支那事変
昭和十一年十二月、西安で事件が起こりました。国民党総裁の蒋介石がソビエト・コミンテルンに軟禁されたのです。蒋介石は、コミンテルンに通じた張学良によって欺かれたのです。このとき中国共産党の毛沢東は、蒋介石を殺すようスターリンに進言しました。しかし、スターリンはこれを黙殺し、「生かして利用せよ」と命じました。日支を相争わせ漁夫の利を得るためです。こうして国共合作が成立し、以後、蒋介石は日本を第一の敵として挑戦しはじめます。
年が明けると北支は抗日運動の坩堝と化しました。日貨排斥、邦人に対する強奪暴行、邦人企業に対するデモと略奪、親日支那人の殺害、支那新聞各紙による排日侮日煽動記事の掲載等々です。その惨状を支那駐屯軍は陸軍中央へ詳細に報告しました。事態を憂慮した参謀本部は、昭和十二年三月、支那派遣軍参謀と南京駐在武官を東京に招致して現状を聴取しました。六月には参謀本部から視察団を派遣し、支那情勢を巡視させました。その結果わかったことは、蒋介石の抗日姿勢が極めて強硬であること、そして、その背後には英米独ソなどからの軍事援助があること、蒋介石の直轄師団は最新装備を調えた精強師団であること、共産勢力が支那内部に広く浸透していることなどでした。
陸軍中枢の意見は割れました。参謀本部作戦課長武藤章大佐や陸軍省軍事課長田中新一大佐は対支強硬論を唱えました。
「一撃すれば蒋介石政権は倒れる」
これに対し、参謀本部作戦部長石原完爾少将や陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐は慎重論を主張しました。
「支那と事を構えれば百害あるのみ、支那など蒋介石にくれてやれ」
石原少将は果断な発言をしました。支那との戦争は長期化し、日本の国力を疲弊させるから、いっそ支那など棄ててしまう方が良いというのです。そして、引き揚げてきた邦人や邦人企業の損害を政府が補償する。そして、満支国境を堅く防備し、満洲経営に全力を注入する。これが石原少将の持論です。
歴史の結果から見れば、石原案が正しかったと言えるでしょう。しかし、石原少将の支那放棄案は当時としてはあまりに突飛であり、果断に過ぎました。支那大陸の日本権益は、棄てるにはあまりに巨大になり過ぎていました。結局、政情不安定な隣国に不用意に国民を移住させ、企業を進出させ、権益を拡大させた国策に誤りがあったと言うほかありません。そして、そのツケを帝国陸軍が支払うことになったのです。
昭和十二年七月八日午前、梅津美治郎次官は定例の課長会議に出席していました。暑い日でした。そこへ緊急の情報が入ります。
「昨夜、盧溝橋付近にて日支両軍が衝突」
以後、続報が相次ぎます。
(厄介なことだ)
支那駐屯軍司令官を務めた経験のある梅津美治郎には、北支の情勢の厄介さがよくわかりました。梅津美治郎は、昭和九年から翌年にかけて支那駐屯軍司令官として北支にありましたが、当時すでに排日運動が活発でした。梅津は、支那軍閥の何応欽と協定を結ぶなどして事態の沈静化を図りましたが、支那側から協定を反故にされるなど、幾度も煮え湯を呑まされました。支那大陸では協定が意味をなさないのです。
盧溝橋事件の発生をうけて、陸軍省と参謀本部はそれぞれ対策を検討しました。省部の意見は期せずして一致しました。不拡大、現地解決です。同日午後六時、閑院宮参謀総長から支那派遣軍司令官に指示命令が発信されました。
「事件の拡大を防止するため、さらに進んで兵力を行使することを避くべし」
七月十日、幸いなことに現地では日支両軍の間に協定が成立しました。これで陸軍中枢はひと安心します。しかし、参謀本部内では強硬派の作戦課長武藤章大佐らが北支増派を起案して作戦部長石原完爾少将に決裁を迫っていました。その内容は、内地三個師団、朝鮮軍一個師団、関東軍一個師団、合計五個師団を北支に派遣するというものです。
「まだ油断はできません。なにしろ支那駐屯軍の兵力はわずか二千です。あの広大な北支にわずか二千です。支那軍は百万を下らぬ兵力を有しています。事態悪化を未然に防ぐためにも増派が必要です」
確かにもっともな意見です。しかし、慎重な石原少将は反対しました。
「現地で協定が成立している。必要はないだろう」
武藤大佐は納得せず、強硬にねじ込みます。
「邦人を保護せずして何のための陸軍ですか」
これも正論です。わずか二千の支那駐屯軍では、邦人保護ができません。やむなく石原少将は増派に賛同しました。参謀本部の増派案は陸軍省に伝えられました。陸軍次官梅津美治郎中将は、増派の主旨には賛同しつつも、全面増派には反対しました。
「今すぐ三個師団を内地から派遣するのは、国際関係悪化の誘因になりかねない。北支情勢はいまだ判明しないから、まず関東軍と朝鮮軍から特別編成の旅団を出し、しばらく様子をみるべきである」
この案件は閣議で審議され、関東軍及び朝鮮軍からの一部派兵、内地よりの航空部隊派遣が決められました。抑制的な派兵規模だったといえます。
中国共産党と中国国民党による執拗かつ暴戻な排日侮日運動に対する日本陸軍の対応は理性的であり、かつ抑制的でした。現地の支那駐屯軍も自重して現地協定を成立させました。この協定を日支双方の部隊が守りさえすれば、支那事変は起こり得ませんでした。しかし、この現地協定は、従前どおり、支那軍によって破られます。
支那軍というより、支那軍内部に浸透した共産匪賊です。七月十三日、支那軍は移動中の日本軍車列に銃撃を加えました。日本軍は応戦しましたが、戦死三名を出しました。支那軍は協定で決められた撤退条件を無視して前進し、豊台を包囲しました。また永定門の近くで北寧線のレールを爆破しました。
七月十四日、支那軍は平漢線を使って北上し、永定河右岸に陣地構築を開始しました。これらの行動は、すべて協定違反です。さらに馬村南方八キロ付近において日本軍連絡兵六名が銃撃され、戦死一名、負傷一名が出ました。七月十六日には、通州南方三十キロ付近にて日本軍部隊が銃撃を受けました。日本軍は直ちに応戦し、支那兵を武装解除しました。
こうした支那軍の絶えざる挑発行為は陸軍内の支那一撃論者にとって追い風となりました。さらに七月十九日、国民党総裁の蒋介石が強硬な対日声明を発表したため、ますます対支強硬論が勢いを得ました。蒋介石の声明は次のとおりです。
「東北四省を喪失して以来ここに六カ年、次いで塘沽協定あり、次いで今や争点は盧溝橋事件においてまさに北平の城内に到達した。もし盧溝橋が武力によって占拠されるのを容認するならば、中国四千年の故郷、全北方の政治的、文化的、戦略的中心が失われるのである。今日の北平は第二の奉天となり、河北、チャハル両省は東北四省と同一の運命に陥るであろう。万一、北平が第二の奉天となるならば南京が第二の北平となるを如何にして阻止することができよう。かかるが故に盧溝橋を保全するか否かは、全国民存亡のかかるところに外ならず、今回の事件が果たして平和解決できるか否かは、我らのいわゆる隠忍自重の限界に関する問題に外ならぬ。もし最悪の事態を避けることができぬ段階に到達するならば、我々は断然抗争する外はなく、かつ最後の犠牲をも敢えて辞せないものである」
文中、北平とは北京のことです。蒋介石の名演説、というよりも見事なプロパガンダです。頻繁な対日挑発行為をやっておきながら、あくまでも被害者を装い、支那だけでなく全世界の同情を引くのに成功しています。むろん陸軍中枢は蒋介石の嘘には騙されませんでした。しかし、事態は憂慮すべき段階になってしまいました。蒋介石が徹底抗戦を公式声明したのです。日本陸軍としても対策を考えざるを得ません。
この日の夜、参謀本部参戦部長の石原完爾少将が陸軍省を訪れました。陸軍省首脳に意見を開陳し、同意を求めるためです。すでに参謀本部内では武藤大佐らの増兵論が幅をきかせ、石原少将の支那撤退案は力を失っていました。石原少将は、せめて陸軍省を味方に付けようと考えたのです。杉山元陸相、梅津美治郎次官、田中新一軍事課長を前に石原少将は論じました。
「陸軍の動員可能兵力は三十個師団である。このうち支那大陸に使用可能な兵力は十五個師団を越えることはできない。この兵力では対支全面戦争は不可能である。それどころか対支戦争の結果はスペイン戦争におけるナポレオンと同様、泥沼にはまりこんで破滅の元となる危険が大である。そこで、思い切って北支にある我が部隊全部を一挙に山海関まで後退させ、近衛総理には南京に飛んでいただき、蒋介石との膝詰め談判によって解決を図るべきであります」
石原少将は、満洲さえ手中にあれば支那は不要という考えです。確かに排日侮日の坩堝と化した支那など手に入れたところで厄介なだけかもしれませんでした。いっそ棄てた方が身軽になれます。しかし、そのためには多大な権益を放棄せねばなりません。人生を賭けて移住した邦人と邦人企業がはたして納得するとは思えません。普段は無口な梅津美治郎次官が質問しました。
「北支から全面撤退すると言うが、明治以来、積み重ねてきた北支の権益はいったいどうするのだ。また、北支から撤退したからといって満洲国が安定するとは限らぬ。また、直談判と言うが、そもそも近衛総理の意向は確かめてあるのか」
石原少将は返答に詰まりました。梅津次官の言い分こそ常識というものです。また、石原少将は近衛総理と打ち合わせをしたわけでもありませんでした。しかし、そこを思い切らぬ限り、対支戦争に巻き込まれてしまうというのが石原少将の見通しでした。
(このまま支那に足をとられたら、日本は没落する)
石原少将の脳裏には、極彩色の地獄絵図がありありと見えていました。しかし、天才の意見は、常識人の梅津次官には暴論に聞こえました。追い打ちをかけるように田中課長が意見を述べました。
「北支からの全面撤退は陸軍だけの問題ではありません。国策の問題です。北支からの総撤退という国策変更は、陸軍だけで決められることではないはずです。五相会議ないし閣議で検討されるべきであります」
たしかに常識で考えればそのとおりです。石原少将の天才性は陸軍の枠など平気で踏み越えるところにありましたが、それ故にこそ行政実務的には弱かったと言えます。石原少将は失意のまま帰りました。
翌二十日、参謀本部は陸軍省に対して内地三個師団の北支増派を要請しました。杉山元陸相は閣議に提案しましたが、この日の議論では保留とされました。
七月二十三日、支那駐屯軍の参謀である和知鷹二中佐が上京し、陸軍首脳に現場の窮状を訴えました。支那派遣軍は一方的な銃撃を受けながら隠忍自重を続けています。
「早くご決断ください」
和知中佐は懇願しました。七月二十四日、支那軍の大部隊が北支に向かって北上している事が明らかとなりました。この間、南京では日支の外交折衝が続いていましたが、双方の妥協点は見いだせません。
そうこうするうち七月二十五日には廊坊事件、翌二十六日には広安門事件が発生しました。日本側の死傷者はそれぞれ十四名、十九名です。事ここに至り、初めて参謀総長は支那駐屯軍に対して武力行使の許可を下命しました。翌二十七日、閣議は内地三個師団の動員を承認しました。同時に、支那駐屯軍司令官に対して新任務が下命されました。
「平津地方の支那軍を膺懲して同地方主要各地の安定に任ずべし」
とはいえ、参謀本部も陸軍省も全面戦争を考えていたわけではありません。あくまでも短切なる打撃を敵に加えて事変を解決するのが狙いでした。
支那駐屯軍司令部は、内地三個師団の到着を待たず、早くも七月二十八日早暁より北京周辺の支那軍に対して攻撃を開始しました。戦闘二日にして支那軍は北京から撤退しました。一方、天津市内においては支那保安隊による襲撃事件が発生しました。支那駐屯軍はやむを得ず市街戦を展開し、支那軍を南方へ撤退せしめました。また大沽においても日支間に戦闘が発生しましたが、三十日までに支那軍を撃退しました。
こうして七月末までに支那駐屯軍は北支要地の治安を回復しました。獅子奮迅の働きといってよいでしょう。ただ、二十九日に発生した通州事件だけは防ぎ得ませんでした。通州事件は支那保安隊による叛乱であり、二百人以上の邦人が残虐な方法で殺戮された惨劇です。その惨状は阿鼻叫喚というべく、実態が報道されるにつれて日本の世論を硬化させました。
「暴支膺懲」
世論の風に政治家はなびきます。近衛文麿総理とて例外ではありません。政府は腹を決め、支那在留邦人に引き揚げを命じ、八月から引き揚げ事業を本格化させ、九月四日までにほぼ完了しました。統計によれば昭和十二年七月一日現在の支那在留邦人は、内地人およそ六万二千名、朝鮮人およそ一万一千名、台湾人およそ一万三千名でした。結果論ながら、石原莞爾少将の先見の明は、活かされなかったと言うべきでしょう。石原少将は戦争を避けるためにこそ引き揚げを提案したのです。しかし、近衛内閣は本格戦闘を開始するために居留民を引き揚げさせたのです。
蒋介石の戦略には一定の型があります。北支で事を起こし、中支の上海租界を圧迫するのです。満洲事変の最中には第一次上海事変を起こし、今回も北支の混乱に乗じて第二次上海事変を起こしました。
昭和十二年八月、蒋介石は数十万の軍勢で上海を包囲し、十三日朝以降、上海日本租界を防衛する海軍陸戦隊に対して盛んに射撃を加え、航空機による爆撃を実施しました。対する日本側の戦力は海軍第三艦隊と海軍陸戦隊三千名です。圧倒的に劣勢です。上海市街には便衣兵が侵入し、その排除は困難を極めました。それでも持ちこたえ得たのは、第三艦隊が艦砲射撃で応戦する一方、航空母艦から発進した艦上機による航空爆撃、さらに日本本土からの渡洋爆撃で地上軍を支援したからです。とはいえ、それでもギリギリのところです。
「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」
近衛内閣は八月十五日に声明を発し、陸軍に上海派遣軍の編成を命じました。内地二個師団からなる上海派遣軍が上海郊外に上陸を開始したのは八月二十三日です。
しかし、蒋介石の直属師団は精強でした。ドイツ式トーチカに拠り、最新兵器を使用していたからです。支那一撃論は虚構でした。上海の戦況は好転せず、それどころか悲惨な戦況となりました。日本軍の歩兵部隊は敵のトーチカ陣地に突撃を敢行したため屍山血河の惨状となりました。
九月、参謀本部は三個師団の増派を決定しました。この時、最後まで増派を渋ったのは作戦部長の石原完爾少将です。十月、さらに三個師団が増派され、杭州湾に上陸して蒋介石軍の背後を脅かしました。以後、戦況は好転し、蒋介石軍は南京へと撤退を始めました。上海派遣軍も追撃戦に移りました。
不拡大といいながら、九月上旬時点における陸軍の動員兵数は五十九万人、馬匹十五万頭です。すでに日露戦争時の動員兵力の二倍です。これに要する軍需予算は十億円を超えました。支那事変がここまで拡大した原因の大部分は蒋介石にあります。北支の支那駐屯軍にせよ、上海の海軍陸戦隊にせよ、一万にも満たぬ弱小兵力でした。その日本軍を蒋介石は大軍で包囲し、執拗に挑発したのです。日本軍と日本政府はギリギリまで忍耐しました。日本が大規模派兵に踏み切る理由は十分にありました。達観すれば、陸軍中枢では拡大か不拡大かで大議論をしたわけですが、敵側の蒋介石がヤル気満々だった以上、やるしかなかったと言えます。
八月以来、陸海軍の間では大本営設置が懸案となっていましたが、十月になって設置が決められました。反対していた陸軍次官梅津美治郎中将がようやく賛成したからです。梅津次官が反対していた理由は、本来のあるべき大本営ではなかったからです。
実際、設置された大本営は陸海軍の協議機関に過ぎませんでした。政府との一体化はなされず、後になって大本営政府連絡会議が開かれるようになります。
本来の大本営とは、明治時代の大本営がそうであったように、政府と軍部とを一体化した機関です。文武の顕官が集まって戦争政策を協議し、政府と軍部が協調して役割を分担して戦争を遂行するのです。しかし、支那事変時に設置された大本営は、政府を除外していました。
(これでは大本営としての意味が無いではないか)
そう言って梅津中将は反対していたのですが、多数意見に押されてついに賛成したのです。このあたりが梅津美治郎という人物の限界でした。能吏ではありましたが、強烈な指導力で巨大組織の陸軍を引っ張っていくような蛮勇は持ち合わせていません。こうして大本営は十一月二十日に設置されました。
支那に対する宣戦布告も陸海軍で検討されました。これについても賛否両論がありました。宣戦布告すれば戦地における軍の行動は自由度を増します。しかし、海外からの輸入が滞る恐れがありました。比較考量の結果、宣戦布告をしないこととなりました。
昭和十二年十二月初頭、支那の戦局は好転していました。北支は安定化しつつあり、中支那方面軍は南京に迫っています。南京陥落も間近と思われていた十二月七日、駐日独大使ディルクセンは広田弘毅外相を訪問し、日支和平を仲介する用意がある旨を打診しました。この和平交渉は駐華独大使トラウトマンが実施していたものです。そのためトラウトマン工作と呼ばれます。
折しも日独は十一月六日に日独防共協定を結んだばかりです。ドイツにしてみれば有力な貿易相手国である支那を助け、同時に日本が支那事変に没頭して対ソ戦備を疎かにするのを防ごうとしたようです。
人間は現金なものです。上海の戦況が支那側に有利だった十月頃、蒋介石はトラウトマン工作を歯牙にもかけずに蹴っていました。しかし、十二月二日になると蒋介石は態度を変え、トラウトマンの提案を受け容れて条件付きでの和平交渉に合意しました。事情は広田外相も似ていました。先には緩やかな和平条件を提示していましたが、十二月になると広田外相は和平の条件を追加して強い態度に出ました。
交渉では、蒋介石が領土主権の保全を求めました。一方、広田外相は満洲国の承認、日華防共協定の締結、排日運動の停止、北支における非武装地帯の設定などを要求しました。
日本政府は閣議を開くたびに和平条件について検討を重ねましたが、十二月十日の閣議では広田外相が和平を否定するような発言をしています。
「犠牲を多く出した今日、このような軽易な条件では和平を認めることは困難である」
これに続いて末次信正内相が強硬論を述べました。近衛文麿総理と杉山元陸相もこれに同調し、蒋介石の回答を拒否することが決まりました。
この閣議の状況を知らされて驚愕したのは参謀本部戦争指導班の高島辰彦中佐、今田新太郎中佐、堀場一雄大尉です。参謀本部戦争指導班は支那事変終結を模索し、トラウトマン工作に多大の関心を払っていたのです。
「わが政府が回答を拒否するだと。そんな馬鹿な」
戦争指導斑の参謀三名は閣議決定を取り消すべきだと考えました。そこで手分けして陸軍首脳を説得することにしました。高島中佐は閑院宮参謀総長を、今田中佐は多田参謀次長を、堀場大尉は梅津次官を説得することになりました。堀場一雄大尉は陸軍省の次官室を訪ね、梅津美治郎次官に意見具申しました。
「いやしくも外相が先方に和平条件を提示しながら回答を拒絶するなど、国際信義を踏みにじる行為です。日本は下手をすれば侵略者の汚名を被るかも知れません。拒絶する前に、日本側の和平条件を明らかにし、支那側の条件をも取り上げて交渉するべきです。広田外相が相手を無礼者よばわりし、具体的交渉に入らない理由は何でしょう。戦勝に驕っているのではありますまいか。こんなことではいつ事変が終わるか見当もつきません」
梅津次官はいつもの冷静な顔で聞いていましたが、珍しく意見を言いました。
「私の部下には今まで貴官のような意見具申をする者はなかった。さっそく大臣に意見を申し上げ、閣議決定を取り消すことにしよう」
梅津次官の意見を杉山陸相は聞き入れてくれました。こうして十二月十日の閣議決定は取り消され、和平交渉が継続されることとなりました。
南京が陥落したのは昭和十二年十二月十三日です。蒋介石はすでに漢口に逃れていました。広田弘毅外相の和平条件案が漢口の蒋介石に届いたのは十二月二十四日です。
国民党幹部は広田案を検討し、受諾すべしとの結論に達しました。その旨を蒋介石総統に報告したところ、総統は返答をせず、正式な決定が必要だと述べました。十二月三十日から最高国防会議が開かれ、和戦が協議されました。結論は大晦日に出されました。
「トラウトマン大使の和平提議を受諾する」
蒋介石は正月をのんびり過ごしました。一月四日、和平交渉を孔祥熙と張群のふたりに託した蒋介石は、開封方面へ去りました。孔と張は和平交渉を進めようとしましたが、国民党内部から様々な妨害工作に遭い、日数をいたずらに過ごしてしまいました。待ちきれなくなった日本政府は一月十六日に近衛声明を発し、和平交渉の打ち切りを公表しました。
蒋介石はコミンテルンの監視下にありましたから、蒋介石としては和平交渉を部下に任せて逃げ出すしかなかったのでしょう。また、孔と張が直面した各種の妨害もコミンテルンの仕業だったようです。
「国民政府を対手とせず」
との近衛声明を梅津美治郎次官は北支那方面軍視察中に知りました。梅津次官は顔色ひとつ変えませんでしたが、内心では落胆していました。
この後、陸軍は徐州作戦を成功させますが、蒋介石はいよいよ対日姿勢を強硬にしました。支那事変終息の足がかりを失った近衛文麿総理は、五月、内閣を改造しました。外務大臣に宇垣一成をむかえて対支交渉を再興しようとしたのです。また、近衛総理は陸軍大臣に板垣征四郎中将を希望しました。陸軍内の一部には梅津美治郎の大臣昇格を望む声もありましたが、これは近衛総理の反対で実現しませんでした。
板垣征四郎中将が新陸相と決まったので、先任中将たる梅津美治郎は次官を辞めることになりました。周囲の失望をよそに、梅津は恬淡としていました。そして、陸軍次官として最後の仕事をしました。それは後任の次官に東條英機を抜擢したことです。このとき梅津中将は、めずらしく言葉を残しています。
「板垣ではあぶない。国をどこへ持って行くかも知れん。あれには東條のような、小心で、事務的で、どんなことでもいちいち書き留めておかねば気のすまぬ、几帳面なのをそばにつけておかねばならん」