粛軍
昭和十一年二月二十六日、帝都東京において驚天動地の事変が発生しました。総理官邸、蔵相私邸、内相私邸、侍従長公邸、陸軍教育総監私邸、警視庁、陸軍省、参謀本部などが襲撃され、永田町から霞ヶ関、赤坂、三宅坂にわたる地区が占拠されたのです。叛乱部隊は、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊などの一部将兵でした。政府は機能麻痺に陥り、陸軍中枢は混乱しました。陸軍内には叛乱部隊に同調する勢力が少なからず存在していたし、多くの者は「皇軍相撃つ」の悲劇を恐れて帰趨に迷うばかりでした。
参謀本部には各地方の師団司令部から数多くの電報が入りました。何れも事実を問い合わせたり、指示を請うたりするものばかりでした。そんな中に出色の電文がありました。
「一部不逞の叛乱行為は、速やかに鎮圧せざるべからず。師団は何時にても出動之にあたる態勢を整えあり」
仙台第二師団長梅津美治郎中将からのものでした。梅津中将は、非常事態の発生を知るや、即刻、陸軍三長官に対して迅速なる叛乱鎮圧を意見具申したのです。この果断な意見具申電報は、陸軍中枢の幕僚たちに強い感銘を与えました。
二・二六事件という帝国陸軍はじまって以来の不祥事に直面した現役の長老大将らは責任を感じ、三月四日、自発的に辞職を申し出ました。このため南次郎、林銑十郎、真崎甚三郎、阿部信行、荒木貞夫、川島義之、本庄繁といった錚々たる大将たちが待命となりました。
三月九日、広田弘毅内閣が成立し、陸軍大臣には寺内寿一大将が就任しました。当然のことながら寺内陸相には粛軍の断行が求められました。寺内陸相は、省部の推薦に耳を貸し、陸軍次官に梅津美治郎中将を抜擢しました。
陸軍省は、一ヶ月後の四月八日と九日に軍司令官師団長会議を開催しました。軍紀の粛正、統帥の格守などについて徹底指示するためです。寺内陸相および閑院宮参謀総長は居並ぶ軍司令官と師団長らに厳しく訓示しました。五月五日にも師団参謀長会議が開催され、秩序の確保について詳細かつ具体的な指示が与えられました。これらの会議のお膳立てをしたのは梅津美治郎次官です。
陸軍省は機構改革にも取り組みました。複雑化した各種の軍務を整理するとともに、人事を一元化して軍紀粛振を実現するためです。機構改革案は早くも七月二十四日に勅令として公布されました。その内容は多岐にわたります。業務多端のあまりに「群務局」と呼ばれていた軍務局から兵務、徴募、防備、馬政の四課を分離し、新たに兵務局を新設しました。また、軍事課を二分して軍務課を新設しました。軍事課には軍政、予算、装備を担務させる一方、軍務課に政策幕僚を集め、政治的な個人プレイを防止するのが狙いでした。このほか、航空軍備充実の観点から陸軍航空の諸機関を航空本部に集約しました。こうした改革の最前線に立ったのは梅津美治郎次官です。
このなかで最も難航したのは人事の一元化です。陸軍では、参謀将校の人事権は参謀本部が握っていました。経理局や医務局もそれぞれに人事権を保有していました。また騎兵、砲兵、工兵、輜重兵など各科の人事権は教育総監部の各科兵監の強い影響下にありました。これを陸軍省人事局に一元化したのです。大英断といってよい改革でしたが、これも梅津次官の力量に負うものでした。
八月一日、陸軍人事に大異動があり、西義一大将、建川美次中将、小畑敏四郎中将、平野助九郎少将、橋本欣五郎大佐らが予備役あるいは待命とされました。かねてより求められていた粛軍です。こうした粛正人事の仕上げとして実施されたのが軍部大臣現役武官制の復活でした。すでに数多くの大将、中将らが予備役に編入されています。それら予備役の将軍たちが政党の推薦を得て政治家となり、陸軍大臣に舞い戻る可能性がありました。粛軍人事で予備役になった将軍が、陸軍大臣に返り咲くようでは粛正人事の意味がなくなってしまいます。叛乱事件直後の措置として軍部大臣現役武官制の復活は妥当な措置でした。これも梅津次官の明察によるものです。
九月になると来年度予算についての折衝が省部間で始まります。参謀本部は大幅な予算の増額を要求しました。なにしろ満洲の防備を固めるためには予算がいくらあっても足らないくらいです。これに対して梅津次官は常識論で対抗しました。
「国家予算には限りがあるのだ」
梅津次官は、参謀本部に予算案の大幅な減額を要望しました。参謀本部参謀次長の西尾寿造中将は納得してくれました。しかし、第三課長の富永恭次大佐は烈火のごとくに怒りました。梅津次官に対してではなく、西尾参謀次長に対してです。粛軍の真最中でありながら、中堅将校の下剋上的気風は少しも収まってはいませんでした。
「これでは国防の責任が負えません」
富永大佐は憤懣を爆発させ、第三課の課員全員を伴って参謀総長閑院宮大将に進退伺いを提出しました。この件は、参謀総長が異例の訓示を出すことで決着となりましたが、粛軍の難しさを周囲に印象づけました。
これら一連の陸軍改革推進の中心は梅津美治郎次官でしたが、不思議なほどに梅津美治郎という存在は目立ちませんでした。寺内陸相を常に粛軍の前面に立たせ、梅津次官は自身の存在を消すかのごとくに振る舞いました。寺内正毅元帥を父に持つ侯爵寺内寿一陸相は、梅津次官にとって格好の神輿であったといえます。
いうまでもなく二・二六事件の処理のなかで最重要のものは裁判です。すでに三月四日、緊急勅令によって東京臨時陸軍軍法会議が設置され、同月十一日には罪名を反乱罪とする陸軍次官通達が出されていました。三月二十六日、次官に就任したばかりの梅津美治郎中将は、全国の将校から選抜任命された判士に対して訓示、講演しました。この軍法会議の特質を梅津次官は簡潔明瞭に伝えます。
「事変全般にわたり、その手続きは最も迅速を旨とし公判は公開せず。弁護人を付せず。判決は即時確定し、上告を許さず速やかに実行する。本事件に関係ある者については常人もまた公判に付し且つ全国各地における事件をも併せて裁判す」
要するに非公開、弁護人なしの秘密法廷で、判決は即時確定し、上告を許さず、速やかに刑を執行するというのです。これだけをみると、陸軍が暗黒裁判を強行したかのようです。しかし、そうではありません。陸軍には苦い後悔があります。犬養毅首相が銃殺された五・一五事件と、陸軍軍務局長永田鉄山少将が斬殺された相沢事件です。これら事件の審理は常設軍法会議で行われました。法廷は公開され、弁護人もつき、新聞記者の取材も許されました。世論は、意外にも被告たちに同情的であり、無数の助命嘆願書が全国から送付されました。経済失政続きの政党政治に国民は絶望しており、軍人政治待望論が世論となっていたのです。そのため五・一五事件の判決は寛大なものとなり、死刑判決はありませんでした。この量刑の甘さが二・二六事件を惹起したと言えなくもなかったのです。そして、相沢事件の審理は長引いており、いまだに判決が出ていない状況です。
(こんなことではクーデター事件が際限なく繰り返される)
陸軍があえて特設軍法会議を設置した理由はここにありました。本当の責任は経済政策に失敗しつづけ、貧富の格差を拡大させ続ける政党政治にこそあったと言えるのですが、陸軍がその尻ぬぐいをせねばならなくなりました。
粛軍の実を挙げるため、陸軍は真崎甚三郎大将を起訴しました。二・二六事件の実行犯は、いずれも尉官級の将校でしたが、その背後に複数の首魁がいたことは周辺状況から明らかでした。特に事件発生直後の言動から真崎甚三郎大将の関与が強く疑われました。実行犯だけを処罰しても粛軍は徹底しません。そこで、四月、東京軍法会議は真崎大将を召喚し、取り調べに踏み切ったのです。
東京臨時陸軍軍法会議における審理は迅速に進み、事件発生から五ヶ月後の七月には実行犯に対する判決が確定しました。民間人を含め十九名が死刑となりました。一方、真崎甚三郎大将は昭和十二年一月に起訴されましたが、同年九月には無罪判決となりました。
このほか、梅津美治郎次官は粛軍のために機密費を絞りました。陸軍の機密費は右翼の資金源でしたから、梅津次官に対する右翼の誹謗中傷が始まりました。
「梅津はアカである」
お定まりの怪文書が撒かれたりしましたが、梅津次官は気にかける様子もなく、いつもの無表情で通しました。この心ない右翼のデマは、しかしながら、意外に大きな影響を生んだようです。近衛文麿や平沼騏一郎といった政府の要人までが「梅津はアカ」だと信じ込んでしまったのです。梅津も梅津で、近衛には軽々に近づこうとしませんでした。
近衛と梅津の和解を斡旋しようとする人がいて、何度も梅津に打診しましたが、梅津は応じませんでした。後のことになりますが、関東軍司令官時代の梅津は、尾崎秀実から会見を要望されたことがありました。しかし、これも拒絶しています。梅津には独自の情報源と人物鑑定眼があったようです。
陸軍省内では粛軍の大ナタを振るいつつも、その表情を消して冷厳な官僚然としている梅津美治郎中将でしたが、家庭では普通の父親だったようです。子は二人います。長女の美代子と長男の美一です。時代が時代ですから躾は厳しいものでした。
「無駄をしてはいけない」
美治郎は言います。マッチを擦ってガスコンロに火をつけた後、その燃えさしの軸木を子供たちが棄てると、美治郎は叱ります。残しておけば、コンロからコンロに火を移すのに使えるからです。うるさいながらも合理的な理屈がありましたから、子供たちは納得しました。
梅津美治郎が結婚したのは三十七才の時でした。妻の清子は二人の子を生みましたが、不幸にも結核のため早世しました。結婚生活は五年間ほどでしかありません。以後、梅津は再婚話をすべて断り、男手ひとつでふたりの子を育てています。だから、甘いときには甘いのです。クリスマスにはたくさんのプレゼントを買いました。日曜日には家族で外出するのが常でした。
昭和十一年七月十二日は日曜日でした。美代子と美一はいつものとおり外出をねだりました。
「今日はどこにも連れて行かない。今日は一日外出しない」
子供たちは失望を顔にあらわしましたが、父は理由を言いませんでした。この日は二・二六事件の死刑囚の内、十五名の刑が執行される日だったのです。美治郎は端座瞑目してこの日を過ごしました。
後のことになりますが、ニ・二六事件で刑死した青年将校の遺族が困窮しているとの訴えが陸軍省兵務局にありました。当時の兵務局長は今村均少将でした。今村局長が梅津次官に相談すると、「補助策は講じてやるべきだが、陸軍との縁はキッパリ切れ」との指示です。今村局長は種々考案の末、遺族を保険に入れてやることを思いつきました。遺族のうち十歳以上の男子を徴兵保険に、女子を嫁入り保険に、四十才以上の者を養老保険に入れ、その掛け金を陸軍省で一括払いするのです。今村局長はさっそく起案しました。その起案書をみた梅津次官はすぐに決裁しました。
満洲事変の後、関東軍は四個師団編制となりましたが、昭和九年には三個師団に減っていました。十五個師団を擁する極東ソ連軍とは比較になりません。しかし、兵備の充実には時間と金が掛かるし、国民や議会の理解が要るのです。関東軍の戦力を増強するのは容易ではありませんでした。
その関東軍司令部は、昭和十一年頃、内蒙工作に熱中していました。それというのもソ連はすでに外蒙を勢力圏に入れ、その外蒙を拠点として内蒙、満洲、支那に対して盛んな赤化宣伝謀略活動を展開していたからです。関東軍としては、これを放置するわけにはいきませんでした。共産主義は日本の立憲君主制と相容れません。防共政策は日本の基本政策です。また、戦力では圧倒的に劣勢な関東軍ではありましたが、謀略戦ならば対抗できます。
当時、内蒙にはいくつかの軍閥が割拠していましたが、関東軍はそのなかから徳王を選び、資金援助しました。徳王をして内蒙を征服せしめ、内蒙を親日化しようとしたのです。内蒙工作の中心人物は関東軍第二課の武藤章大佐と田中隆吉中佐です。その内蒙工作に噛み付いたのは参謀本部作戦課長の石原完爾大佐でした。
「今後三十年は戦争しない」
これが石原大佐の持論です。満洲事変で名声を得た石原大佐は満洲開発論者です。満洲を開発し、その富をもって米ソに対抗しうる軍備を整える。それには三十年かかるというのが石原構想です。よって、満洲以外には野心を持ってはならず、ひたすら満洲の開発に国力を傾けるべきだと考えたのです。そのためには無用の紛争を避けねばなりません。石原大佐に言わせれば内蒙工作など百害あって一利もないものでした。
その石原大佐は関東軍司令部に乗り込み、今すぐ内蒙工作をやめるよう武藤大佐らを叱りつけました。ところが武藤大佐は見事に切り返します。
「私どもは石原大佐を見習っているのです。お褒めいただけるものとばかり思っておりました」
満洲事変が良いというなら、内蒙工作も良いだろうというのです。関東軍参謀らは叱責された腹いせもあって哄笑しました。石原大佐は屈辱とともに帰国するしかありませんでした。
石原大佐をまんまと追い返した関東軍でしたが、工作資金に困りはじめます。関東軍は、徳王に渡す工作資金を冀東政権から得ていました。冀東政権とは関東軍の工作によって北支に樹立された親日傀儡政権です。冀東政権は密貿易を財源にしていましたが、その絡繰りが機能しなくなり、内蒙工作資金が途絶えてしまったのです。やむなく関東軍司令部は陸軍省と交渉して内蒙工作資金を捻出しようと考えました。このため関東軍参謀副長の今村均少将が東京に派遣されることになりました。
関東軍司令部は新京にあります。東京と新京を結ぶ直通の航空便が就航するのはこの翌年六月です。今村少将は新京から奉天、福岡を経由して東京の土を踏みました。今村少将は陸軍省に登庁し、次官室のドアをノックしました。ふたりが親しく顔を合わせるのは五年ぶりです。もちろん梅津美治郎次官は、今村均少将の来意を承知しています。余人を交えず会談しました。
戦後、回顧録の中に幾多の反省を書き連ねた今村均ですが、この頃はまだ根っからの帝国軍人です。ソ連による赤化工作の現状、内蒙、満洲、支那に対する共産分子の謀略宣伝、関東軍による内蒙工作の目的と経過、今後の見通しと工作継続の必要性について、今村少将は小一時間かけて詳細に報告しました。梅津次官は例によって無表情に聞いています。メモもとらず、書類も見ず、質問もせず、ただ能面のような顔で聞いています。しかし、片言隻句をも聞き逃さぬ冷徹な気迫がありました。やがて今村少将は「内蒙工作継続のため三百万円が即時に必要であります」と結論を述べました。能面の口が小さく動きます。
「君の説明はそれで終わったのか」
「はい、終わりました」
「では、私から聞く。第一に、先だって石原大佐を満洲にやり、内蒙工作に対する中央の意思を伝えさせたはずだ。そのとき関東軍幕僚どもは石原大佐を嘲笑したというではないか。あれは何です」
梅津次官の言葉づかいは丁寧でしたが、これが逆に凄みを感じさせました。今村少将は動揺を隠せません。
「それは、・・・それは、派遣使節の人選が適正を欠いていたと私は思います。なにしろ石原大佐は満洲事変の英雄ですから。ただし、陸軍中央の代表者に対して示した関東軍参謀の態度は不都合であり、申し訳なかったと思います」
「第二に、中央では大局的判断から内蒙工作は不可なりと判断した。これは参謀総長および陸軍大臣の意図である。それを石原大佐から伝えさせた。にもかかわらず、関東軍は内蒙工作を中止せず、今なお続けている理由は何です」
「関東軍司令部は満洲国建設上、内蒙方面からするソ連の赤化工作および蒋政権の策謀に対処するため、どうしても止め得ないと判断しているからであります」
「よろしい。かりにそうだとして、関東軍はなぜ、石原大佐派遣の直後に参謀長なり君なりが上京して意見を具申しなかったのか。参謀総長や陸軍大臣に関東軍司令官の意思と希望を説明し、その了解を得ようとしなかった理由は何です」
「まことに、遅れまして、あいすみません。それでこの度、私が上京を命ぜられたものであります」
今村少将はすでにペシャンコです。
「左様な申し訳が立つと思いますか。北支駐屯軍司令部からは、関東軍のやっている内蒙工作について詳細な報告が入っています。我々が何も知らないとでも思っているのですか」
梅津美治郎次官の顔に怒気はありません。言葉遣いも丁寧です。無表情な能面のまま口だけが小さく動いています。その静かな威圧に今村少将はタジタジとなりました。いっそ怒鳴りつけられた方がよほど楽だったでしょう。
「関東軍がいかに中央の意向を無視し、勝手な振る舞いに及んでいるかは明らかに知られているのだ。君は関東軍司令官の希望と言うが、僕はそれを信じない」
ここで梅津次官はやや間をとり、再び話し始めます。
「今となっては全てを君に打ち明けておかねばならない。そもそも八ヶ月前、関東軍参謀副長に君を任命したのはこの僕だよ」
当時、関東軍の参謀長は西尾寿造中将でした。その西尾中将が参謀本部参謀次長へ転出することになったため、後任の参謀長には参謀副長だった板垣征四郎中将が昇格しました。板垣中将は、石原大佐と同様に満洲事変の英雄です。
「そのとき僕は、次の参謀副長に誰を充てたらよいか西尾中将とよくよく相談したものだ。関東軍が中央の統制を無視して専断の振る舞いをする悪い傾向は西尾中将の努力によって矯正されてはいた。だが、まだ根絶には至っていなかった。だから板垣参謀長の下には信頼できる男を置きたかったのだ。君も覚えているだろう。満洲事変のとき、君も僕も参謀本部にいて関東軍に不拡大方針をしつこく訓請したものだ。それなのに関東軍は中央の方針を無視して我々に苦汁を呑ませた。もちろん現場には現場の判断と苦労があったに違いない。しかし、あの前例が今日の悪風を生んだのだ。出先機関の無統制に慨嘆した経験を持つ君だからこそ、関東軍参謀副長に当てたのだ。君ならば、まさか中央の統制を無視すまい。もちろん部下の参謀たちから突き上げられて手こずることもあるだろう。消極参謀という悪評の嵐にも耐えねばならない。だが、そんな場合には中央の我々が君の後ろ盾になって凌いでいかせようと思っていたのだ。僕は、今日の今日まで、僕の判断は正しかったと思っていた。それというのも君が関東軍参謀副長になって以後、満洲からは君の悪評ばかりが聞こえてきたからだ。その悪評の原因を調べると君が統制維持に懸命の努力をしている様子がよくわかった。僕は秘かに喜んでいたのだ。しかるに内蒙工作に至ってはまったくダメだ。確かに君の説明には一理も二理もある。赤化工作と蒋介石の策謀は心配だ。特務機関の設置も必要だろう。しかしながら、今の陸軍にとって喫緊の課題は軍律統制に服する軍紀の刷新なのだ。君が武藤大佐や田中中佐の献策を考慮するのはよい。だが、君までが中央の統制を無視して工作を進めるのに同意するとは何事か。『居は人の心を移す』と言うが、君も満化してしまったのか。馬賊の頭領にでもなったつもりか。関東軍は馬賊集団なのか。石原や板垣がうらやましいか」
それだけ言うと梅津次官は黙りました。今村少将はうなだれています。しばらくの後、今村少将は、ようやく顔を上げました。梅津次官の顔はやはり能面のようでしたが、わずかに赤みが差しています。
「次官、よくわかりました。陸軍の統制を破らぬよう最善の努力をいたします。経費のお願いもこれ以上は申し上げません。ただ、現に配置してあります特務機関は、赤化防止と諜報任務、それから徳王に対する精神的支持に限り、お認めください。もちろんソ連と事を構えるようなことにならぬよう十分に配慮いたします。累を中央および国家に及ぼすような真似は致しません。私はさっそく新京に帰ります」
梅津次官は、今村少将をそのまま帰らせました。むろん内心では同情しています。今村少将の立場の苦しさは、よくわかります。内蒙工作費の三百万円をまったく獲得できず、手ぶらで帰るのです。まるでガキの使いです。おそらく関東軍司令部では板垣参謀長から叱責されることでしょう。部下の武藤大佐や田中中佐から中傷され揶揄されるでしょう。しかし、それに耐えねばならないのです。軍紀の粛振とは、内なる敵との戦いです。内なる敵とは味方です。味方だから殺すわけにはいきません。殺さずに勝たねばならないのです。世上、最も勝ち難い敵と言えるでしょう。
梅津には今村少将の苦しい立場がよく分かります。なぜなら、梅津美治郎自身が様々な誹謗中傷の的となっていたからです。
(梅津は永田鉄山のように殺される)
(梅津はアカだ)
しかし、すべては根も葉もない悪口です。この間の事情は西園寺公望の側近だった原田熊雄男爵の日記から伺うことができます。
「陸軍次官の梅津は良くないというような話が盛んに聞こえてきた。しかし、海軍や外務省あたりのいろんな話でも、梅津中将という人は正しい人で、いわゆる若い将校連中に迎合的に仕向けないことがおそらくいろんな非難を生む因をなしているように思われた。陸軍大臣はもちろんのこと海軍大臣や次官なんかに聞いてみても、やはり陸軍では梅津が一番正しくて、しっかりしているという話しであった」