関東軍司令官
昭和十四年九月三日、欧州では英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。日本軍はなお支那事変の渦中にあります。
梅津美治郎中将は第一軍司令官として河北省の太原にいました。二年前に始まった支那事変は、不拡大を模索する陸軍中枢の意思に反して拡大し、今なお終息していません。北支はすでに日本軍の支配下にありましたが、共産ゲリラによる抗日事件は絶え間なく発生しています。黄河以北の治安を維持するためゲリラの根拠地を掃討するのが第一軍司令官梅津中将の任務です。
この時期の梅津美治郎中将は表情が豊かでした。秋霜烈日のごとき能面だった次官時代とは異なり、第一軍司令官としての梅津中将は春風駘蕩として、細事に拘泥せぬ温顔の将軍でした。部下に雷を落としたことはありません。次官時代の梅津は部下の起案書の隅々にまで目を配り、一字一句さえ疎かにせず、細々と赤字で添削するのを常としていました。しかし、戦場の梅津軍司令官は、参謀の起案書に添削を入れるようなことはせず、方針を口頭で伝えるのみでした。
第一軍参謀長の飯田祥二郎少将は、かつて梅津次官に仕えた経験があり、その細心周到ぶりを知っていましたから、戦々恐々として新しい軍司令官を迎えたものでした。
(あの緻密な頭脳でビシビシやられたら堪らない)
ところが軍司令官としての梅津中将は別人のようでした。広範にして中正な判断力はそのままに、小事を部下に任せてくれました。部下は伸び伸びと仕事ができます。戦後、飯田少将は「理想的将軍」とまで書いています。
次官時代の梅津美治郎は、二・二六事件後の粛軍という使命のため、極限の自己規律を自身に課していたようです。その緊張感とストレスから解放されて生のままの梅津美治郎が戦場で顔をのぞかせたようです。
九月六日、大本営参謀の島村矩康少佐が太原の第一軍司令部に来訪しました。梅津美治郎中将が関東軍司令官に親補されたことを伝達するためです。島村少佐はノモンハンの戦況と経過、今後の大本営の作戦企図について説明しました。
ノモンハン事件は、満蒙国境の紛争に端を発し、日ソ両軍の本格的軍事衝突にまで発展した事変です。日ソ両軍は広漠たるホロンバイル高原に歩兵師団、機甲師団を展開し、航空部隊を敵中深く繰り出し合って戦いました。五月以来の戦闘によって双方とも一万名を超える戦死傷者を出しています。陸軍中枢がノモンハン事件を問題視したのは、その損害の大きさもさることながら、関東軍参謀の行動に越権があったからです。服部卓四郎中佐と辻政信少佐は、中央からの再三の制止を無視し、航空部隊を発進させ、外蒙のソ軍航空基地を爆撃させました。戦争を惹起しかねない暴挙でした。関東軍司令官植田謙吉大将は寛大に過ぎ、第二十三師団長小松原道太郎中将も関東軍参謀に対して従順すぎました。ハイラルの第二十三師団司令部に乗り込んだ服部中佐と辻少佐は、小松原師団長を差し置いて指揮命令さえしたのです。本来、参謀には指揮命令権がありません。
ノモンハン事件は、支那事変に四苦八苦している日本軍を北で叩きたいというスターリンの意図から発生したものです。西安事件によって蒋介石に国共合作を強いたソビエト共産党は、蒋介石をして支那事変を惹起せしめる一方、満蒙国境ノモンハンで蒋介石支援のために紛争を意図的に発生させたのです。
ノモンハン事件は、ソ連軍による満洲領内への侵入から始まった紛争です。充分な準備のもとに大規模な軍事衝突を引き起こしたのはソ連軍でした。とはいえ、敵の挑発にのって大きな損害を発生させた関東軍にも落ち度があったと言えます。
ノモンハン事件収拾のため、参謀本部は関東軍の人事刷新を考えました。その際、参謀本部が望んだ人物像は、ソ連と事を構えず、思慮周密にして功名を焦らず、冷静沈着にして部下の言いなりにならず、確固たる信念を貫き得る将軍でした。
「梅津美治郎中将こそ」
衆目が一致しました。それまで関東軍司令官は、最古参の現役陸軍大将の定席でした。この慣例がはじめて破られ、そこに中将の梅津美治郎が任命されたのです。大抜擢といえます。
「ノモンハン事件を教訓として関東軍の任務体制全般を刷新すること」
これが梅津中将に与えられた任務です。それにしても陸軍中枢は、やることなすことすべてが後手でした。問題が発生して取り返しがつかなくなってから、梅津美治郎を責任者に任命したのです。
(また後始末か。また粛軍だな)
梅津は思いましたが、この人事に不満があるわけではありません。異例の大抜擢に静かな闘志を湧かせました。
「さっそく行こう」
梅津中将は島村少佐に言いました。
ノモンハンでは、なお戦闘が継続しています。梅津中将はまず太原から北京に向かいました。翌七日、北支那方面軍司令官杉山元大将に申告しました。翌八日、満洲国の新京へと飛びました。新京飛行場に到着したのは午後七時頃です。飛行場には関東軍の新幕僚や満州国政府要人が列立して新任の軍司令官を出迎えました。関東軍司令官は単なる軍司令官ではありません。在満大使と関東庁長官を兼ねています。軍司令官であるとともに駐満大使であり、行政長官なのです。
関東軍司令部に入った梅津美治郎軍司令官は、その夜の内にノモンハンの一般状況を参謀から聴取しました。大会議室には大凧のような大地図が広げられています。その周りに幕僚が集まり、長い竿で地名を指しながら兵棋を動かしていきます。説明者は前任の関東軍作戦参謀服部卓四郎中佐です。
翌九日、梅津軍司令官は関東軍の全部隊に対して一般訓示を発令するとともに、ハイラルの第六軍司令官荻洲立兵中将に対して攻撃中止を下令しました。第六軍はノモンハン事件に対応するため前月に編成されたばかりの部隊です。命令伝達のため関東軍司令部から参謀副長の遠藤三郎少将がノモンハンに派遣されました。
九月十日、梅津軍司令官は、第五師団長の今村均中将と対面しました。北支にあった第五師団は移動を命ぜられ、これからノモンハンに向かうところです。すでに攻撃中止命令が出されているとはいえ、油断はできません。こちらが弱みを見せれば敵の攻勢を受ける可能性があります。第五師団に与えられた任務は敵に威圧を与えて戦意を阻喪せしめることでした。今村師団長の申告を受けた梅津軍司令官は、今村師団長に訓示しました。
「第五師団はご苦労です。自分も一昨日ここに着いたばかりだ。だいたいの戦況は承知していることと思う。今回は難しい任務だが、よろしく頼みます。それにしても満洲事変時代の気分がまだ関東軍に残っていたとは残念だ。不準備な状態でソ連軍に応じ、北支方面軍にいた君の師団まで煩わすことになった。すでにモスクワでは駐ソ大使が停戦交渉に入っているはずだ。交渉が無事に成立するとよいが」
梅津軍司令官は本気で心配していました。ノモンハン事件がこのまま日ソ間の戦争へと発展したら、日本はふたつの大陸国家と戦うことになります。日本のような島国国家がソ支二大国との二正面作戦を戦えば、その結果は滅亡でしかありません。その悪夢を防止するために第五師団を投入するのです。
「万一、敵が交渉に応ぜず、攻勢を継続する場合には断固応戦する決意を示す必要がある。それでこそ相手を自重させ停戦協定の成立が実現する。第五師団は戦力を集中し、敵に大打撃を与えうる戦闘態勢を速やかに整えて欲しい」
「承知しました」
今村均中将は、第五師団の任務を十分に理解していましたが、ただ一点、気がかりなことがありました。
「先遣した連絡参謀によれば、関東軍参謀が師団指揮官を差し置いて直接命令したり、叱咤したりして、多くの損害を第一線部隊に負わせていると聞きます。もし、そのようなことが事実であり、私の師団にやって来て職掌を越えることを致しましたら、私はこれを取り押さえ軍司令部に送り届ける決意をしております。この点、ご了解いただけますか」
第二十三師団長小松原中将に欠けていたのは、この蛮勇でした。梅津軍司令官はうなずいて言います。
「関東軍の参謀はすでに多くが更迭され、そのような不届き者はもう居ないはずだが、念のためよく訓戒しておこう。万一、そのような越権行為者が現れた場合には逮捕してよい」
今村均中将率いる第五師団がノモンハンに展開する前に、モスクワでは日ソ交渉がまとまっていました。九月十六日、日ソ両国はノモンハン停戦協定に調印しました。当面の危機は回避されましたが、梅津軍司令官の仕事はこれからが本番です。
ノモンハン事件後、梅津美治郎関東軍司令官がすぐに断行したのは、国境紛争の防止措置です。満洲国の国境は実に長いものです。北朝鮮の北端にある豆満江の河口からソ満国境は始まります。国境線は北へ延びます。国境の東がソ連の沿海州、西が満洲国です。この付近にはソ連極東軍の根拠地ウラジオストク軍港があります。国境線はウスリー江に沿って北へ延び、ハバロフスクの手前で西へと折れています。以後、黒竜江の流れに沿って曲折しながら北西へと向かい、興安嶺山脈の北端を過ぎてから南へ向かいます。戦略上重要なことは、ウラジオストクからこのあたりまでソ満国境に沿うようにシベリア鉄道が走っていることです。いうまでもなくシベリア鉄道は極東ソ連軍の生命線です。やがてソ満国境はアイグン川に沿って南下し、満洲里を過ぎると満蒙国境になります。さらにホロンバイルを過ぎると満支国境です。国境線は北京の北まで南下すると東へ折れ、万里の長城に沿って東進し、山海関へと至ります。
この長大な国境線では満洲国の建国以来、日満とソ蒙の間に年間百件を超える国境紛争が発生していました。主要なものだけでも、ハルハ廟事件(昭和十年一月)、ホルステン川事件(昭和十年六月)、楊子林子事件(昭和十一年六月)、オラホドガ事件(昭和十年十二月)、タウラン事件(昭和十一年三月)、長嶺子事件(昭和十一年三月)、カンチャーズ事件(昭和十二年七月)、張鼓峰事件(昭和十三年七月)があり、そしてノモンハン事件です。
これらの国境紛争を根絶するため、梅津軍司令官は国境警備の方法を根本的に変更しました。国境に幅二十キロの緩衝地帯を設定し、同地帯に入る者を斥候兵のみに限定しました。もしソ連軍が侵入した場合には地上兵力で対応するものとし、航空戦力は使わないことにしました。これはノモンハン事件の教訓です。航空戦力を使えば必ず紛争は拡大するからです。そして、報告速達の態勢を整備し、非常の場合には各級指揮官が現場に急行して現地解決を図る態勢をとらせました。梅津軍司令官の新方針は功を奏し、以後、国境紛争はほとんど発生しなくなりました。
言うまでもありませんが、関東軍の仮想敵は極東ソ連軍です。関東軍が対ソ戦略を研究しはじめたのは昭和八年です。時の参謀本部作戦課長鈴木率道大佐を中心とする幕僚は、ソ満国境を偵察したうえで各種の検討を実施し、基本戦略を決めました。それが東部主攻勢、西部持久守勢、北部持久遊撃という戦略です。いざ日ソ開戦となった場合、東部方面の関東軍部隊は攻勢に出てソ連の沿海州を制圧します。沿海州にはウラジオストク軍港のほか、大型爆撃機の発着可能な飛行場があります。日本本土への爆撃を未然に防ぐため、日ソ開戦直後にはどうしても沿海州を占領する必要がありました。主攻目標はウラジオストク、ポシェット、イマンの三都市です。そして、この間、北部および西部の戦線では持久守勢を維持します。これが第一段階です。
沿海州を抑えたら、次に北部方面部隊が遊撃攻勢に出ます。シベリア鉄道を破壊するのです。極東ソ連軍の生命線たるシベリア鉄道はソ満国境に沿って走っています。手を伸ばせば届きそうなほどに近いのです。このシベリア鉄道を寸断し、極東ソ連軍の補給を断ってしまえば敵は自滅するしかありません。シベリアは自給自足を許さぬ不毛の大地です。シベリア鉄道の輸送さえ遮断してしまえば極東ソ連軍を兵糧攻めにできるのです。正面衝突を避けつつ、遊撃的に鉄道鉄橋を破壊し、鉄道沿いの断崖を爆破し、要塞砲や航空機で撃砕します。これが第二段階です。
この基本戦略を具現化するため、鈴木率道大佐は国境要塞の建設を決定しました。国境の戦略要地に要塞を構築し、攻勢兵力を掩護するとともに敵の攻撃を撃退し、物資を集積しておくのです。要塞構築は昭和九年から始められ、昭和十四年の時点では東部正面の八要塞、北部正面の四要塞、西部正面の一要塞がほぼ完成に近づいていました。それぞれの要塞には数千名規模の国境守備隊が配置されています。日本軍の要塞は地下式陣地であり、秘匿性と防弾性に優れていました。そして各要塞は各種の重火砲で武装されています。
もちろんソ連軍も抜かりはありません。むしろソ連軍の方が早くから要塞構築に着手していました。ソ連軍の要塞はトーチカ式陣地です。日本軍の監視哨からはソ連軍要塞がよく見えました。ソ連軍は歴史的に要塞戦を得意としています。ソ連軍の要塞群は日本軍の要塞以上に重厚です。
野戦兵力では極東ソ連軍が圧倒的に優勢です。極東ソ連軍の三十個師団に対し、日本軍は満洲の九個師団と朝鮮の二個師団、合わせて十一個師団に過ぎません。圧倒的に劣勢です。しかし、ソ連軍には特性があります。敵の三倍の兵力を備えない限り攻勢に出て来ないのです。だから十一個師団という日本側の兵力量は、満洲の静謐を保つための必要最小限の戦力だったわけです。それでも日本の国家財政にとっては大きな負担です。関東軍司令部は与えられた兵力量で満洲国の安寧を保たなければなりません。
昭和十四年十月になると、関東軍司令部は昭和十五年度対ソ作戦計画の立案作業にとりかかりました。軍司令部内の意見は割れました。基本的な対ソ戦略を維持すべきとしたのは高級参謀有末次大佐と作戦参謀島村矩康少佐です。これに対し、支那事変が継続中であることやノモンハン事件の直後であることを考慮して、東正面攻勢作戦を防勢作戦に変更すべしと主張したのは参謀長飯村穣中将と参謀次長遠藤三郎少将でした。議論のあいだ、梅津美治郎軍司令官は意見を言いませんでした。しかし、どちらかといえば防勢作戦に気持ちが傾きました。それというのも東部正面で攻勢作戦をとるためには下準備が必要です。その下準備のためには多くの将兵を緩衝地帯に入れねばなりません。これが国境紛争の原因になるという危惧がありました。梅津軍司令官は遠藤参謀次長を呼びました。
「ご苦労ですが、東京へ飛んでください。対ソ作戦計画を防勢作戦に変更してもらうよう折衝するのです。君の言うとおり、現状では攻勢作戦は難しい」
上京した遠藤三郎少将は参謀本部で作戦変更の必要を説きました。
「目下、支那事変が続いているので、この事変が解決するまでは第三国と事を構えないようにすべきである。もし対ソ作戦が起こった場合には今までのような東部方面への侵攻作戦をとらず、地形を利用した堅固な陣地による防勢作戦を実施すべきである。今の関東軍には攻勢作戦は無理である。ノモンハン事件からの建て直しが終わらぬ限り無理であります」
参謀本部側は「検討する」と回答しましたが、遠藤三郎少将の防勢作戦論は不評を買いました。日本軍には、得てして消極論が批判を招きやすいという風土がありました。また、軍人という職業柄、同僚にも勝とうとする意識が強く、口さがない中傷が絶えません。
「遠藤は消極退嬰、国軍の士気を阻喪させる恐ソ病者だ」
帝国陸海軍に蔓延した教条的積極主義です。確かに積極主義は必要です。日清、日露の戦勝は積極主義なしにはありえませんでした。しかし、積極主義が万能なわけではありません。遠藤少将は決して臆病者ではありませんでした。それなのに真摯な意見具申が曲解され、消極参謀の烙印を押されてしまいました。
十一月中旬、参謀本部から作戦課長岡田重一大佐、今岡豊少佐、今泉金吾少佐が来満し、関東軍司令部で会議に臨みました。議題は対ソ作戦です。参謀本部は従来の基本方針を堅持すべきだと主張しました。その理由として、沿海州から本土への航空攻撃をどうしても防ぐ必要があること、そして、数年来の攻勢作戦準備が無駄になるから作戦変更は不経済であることでした。確かに作戦が攻勢から防勢に変われば、要塞、道路、鉄道、兵站、通信などの諸施設を根本からやり直さねばなりません。
「しかし、南に支那事変を抱えながらの対ソ戦などあり得ない。攻勢作戦は防勢作戦とすべきです」
関東軍の飯村参謀長と遠藤参謀次長は持論を展開して反論しました。双方、意見の応酬となり、結論は出ません。
「さらに研究するように」
梅津美治郎軍司令官は結論を急がず、保留しました。参謀本部の三参謀は同意を得られぬまま東京に帰りました。その後、議論の決着をみないままに十二月となりました。
「作戦計画訓令は決裁済み」
十二月六日、参謀本部から関東軍司令部に突然の電報があり、さらに水町勝城大尉が説明のため関東軍司令部に派遣されてきました。昭和十五年度対ソ作戦計画は従来どおりの東正面主攻作戦とされました。梅津軍司令官は温和しく従ったものの、内心は不満です。
昭和十五年三月、参謀本部から総務部長の神田正種少将が関東軍司令部に来訪しました。新年度の人事案を通達するためです。
「関東軍司令部を総司令部の編成とすることになっておりますので、参謀長および参謀副長に古参の人を充てることに致します。まず遠藤少将に変わってもらいます。後任は秦彦三郎少将です」
遠藤少将は防勢作戦を主張したことが災いし、関東軍在任わずか半年での異動となりました。しかも転出先は浜松飛行学校付という閑職です。
「それは決定されたのか」
梅津軍司令官の声はいつになく怒気を含んでいます。神田少将は答えません。
「それは決定されたことか」
梅津軍司令官は重ねて問いました。
「はい、御内奏ずみです」
「御内奏ずみなら何も言わぬ」
梅津軍司令官は黙りました。座は白けました。神田少将が関東軍司令部を去ると、梅津軍司令官は、参謀本部に対して遠藤少将を留任させるよう盛んに交渉しました。しかし、実りませんでした。梅津中将は遠藤少将を呼び、正直に言いました。
「君を他所にやるのは僕の本意ではないのだが」
遠藤三郎少将は惜しまれつつ満洲を去りました。
関東軍司令官梅津美治郎中将の日常は多忙です。司令部に居る日は、報告聴取、会議、書類閲読、決裁、来客応接などを休みなくこなしています。なにしろ在満日本大使と関東庁長官を兼ねているので来客は絶えることなくつづき、書類は山のように積み上がります。軍務、外務、政務を一身に引き受けているのです。
梅津中将は、軍人軍属による民間人への横暴や暴行を許さぬよう指示し、質の悪い輩を見つけると容赦なく人事処分しました。日満議定書により、関東軍は満洲国政府に対して内面指導することが決められていました。この内面指導が問題でした。梅津中将は、内面指導に当たる監督官を慎重に人選しました。不心得者の心ない一言によって満洲国政府の名誉を傷つけたら、満洲国の人心が日本から離れてしまいます。
内面指導は企業にも及んでいました。ある企業に監督官として派遣された陸軍少佐は実に傲慢な男でした。経営も技術も営業もわからぬくせに経営方針に難癖をつけ、小馬鹿にし続けました。この情報を耳にした梅津中将は、この少佐を国境の斥候隊へ異動させました。そして梅津中将自身、満州国皇帝溥儀に対面するときは儀礼に細心の注意を払い、最大限の敬意を表しました。
梅津中将は、自分の周辺から虚飾をはぎ取ろうとしました。それまで関東軍司令官の移動は仰々しいものでした。物々しい警備がつき、秘書官や副官や各種の属官がとり囲み、まるで大名行列です。それを梅津中将はやめさせ、随行は秘書官一名に限りました。
「守衛の数を減ぜよ。治安は良好である。官邸を警戒する必要はない」
「私に防空壕は不要である」
「後駆を廃せ。関東軍司令官が強いて威容を整える必要はない」
後駆とは護衛用のサイドカー付きオートバイのことです。
梅津中将は、国境警備の現場視察や後方師団の巡察を励行しました。ソ満国境には点々と監視哨が置かれています。向地視察のためです。ソ連領を見通せる高地に十数メートルもある望楼を設置し、その望楼上から倍率百倍の望遠鏡で敵情を視察しています。港湾、鉄道、兵舎、工場、要塞、軍事訓練の様子から、一般住宅の煙突の煙や空き家の入居状況まで視察します。レンズを曇らせないため望台は真冬でも吹きさらしです。人里離れた原野にポツンと置かれた監視哨で、向地視察班の十名は一ヶ月ものあいだ、ひたすら単調な監視任務に当たらねばなりません。望遠鏡を覗いても滅多に変化はなく、退屈といえば退屈な任務です。出入港する船舶や通過列車の数を算え、空き家だったはずの人家に煙が立ったとか、何時頃に砲声がしたとか、ごく微細な情報を積み上げていきます。最前線といってよいこの場所に梅津中将は機会あるごとに必ず立ち寄りました。視察中の梅津中将は必ず酒を差し入れ、兵卒と同じ食事をとり、時間の許す限りひとりひとりに声をかけました。
師団巡察の際には、演練もさることながら、兵舎の居住環境や衛生環境をよく観察しました。不備を見つければ、そこを直させます。演習時には早朝から深夜まで天幕内に陣取り、将兵とともに露営しました。病院には必ず立ち寄り、傷病兵をひとりひとり見舞いました。梅津中将の粛軍は徐々に関東軍に浸透していきました。
昭和十五年八月一日、梅津美治郎は陸軍大将に昇格しました。
「軍人は大将を以て最高の栄誉とすべし」
常々そう言い、政治への接近を自制し続けてきた梅津です。感慨無量であったに違いありません。梅津大将の指揮により関東軍は粛々と統率され、満洲国の平穏は守られています。
しかし、世界はすでに変動期に入っていました。欧州ではドイツ軍がフランスを降伏させ、英本土上陸を模索しています。また、昭和十五年一月にアメリカが日米通商航海条約を一方的に廃棄したため、日米関係が急速に悪化していました。アメリカによる対日禁輸措置が始まり、日米の海軍は建艦に邁進しています。日本政府は、やむなく昭和十五年九月に日独伊三国条約を成立させました。こうした世界情勢の変化を梅津美治郎は満洲から眺めるほかありませんでした。