撃を実施し、日本の都市を民間人もろとも爆撃目標としました。東京、名古屋、大阪、神戸などの主要都市は反復的な空襲により六月までに焼け野原にされました。あきらかな戦争犯罪です。

 一方、欧州ではドイツが五月七日に無条件降伏しました。ドイツは首都まで攻略されての完全敗北です。こうなるとソ連の対日参戦は必至とみねばなりません。アメリカとソ連から挟撃されるような戦略環境では勝利の要素は皆無です。もはや終戦工作を躊躇してはいられません。梅津参謀総長は種村佐孝大佐を呼びました。

「ご苦労だが、東郷外務大臣の所へ行って欲しい。幹事を参加させぬ構成員六名だけの最高戦争指導会議秘密会の開催を、東郷外相から鈴木総理に要請してもらうのだ。ドイツ降伏の直後だから東郷外相から提案してもらうのが良いと思う」

 あらかじめ打っておいた布石を役立てる時が来ました。種村大佐の話を聞いた東郷茂徳外相は即座に同意し、次のように決意を語りました。

「開戦時の外務大臣として重責あるこの私が、再び最終段階に外務大臣に就任したからには全力を奮って戦争終結に努力する」

 東郷外相からの要請に鈴木総理は同意しました。総理の名において最高戦争指導会議秘密会が招集されました。かくして秘密会(六巨頭会談)が五月十一日、十二日、十四日にあいついで開催されました。参加したのは鈴木貫太郎総理、阿南惟幾陸相、米内光政海相、東郷茂徳外相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長の六名だけです。梅津美治郎の意図どおり、六巨頭会談の秘密は見事に守られました。そのため、この会談で何が議されたのか、その詳細は部外者にはわかりません。この六巨頭会談の後、外務省はソ連を仲介とする終戦工作に着手しました。

 同じ頃、大本営では戦争指導大綱の作成作業が進められていました。陸海軍の間で協議が繰り返され、六月六日の最高戦争指導会議を経て、六月八日の御前会議で「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定されました。その内容は戦争完遂一本槍です。敗色の濃い日本の現状に合致せぬこの官僚的作文には、もはや実質的な意味は無かったといえます。しかし、戦う姿勢を陸海軍はあくまでも崩すわけにはいきません。終戦工作とは、右手で敵と戦いつつ、左手で敵と握手をすることだからです。陸海軍は最後まで国家の右手となり、たとえ勝てぬとわかっていても敵に対して戦う姿勢を示さねばなりません。

 梅津美治郎参謀総長は、六月六日の最高戦争指導会議を欠席しました。大切な会議を欠席した梅津は大連にいました。六月一日に日本を発ち、関東軍総司令官山田乙三大将および支那派遣軍総司令官岡村寧次大将と会談しました。

 この大連会談では、支那戦線の縮小、支那派遣軍から関東軍への五個師団転入、関東軍の対ソ戦備などについて意見の調整がおこなわれました。梅津参謀総長は、降伏のやむを得ざる事について説明し、終戦時における両軍の統制確保をふたりの将軍に依頼しました。誰もが断腸の思いです。会談後、梅津参謀総長はただちに帰国する予定でしたが、悪天候のため飛行機が飛べず、やむなく六月八日の御前会議を欠席せざるを得ませんでした。


 沖縄では、首里戦線でアメリカ軍と対峙していた第三十二軍がついに首里城を撤退し、島尻方面で新たな戦線を構築しつつありました。しかし、敗勢は必至です。沖縄が陥落すれば、いよいよアメリカ軍は九州あるいは本州へ上陸すると予想されます。

 最高戦争指導会議の構成員六名を昭和天皇が親しくお召しになったのは六月二十日です。

「戦争指導については先般の御前会議で決定したが、他面、戦争の終結についても、この際、従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これが実現に努力せんことを望む」

 このように天皇陛下は仰せられ、構成員の六名に意見を求められました。梅津参謀総長は次のように返答しました。

「異存はございませんが、これが実施には慎重を要すると存じます」

「慎重を要するは勿論であるが、そのために時機を失することはなきや」

「速やかなるを要すると存じます」

 その後、外務省はソ連を通じた終戦工作を模索し続けましたが、ソ連側の反応は鈍く、何も進展せぬまま七月中旬を過ぎました。

 一方、陸海軍の戦争指導は進み、本土決戦の準備が進捗していきました。いわゆる決号作戦です。本土決戦に逸る陸軍の少壮将校は、本土決戦の発令を今やおそしと待っています。しかし、発令はなかなか下りません。陸軍将校らの不満は膨張していきました。不満というより動揺だったかもしれません。敗勢がつづけば、いかなる軍隊組織といえども磐石とはいきません。帝国陸軍も例外ではありませんでした。少壮将校たちは動揺のあまり、上級統帥に不信の念を抱き、左右の同僚にさえ不信の目を向けるようになりました。このまま組織の統制を失えば、敵と戦う前に自滅してしまいます。阿南陸相と梅津参謀総長の苦心は、ここにこそありました。部下たちの軽挙妄動を誡め、信頼をつなぎとめねばなりません。そして、最後の最後では本土決戦を叫ぶ少壮将校たちを裏切って終戦に持っていかねばならないのです。決死の腹芸です。

 決号作戦の早期発動を求める将校らは、阿南陸相と梅津参謀総長のところに連日のように押し寄せ、決号作戦発動の嘆願を繰り返し、ときには思いあまって「優柔不断である」となじりさえしました。阿南陸相は、ときに本土決戦の決意を語って部下たちを納得させ、あるときには部下の無礼や大言壮語を大喝して沈黙させました。梅津美治郎参謀総長は、例の能面のような表情で少壮将校たちの話を聞いてやり、しかし、とりつく島はいっさい見せず、そのまま帰らせました。


 七月、アメリカ軍の日本本土上陸は間近だと思われる状況になりました。すでに沖縄の第三十二軍は玉砕し、本土の制空権さえ奪われつつあります。アメリカ軍の戦闘機は日本本土上空を悠々と飛び回り、船でも列車でも人間でも動くものを見つけては銃撃しました。老人や子供さえ銃撃されました。アメリカ軍の戦略爆撃機はゆうゆうと日本上空を飛び、主要都市ばかりでなく地方都市までを焼け野原にしました。さらにアメリカ海軍の戦艦戦隊は太平洋沿岸に接近し、艦砲射撃を加えています。帝国陸海軍には、これらの敵を迎撃する力がもはやありません。

 一方的な敗勢に人心は動揺しました。政界には反軍的な雰囲気が蔓延し、陸海軍内においても上下左右の相互不信、相互不和が生じはじめました。敗北ほど軍紀を乱すものはありません。これは亡国の兆候です。

 陸軍首脳は懸命に軍紀の粛振に努めました。有利な条件で講和を結ぶためにこそ、終戦の直前まで精強な陸軍を保持せねばならないのです。阿南陸相は徹底抗戦の態度を表明し、本土決戦完遂を口にすることで部下の不満を抑え、戦備の充実を図りました。梅津参謀総長は、本土決戦に逸る参謀将校を寡黙と能面で韜晦し、「優柔不断」との悪評に耐え続けました。

 米英支の三国がポツダム宣言を発表したのは七月二十六日です。この宣言は日本政府に対して戦争終結を勧告するものです。同宣言の第六条には「我らの条件は以下の条文に示すとおりである」と書かれており、明らかに有条件降伏の勧告です。日本は武装解除され、領土を失い、戦争犯罪人が裁かれることになります。しかし、奴隷化されるわけではなく、基本的人権は守られると書かれていました。翌二十七日、六巨頭会談が開かれて対策が協議されました。

「これは有条件講和の申し出であり、拒絶すべきではない。ただし、外交上まだ交渉の余地はあるから、喜んで受諾するものでもない。いまは黙っているのが賢明である。つまりノー・コメントだ」

 東郷茂徳外相が見解を述べました。これに対して海軍軍令部総長豊田副武大将は断固として拒絶すべきだと意見しました。

「はなはだ不都合であり、断固抵抗の大号令を発すべし」

 阿南惟幾陸相もこれを支持しました。しかし、鈴木貫太郎総理は東郷外相を支持しました。論議は紛糾しましたが、最終的な講和には統帥部も賛成しました。結局、国体護持の確証を得るため外交交渉を継続することが決まりました。この点、東郷外相にも異存はありません。

 日本政府はポツダム宣言の存在のみを公表し、いっさいの論評を避けました。翌二十八日、新聞にはポツダム宣言の記事が小さく掲載されました。これに陸海軍内の強硬派が激昂しました。

「断固拒絶せよ」

 というのです。少壮将校らの抗議の声を抑えきれなくなった陸海軍首脳は、鈴木貫太郎総理に協議を申し入れました。総理、陸海軍大臣、両総長の協議になりました。陸海軍首脳は、ポツダム宣言の拒絶を記者会見で声明するよう総理に求めました。鈴木貫太郎総理は、これを受け入れ、その日の内閣記者団との定例会見において、ポツダム宣言を黙殺する旨を声明しました。

「政府はいったいどうするんです」

 記者の質問に対して鈴木総理は答えました。

「日本としては、これをまあ重要視しない、ということです。つまり黙殺ですね」

 鈴木総理の黙殺発言は、あくまでも軍部内の過激派を沈静化させるためのポーズでした。


 昭和二十年八月六日午前八時、人類史上初の原子爆弾が広島に投下されました。広島は一瞬のうちに廃墟と化しました。大本営は、直ちに新型爆弾の被害を調査し始めました。

 翌七日、トルーマン大統領は声明を発し、原子爆弾を使用した事実を世界に告げました。

「十六時間前、アメリカの航空機は広島に爆弾を投下し、その軍事力を破壊した。この爆弾の破壊力はTNT火薬二万トン分を越える」

 トルーマン大統領は、さらに日本に対する警告をおこないました。

「今や我々は、日本のいかなる都市であれ、その生産基盤を迅速かつ完全に消滅させることができる。港湾、工場、通信施設が破壊されるであろう。誤解のないように言うが、我々は日本の戦争遂行能力を完全に破壊できる」

 翌八日、もはやポツダム宣言を受諾する外ないと考えた東郷外相は鈴木総理と会談の上、天皇に拝謁しました。昭和天皇は戦争終結への努力を希望なさいました。

 同日深夜、ソビエト連邦が日本に対して宣戦を布告し、満洲へ侵攻を開始しました。日本の死命は完全に制せられたのです。

 八月九日午前十時、最高戦争指導会議秘密会(六巨頭会談)が開催されました。議題はポツダム宣言の受諾です。相変わらず意見は受諾の是非をめぐって割れました。会議中の午前十一時、長崎に原子爆弾が投下されました。秘密会は一時中断され、再開されたのは午後十一時半でした。それは宮中での御前会議です。六巨頭の外、平沼騏一郎枢密院議長が参加しました。憲法上、外国との条約は枢密院の同意を必要とするのですが、その時間を節約するために鈴木総理が平沼枢相を参加させたのです。

 もはや誰もがポツダム宣言の受諾に賛成しています。ただ、留保条件について意見が割れました。国体護持のみを留保条件にすると主張したのは東郷外相と米内海相です。これに対し、阿南陸相は、国体護持のほかに、保障占領を最小限にとどめること、武装解除は日本が自主的に行うこと、戦犯処理は日本が実施することを条件に加えるべきだと主張しました。この阿南案に梅津参謀総長と豊田軍令部総長が賛成しました。議論は平行線となり、容易に結論は出ません。

 反撃手段のない原子爆弾という兵器が出現した以上、実質的な無条件降伏もやむなしとするのが東郷外相でした。これに対して、あくまでも有条件降伏にこだわったのが阿南陸相です。阿南陸相の意見にも道理があります。陸海軍は講和条件を有利にするためにこそ本土決戦を準備し、軍紀を保ってきたのです。アメリカ軍といえども特攻機一万、統率のとれた地上兵力五十個師団を無視することはできません。ここで譲歩するのではなく、なんとかして有利な条件を獲得したくなるのは当然です。また、ひとたび武装解除してしまえば、戦勝国の傍若無人を止められなくなります。実際、第一次大戦で条件付き停戦をしたドイツ帝国は、武装解除後に戦勝国から無条件降伏だと強弁され、為す術もなく帝国を解体されました。阿南陸相は、これを心配したのです。

 鈴木貫太郎総理は賛否を明らかにしませんでした。鈴木総理は東郷外相の意見に賛成でしたが、多数決で議決してしまえば後に禍根を残すと考えていました。鈴木総理の秘策は、政府と統帥部がどれだけ議論しても結論を出せないという機能不全状態を現出させ、それを一気に御聖断で決着させることでした。鈴木総理は心中秘かに重大な決断をして起立しました。

「議を尽くすこと既に数時間。なお議論はかくの如き有り様で、議なお決せず。しかも事態は瞬刻をも遷延し得ない状態となっております。かくなるうえは誠に以て畏れ多い極みではありますが、これより私が御前に出て、思し召しをお伺いし、聖慮を以て、本会議の決定と致したいと存じます」

 鈴木総理は玉座のおそばに進み出て、天皇の御言葉を秘かに自分の耳だけに賜ろうとしました。昭和天皇は頷き、何も仰せられず、鈴木総理に自席へ戻るよう促されました。鈴木総理が席に着くと、天皇は出席者七名の顔をゆっくりと見渡されました。

「もう意見は出つくしたか」

 誰も声を出さず、下を向いて沈黙し、陛下の御言葉を待ちました。

「それでは自分が意見を言うが、自分は外務大臣の意見に賛成する」


 梅津美治郎参謀総長が参謀本部に戻ったのは八月十日午前三時頃です。参謀本部では参謀次長河辺虎四郎中将が待っていました。長丁場の最高戦争指導会議に梅津大将は疲れ切っていましたが、御前会議の緊張がなお続いており、目が冴えました。梅津大将は河辺中将に語ります。

「聖断は下された。陛下は、今後の作戦に期待を持たれぬと仰せられた。計画に実行が伴っていないと仰せられたのだ。また陛下は、国民が悲惨な戦禍に曝され、日本文化が破壊されていくのを座視するのは、もうこれ以上は忍び得ぬと仰せられた。それ故に、この際、ポツダム宣言を受諾する御決意であることを御明示なされた。陛下のお気持ちは、昨日今日の会議論争の帰結ではない。すでに相当の以前から、軍の作戦に対してご期待を持てなくなっておられ、軍に対するご信頼を失っておられたのだ。軍に職を奉ずる者として、なんとも痛嘆の限りである。しかも御前にあった海陸の将相、誰ひとりとして『必勝の見込みがございます』とは申し上げられなかったのだ。御前での会議中、阿南陸軍大臣は、本土決戦を一回だけでもやらせて欲しいと意見した。これに対して東郷外務大臣が勝算の有無を問うた。当然の質問だ。阿南大臣が何と返答したと思うか。実に苦しげに『いや絶対に勝つということは今ここでは断言できません。しかし、戦争というものは死中に活を求めるものである。必勝とは申し上げられませんが、必敗と断じる道理もございません』と答えたのだ。なんと不確実な表現か。しかし、それが軍の現実だ。わしとて何も言えなかった。今日までわしは継戦の意に燃えつつ、自らを鼓舞してきたが、必勝の確算ありやなしやと問われれば、その返答は、自分を偽らぬ限り、阿南大臣と同じだ。阿南大臣も、あのように言うしかなかったのだ」

 梅津大将の慨嘆は、この時代の職業軍人にしかわからないものかも知れません。なにしろ帝国陸海軍は明治健軍以来、天皇の御期待に応え続けてきました。昭和に入り、数度の不祥事はあったものの、そのたびに粛軍の先頭に立ってきたのが梅津美治郎です。しかし、その努力も虚しくなりました。明治以来、営々と守り抜いてきた国家の独立がついに失われる時が来たのです。

 聖断が下ると、その日のうちに外務省はポツダム宣言受諾を連合国に打電しました。陸軍省では阿南惟幾陸相が主要幹部を集めてポツダム宣言受諾の経緯を説明し、訓示しました。

「敢えて反対の行動に出ようとする者は、まず阿南を斬れ」

 

 降服という、帝国軍人にとって最大の恥辱に直面し、参謀次長河辺虎四郎中将は気の抜けたビールのようになってこの日を過ごしました。河辺参謀次長の執務室には入れ替わり立ち替わり人が来ては意見を言い、帰っていきました。

「甘い、甘い。これらの人々は、日本が今どんな事態に入っているかを知らぬ」

 この日の感慨を河辺中将は日誌に書きました。降伏したくない、たとえ殺されても参ったとは言いたくない、そういう感情が河辺中将にもあります。河辺中将は敗戦国の悲境を知っています。

「彼らはまだ知らぬ。亡国史を知らぬが故に亡国の惨状を認識せず、毛唐白人の根底的なる残虐性を知らぬ故に、何とか理屈を言えば先方は許してくれると思っている。我々は全面的降伏を知らぬ。全面的降伏とはいかなることであるかを知らぬ。今まで幸福なりし国民よ。その末路は・・・」

 日本を亡国の惨状から救うためにこそ帝国陸海軍は戦ってきたのです。しかし、戦勢、利あらず、です。河辺中将は無知な同胞を憐れむように日誌に書いています。

「彼らは知らぬ。真に亡国の実相がこれから日に月に現れてくることを。死んでしまった人は幸福な人々なり」

 河辺中将は、戦後日本に起こってくる事態を驚くほど正確に予測しています。

「領土は三、四世紀と変わらぬ状態に入らん。民族の純血は急速度に衰微するならん。武士道の撲滅策を蒙るならん。耶蘇教信者が急速に殖えるならん。アメリカ語が急速に用いらるるに至らん。家々に刀の保存も絶禁せらるるならん。国家のための献身などという気持ちは棄てよと教えらるるならん。自殺の罪悪性を教えらるるならん。日本歴史の内容は根底より改竄せらるるならん。西洋文化のありがたさを極度に教え込まるるならん。日本の英雄や忠臣らは抹殺せられん」

 昭和二十年八月十一日の段階で河辺虎四郎中将は見事なまでに占領政策の本質と戦後日本の行く末を言い当てています。


 連合国側からの回答はサンフランシスコ放送で発表されました。これを日本側が傍受したのは八月十二日です。これでは秘密も何もあったものではありません。その中の一文が陸海軍を激怒させました。

「天皇及び日本国政府は連合軍司令官に隷属する」

 政府はともかく天皇が隷属するとは何事か。国体の危機である。激昂した陸軍将校が頻繁に梅津参謀総長に面会を求めてやってきました。

「参謀本部の将校は閣下の命令に従う。総長が右と言えば右に、左と言えば左に向かう」

 これは服従の言葉ではありません。陸軍による組織的クーデターの実行を言外に要求しているのです。もちろん梅津大将は、この無謀な要求を峻拒しました。しかし、陸軍を沈静化させる必要を感じました。

 梅津参謀総長は阿南陸軍大臣と共に参内し、ポツダム宣言受諾を撤回なされるよう奏上しました。「隷属する」などと言われては、国体護持の保証がありません。だから反対したのです。

「まだ正式回答は日本政府にとどいておらぬ」

 昭和天皇はおだやかにふたりの将軍をおたしなめになりました。しかし、連合国からの回答文は日本の国論を再沸騰させました。陸海軍ばかりでなく、平沼騏一郎枢密院議長も連合国側の回答に難色を示しました。

「日本国の政治形態は国民の自由に表現された意思によるものとす」

 この一文を平沼枢相は問題視しました。天皇大権は、そもそも古来より存在していたものであり、憲法だの国民の合意だのといったものより前に確立していたものです。国家の成り立ちが日本とアメリカではまったく違うのです。だから、平沼枢相が懸念を抱いたのも無理はありません。

 六巨頭に平沼枢相を加えた秘密会議が午後三時から始まりました。「国体護持について連合国に再確認すべし」と主張したのは阿南陸相です。「その必要なし」と応じたのは東郷外相です。論争になりました。しかし、議論は決着しませんでした。結局、連合国側からの正式回答を待って会議を再開することになりました。


 連合国からの正式回答は八月十三日未明に日本政府に届きました。これをうけて午前九時から最高戦争指導会議秘密会が再開されました。再び阿南陸相と東郷外相との応酬になりました。問題は、外交文書内の字句の解釈です。

「専門家である外務大臣の解釈になぜ任せられないのですか」

 鈴木総理は阿南陸相を諭しました。しかし、阿南陸相は断じて納得しませんでした。終日の論議にもかかわらず結論はでません。鈴木総理はやむなく参内し、会議の模様をお伝えしました。そして、事態打開のため天皇のお召しによる特別御前会議を開催してくださるようお願い申し上げました。昭和天皇は快諾されました。

 翌十四日、梅津美治郎大将は午前七時頃に登庁しました。すると間もなく、参謀総長室に阿南陸相と軍事課長荒尾興功大佐が訪ねてきました。驚くべきことながら、ふたりの用件はクーデター計画への同意でした。

「本日十時、決行するにつき、参謀総長の同意を求む」

 荒尾大佐が計画を説明しました。梅津大将はおおいに驚き、阿南陸相の顔を見ました。阿南陸相の立場は相当に苦しい様子です。なんとかして陸軍の暴発を防ごうとしているのですが、過激な一部の将校を説得しきれないようでした。荒尾大佐の話を能面のように聞き終えた梅津大将は、ハッキリと言いました。

「宮城内に兵を動かすとは何事か。昭和十一年の叛乱事件を裁いたのは、この梅津である。大命なくんば動かず」

 すると、意外にも荒尾大佐はあっさり折れて帰って行きました。阿南陸相もホッとした表情を一瞬だけみせました。この日の陸軍省軍事課の日誌には「茲ニ於テ計画崩レ、万事去ル」とあります。

 その後、梅津参謀総長は、予定されていた臨時閣議に出席するため総理官邸に向かいました。すると、突然の御召しです。午前十時半、特別御前会議が始まりました。内閣の全閣僚、参謀総長、軍令部総長、諸機関長、総合計画局長官、陸海軍省軍務局長らが出席しています。昭和天皇は、ポツダム宣言受諾に反対している梅津参謀総長、豊田軍令部総長、阿南陸軍大臣の意見を丁寧にお聞きになりました。そして、ポツダム宣言を受諾するよう、再度の御聖断をお降しになりました。このときの天皇陛下の御言葉を梅津大将は記憶し、後刻、最高戦争指導会議の書類綴の中に書き残しました。

「自分の非常の決意には変わりない。内外の情勢、国内の情態、彼我国力戦力より判断して軽々に考えたものではない。国体については敵も認めていると思う。毛頭不安なし。敵の保障占領に関しては一抹の不安がないでもないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなる。即ち、元も子もなくなる。いま停戦せば、将来発展の根基は残る。武装解除は堪え得ないが国家と国民の幸福のためには明治大帝が三国干渉に対すると同様の気持ちでやらねばならぬ。どうか賛成してくれ。陸海軍の統制も困難があろう。自分自らラジオ放送してもよろしい。速やかに詔書を出してこの心持ちを伝えよ」

 梅津美治郎が生涯に唯一書き記したメモでした。


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