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北辺の静謐

 昭和十六年六月二十二日は日曜日でしたが、関東軍情報参謀の甲谷悦雄中佐は残務処理のため出勤し、参謀部第二課の参謀室で執務していました。静かな庁内に電話が鳴ります。電話は、満州国通信社の顔見知りの記者からでした。

「独ソが開戦したという情報が入っています。本当でしょうか」

「何、いや、待て」

 甲谷中佐には初耳です。もし本当なら一大事です。しかし、関東軍司令部はヒッソリしています。参謀本部からも電報は入っていません。

「少し待て」

 甲谷悦雄中佐は電話を切り、確認のため参謀本部に電話しました。

「まだ公電はないが、事実らしい」

 との返事でした。日本にとって、そして関東軍にとって一大事が起こりました。ドイツとソビエト連邦が開戦したのです。ドイツと同盟関係にある日本はどうするのか、そしてソ満国境を挟んで極東ソ連軍と対峙している関東軍はどうするのか。

 関東軍司令官梅津美治郎大将は最前線兵団視察のため不在でした。参謀長吉本貞一中将もハルピン出張中です。指示を仰ぐべき第一課長、第二課長、第三課長までそろって出張中でした。今この瞬間、関東軍司令部の最先任将校は甲谷悦雄中佐です。独断専行せねばなりません。甲谷中佐は関参電二号を発令しました。「関参電」とは関東軍参謀長の指示電報という意味です。

「独ソは開戦した。第一線各兵団、各機関は慎重に行動してソ連領内のソ連軍の動向を厳重に監視せよ」

 関東軍の各部隊には一縷の乱れも生じませんでした。梅津美治郎関東軍司令官の粛軍は見事な成果を収めたといってよいでしょう。これがもし、ノモンハン事件当時の関東軍司令部だったらどうでしょう。甲谷中佐の立場に辻政信が居たとしたら何事かを画策したかもしれません。

 ともかく関東軍は独ソ開戦という事態に冷静に対処しました。緊急措置の発信を終えた甲谷中佐は情報参謀として関東軍の情勢判断を起案し始めました。独ソ戦の趨勢を予想するとともに関東軍のとるべき戦略を案出し、それを参謀本部に具申するのです。

(果たしてドイツは勝てるのか)

 なにしろ独ソ戦は始まったばかりで予断を許しません。おそらくドイツ軍は電撃作戦を採用して進撃するでしょう。しかし、ソ連は広大な大陸国家であり、縦深的な防衛戦略をとって反撃するでしょう。焦土作戦です。たとえモスクワが陥落しても、スターリンが敗北を認めぬ限り、戦いは続くと予想されます。

「独ソ戦は長期戦となる公算大なり」

 甲谷中佐は下書き用紙に書きました。では、関東軍はどうすべきか。これが問題です。この時期、日ソ双方の極東兵力はソ連軍が三十個師団、日本軍が十二個師団です。この戦力で極東ソ連軍を屈服させるのは困難です。また、援軍も期待できません。なにしろ陸軍の大部分が支那事変に投入されているのです。下手に動いて日ソ戦を長期化させたら、陸軍は北と南で泥沼の持久戦を戦う羽目に陥ります。そうなったら目も当てられません。

「関東軍の現有戦力のみでは極東ソ連軍に対する速戦即決は困難」

 甲谷中佐は書きました。加えて日ソ間には不可侵条約があります。この条約を一方的に破棄するのは国際信義に(もと)(もと)ります。

「対ソ開戦の大義名分なし」

 さらに書き足しました。もし対ソ開戦した場合、すでに対独宣戦している英国を敵に回すことになります。関係が悪化している米国までが英国に追随して参戦する可能性が出てきます。

「対ソ開戦せば、英、米、支が敵となる算大なり」

 以上の情勢判断から、日本軍からする対ソ開戦は避けるべきである、と甲谷中佐は考えました。さらに甲谷中佐は考えます。ソ連側から関東軍に挑戦してくる可能性についてです。

(ロシア人は二正面作戦をしない。よって、その可能性は低い)

 そう考えた甲谷中佐は、さらに下書き用紙に書き加えます。

「関東軍は秘かに応急戦備を整える一方、対ソ刺激を避けて慎重に行動し、極東ソ連軍の動向を厳重に監視すること肝要なり」

 日本にとって最も好ましい展開は、ドイツ軍の攻撃が成功し、極東ソ連軍が欧州方面へと移動していき、さらにソ連が敗北することです。そうなれば日本は難なく沿海州を制圧し得、北方の脅威を退けることができます。

「もしソ連が崩壊するなら、そうなってから極東ソ連領を処理しても遅くはない」

 甲谷悦雄情報参謀の情勢判断は後世の批判に耐えうるでしょう。甲谷参謀は下書きメモを骨格にしながら文章を組み立て、夜遅くまでかけて起案書を清書しました。

 翌朝、参謀長の承認を得て、甲谷参謀は軍司令官室に向かいました。だだっ広い軍司令官室にただひとり、梅津軍司令官が座っていました。大きな机の上には赤鉛筆が一本置かれているばかりです。梅津軍司令官は起案書を読み始めます。甲谷参謀は三歩下がって直立不動の姿勢をとっています。起案書の頁をめくる音だけが聞こえます。梅津は二度まで読んだ後、黙って赤鉛筆を取り上げて花押を書き、言いました。

「これは重要な情勢判断であるから、急いで大本営に届けるように」

 政府および大本営には北進論を主張する声もありましたが、結局、静観することとなりました。これは常識的な判断だったといえるでしょう。支那事変にさえ決着を付けられぬ陸軍が、さらに対ソ開戦するなど暴挙でしかありません。

 政府及び大本営は新情勢に対応するため「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を昭和十六年七月二日の御前会議で決定しました。このうち関東軍に直接関係する項目を挙げれば次のとおりです。

「独ソ戦に介入せず。密かに対ソ戦備を整備して、周密なる外交交渉を進め、独ソ戦の推移、帝国のため有利に進展せば、武力を行使して北方問題を解決、北辺の安定を確保す」

 この国策決定にしたがって満洲への戦力集中が下命されたのは七月七日です。関東軍特殊演習の名で実施された戦力大集中は、満洲と朝鮮に十六個師団を常置させる態勢を構築するものです。師団数はさほど増えませんが、兵員数は二十九万人から八十五万人へと大増勢します。この大移動を昭和十六年中に完成させる計画です。

 関東軍司令部は超多忙となりました。なにしろ五十万以上の兵員を新規に受け容れるのです。将兵たちの衣食住を賄うだけでも気の遠くなるような物資が必要になります。しかも、対ソ戦に備えた臨戦態勢を整えねばならず、指揮命令系統、組織編成、配置、後方輸送、築城、道路、鉄道、通信、武器弾薬、車輌器材、燃料、糧秣、衛生材料、建築など、関東軍の再編成といってよいほどの大作業です。

 日本陸軍はじまって以来の大移動は、関東軍司令部だけでは手に負えません。そこで満州国政府に対して数々の協力要請が行われました。満洲国政府は関東軍の要請によく応えましたが、時に関東軍側の要望が常軌を逸する場合がありました。この点について、梅津軍司令官は会議の席上、しばしば注意を発しました。

「自分は関東軍司令官であると同時に駐満大使である。たとえ作戦上の要求としても、満洲国の健全なる育成のためには、その要求を抑えねばならぬこともある」


 関東軍特種演習が進行中の八月二日夜、関東軍司令部と参謀本部は極度に緊張していました。関東軍の特殊情報部が極東ソ連軍の異変を察知したからです。特殊情報部は通信諜報の専門機関であり、無線通信の傍受、解読、方向探知などを主要任務としています。通常ならば頻繁に傍受できるはずのソ連軍の無線通信がパタリと途絶えて傍受できなくなりました。異常事態です。軍隊が作戦を発起する際には、しばしば行動を秘匿するために無線封止を実施することがあります。

「ソ連軍は東部国境方面の無線を封止せり」

 関東軍情報参謀の甲谷悦雄中佐は直通秘密電話で参謀本部に緊急報告しました。ソ連軍が対日攻勢を企図している可能性がありました。関東軍司令部には参謀が集まり、あらゆる可能性を検討しました。この日の昼間まで向地視察や航空偵察、その他の諜報に目立った動きはありませんでした。ソ連軍は夜間のうちに軍隊を移動させ、作戦を発起する意図なのかもしれません。万一、ソ連軍が満洲に対して攻勢作戦をとるとすれば、まず航空攻撃によって関東軍主力に打撃を与え、要塞砲の援護射撃の下、歩兵部隊と機甲部隊を前進させてくるに違いありません。梅津美治郎軍司令官は参謀本部に打電しました。

「敵の大挙空襲ある時は中央に連絡するも、時機を失する時は独断進攻すべきことあるを期す。予め承認を乞う」

 慎重かつ果断な梅津らしい電文です。ソ連軍の空襲が始まったら、宣戦の詔勅を待っている暇はありません。関東軍の航空部隊を発進させてソ連軍基地を爆撃するというのです。杉山元参謀総長からの返電は次のとおりでした。

「国境内に反撃を止むることを原則とす。中央は関東軍が慎重なる行動を取らるべきを期待しあり」

 曖昧な返事ですが、越境するなと言うのです。これでは梅津軍司令官は動きがとれません。その後、参謀本部は関東軍を放置しませんでした。宣戦布告前に関東軍が実施する航空攻撃を正当化してやるため、参謀本部は大本営政府連絡会議にこの件を提議しました。

「ソ連軍が満洲に侵攻を開始したら、関東軍は宣戦布告を待たずに反撃することもある」

 議論になりました。当初、近衛総理と海軍は反対しました。陸軍の暴走を疑ったのです。二・二六事件、支那事変、ノモンハン事件と相次ぐ失態に陸軍の信用は低下していました。

「梅津美治郎軍司令官に限って間違いはない」

 最後は梅津美治郎の信用力がものを言いました。八月六日の大本営政府連絡会議において決められた対ソ方針は次のとおりです。

「ソ側の真面目なる進攻に対しては防衛上機を失せず之に応戦す」

 この新方針に基づき関東軍には次の奉勅命令が発せられました。

「関東軍司令官はソ軍の航空部隊の真面目なる進攻を受くるにあたり、状況やむを得ざる時は現任務達成のため、航空部隊を以てソ領内に進攻することを得」

 関東軍はようやく越境航空攻撃の法的根拠を得ました。この四日間、関東軍司令部も参謀本部も緊張の連続です。参謀たちは一睡もできません。しかし、この極度の緊張状態は杞憂に終わりました。ソ連軍の無線封止と思われたものは、電離層の異常による通信障害だったと判明したのです。


 大量の兵力を満洲に集中し、対ソ戦術や戦略輸送などの演習を繰り返した関東軍特種演習は八月七日に中止となりました。この間、日本の国策は「南北準備陣」から「北守南進」へと変更されました。

 その契機となったのはアメリカ政府による対日石油輸出禁止措置です。昭和十五年七月以来、アメリカは対日輸出制限措置を徐々に強化してきていましたが、昭和十六年八月一日、ついに石油の輸出禁止に踏み切ったのです。

 この間、日本政府は黙って見ていたわけではありません。中東、メキシコ、北樺太、蘭印などからの石油確保を模索し続けました。しかし、成果はありませんでした。英米の石油メジャーの支配は世界中の油田に及んでいました。日米交渉も進展しませんでした。

「石油がなくなる」

 もはや対ソ戦の好機を窺っているような余裕はあありませんでした。日本の存立そのものが危機に陥りました。石油がなくなれば軍艦も輸送船も飛行機も戦車も自動車も動かないのです。民間産業の動燃機関も動かなくなります。日本は石油文明から石炭文明へと退化せねばなりません。明治に帰るのです。国力も軍事力も衰退せざるを得ません。弱体化した日本はどうなるか。欧米列強に対する抵抗力を失えば、帝国主義世界の原則によって日本はいずれかの強国の属国ないしは植民地となるでしょう。幕末以来、守り通してきた日本の独立が失われるのを帝国陸海軍が看過できるはずはなく、帝国議会や政府とて同じでした。

 昭和十六年八月九日、陸軍は年内の対ソ武力行使を実施しないと決め、主攻方面を南方に向けるという方針を固めました。

「対ソ防衛警戒をますます厳ならしむると共に、南方に対し十一月末を目標として対英米作戦準備を促進する」

 すでに前年から出師準備を実施していた海軍は、出師準備第二着を発動するとともに「帝国国策遂行要領(陸海軍案)」に合意しました。

「帝国は自存自衛を全うするため対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね十月下旬を目途として戦争準備を完整す」

 この文言には何の誇張もありません。この帝国国策遂行要領は九月六日の御前会議によって正式決定されました。ここにおいて関東軍司令官梅津美治郎大将の任務も確定しました。北辺の静謐(せいひつ)を守り、帝国陸海軍部隊をして後顧の憂いなく南方作戦を準備、実施せしめることです。大東亜戦争における梅津美治郎大将の役割は、目立たぬものでした。とはいえ、満洲の安定なくして対米英蘭支戦争は成立し得ず、その意味で重要な戦略的役割を担ったといえます。

 関東軍特種演習によって満洲に大集中した陸軍部隊はそのまま満洲にとどまり、関東軍司令官梅津美治郎大将の指揮下に入りました。その布陣は次のとおりです。東方正面に第三軍(二個師団)、第五軍(二個師団)、第二十軍(二個師団)の三軍が配置され、北正面には第四軍(二個師団)、西正面には第六軍(一個師団)が置かれました。このほか満洲国内の要地に五個師団が配置されました。これら十四個師団、八十万の精兵を梅津美治郎大将が統率することで、関東軍は極東ソ連軍に対して強烈な牽制を効かせました。

 極東ソ連軍にとって関東軍ほど目障りなものはなかったでしょう。なにしろ欧州戦線ではドイツ軍が快進撃し、ソ連軍は退却を続けています。昭和十六年九月九日までにドイツ北方軍はリトアニア、ラトビアを北進し、リガ、タリン、ノブゴロドなどを陥落させ、レニングラードに迫りつつあります。ドイツ中央軍は東進してミンスク、オルシャ、スモレンスクなどを陥れた後、進路を南に向けてハリコフ、キエフ、ドニプロペトロフシクなどを占領しています。ドイツ南方軍はウクライナに侵攻し、リボフ、ウマニ、オデッサなどを陥落させ、クリミア半島へと迫っています。

 スターリンとしては極東ソ連軍を欧州戦線へ抽出したいところです。しかし、関東軍の存在がある以上、迂闊なことはできません。日ソ不可侵条約があるとはいえ、この時代の条約は破るためにあるようなものです。日本は世界でも珍しいほどの条約遵守国ではありましたが、猜疑心の旺盛なスターリンは日本を疑いました。

(関東軍は北進するのか、しないのか)

 ソ連の諜報機関が大活躍したのはこのときです。露探ゾルゲは、駐日ドイツ大使オットの私的顧問という立場を利して東京で活動していました。尾崎秀実(ほつみ)を通じて帝国国策遂行要領を入手したゾルゲは、その内容を直ちにソ連へ打電しました。昭和十六年十月初旬のことです。ゾルゲのスパイ網が探知され、特高警察によって逮捕されるのはこの直後です。

 ゾルゲの活躍によって北守南進という日本の国策を知り得たスターリンは、以後、極東ソ連軍の精鋭部隊を欧州戦線に移動させます。極東から欧州へ転進した精鋭部隊は、十二月、モスクワ防衛戦でドイツ軍と戦いました。

 その様子を関東軍は把握していました。数万規模の軍隊移動は秘匿できるものではありません。ソ満国境に配置された関東軍の国境監視哨の向地視察は、軍用列車の増加や空き家になった兵舎を確認しました。

 また、毎月二回のペースでモスクワの日本大使館に派遣される外交伝書使が、シベリア鉄道を利用して欧州へ移動する大量のソビエト兵を目撃していました。じつは、この外交伝書使に予算をつけたのは次官時代の梅津美治郎でした。

 外交伝書使は、表向きは外交文書の運搬者に過ぎませんが、実質はスパイです。各分野の専門家が二名一組で行動し、ソ連領内の各種情報を持ち帰ります。そのコースは東京、新京、ハルピン、満洲里、チタ、モスクワ、ウラジオストク、チタ、満洲里、新京、東京です。すべてが鉄道の旅であり、シベリア鉄道沿線の情報を得るのに好都合でした。しかし、伝書使がスパイであることはソ連側も承知しています。そのため伝書使は常にソビエト秘密警察の監視下に置かれています。シベリア鉄道沿線の秘匿地域に近づくと秘密警察は無遠慮に伝書使の客室に入り込み、勝手に窓とカーテンを閉め、伝書使が外を覗かぬよう監視します。その傍若無人ぶりは他に例えようもありません。駅や街中で物売りや一般人と話していると、秘密警察が現れます。秘密警察は何も言わず、ただにらみつけるだけです。それでも十分に秘密警察とわかるのです。するとロシア人は誰もが表情をこわばらせて逃げ散ってしまいます。収集した情報は記憶せねばなりませんでした。メモをしても全て秘密警察に持ち去られるからです。こうした日露のスパイ合戦がシベリア鉄道では日常的に繰り返されていました。

 関東軍の諜報活動により、極東ソ連軍から大兵力が欧州へ抽出されていることが明らかとなりました。これに対して関東軍の戦力は大増強されています。

(いまこそ)

 梅津大将とて、そう思わないではありません。いまこの瞬間ならば、極東ソ連軍を圧倒し、北方問題を解決できるかも知れません。それでも関東軍は動くことができません。「北守南進」という日本の国策を狂わせるわけにはいきませんでした。日本は英米蘭支との戦争を準備しているのです。関東軍司令官に求められているのは、あくまでも北辺の静謐です。

「大命に基づかざる行動は断じてなかるべし」

 梅津大将は自らを律し、かつ麾下の全軍を統制しつづけました。


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