満洲事変
中華民国とは名ばかりの国家でした。支那大陸の実情は軍閥割拠の無政府状態がつづいています。満洲は張作霖の軍閥政府によって統治されていましたが、その統治も実に非道いものでした。百年先までの税金を取り立てるような無法がまかり通っていたし、国際法もワシントン条約も踏みにじられていました。それどころか匪賊の跳梁跋扈が著しく、治安が劣悪でした。その無法に対する在満邦人の不満が高まっていきました。
昭和三年六月、張作霖爆殺事件が発生しました。満洲軍閥の総帥たる張作霖を爆殺したのはソビエトのコミンテルンでしたが、その犯人は不明でした。このため日本軍が爆殺を実行したものと一般に信じられました。張作霖の後を継いだ張学良もそう信じ、日本への復讐を誓いました。かねてより張学良に接触していたコミンテルンは、張学良を見事に籠絡し、日本軍の仕業であると信じ込ませることに成功していたのです。このため張学良はコミンテルンの指示に従って蒋介石に意を通じ、国民党との連携を固め、排日姿勢を露骨にしました。二十万の兵力を蓄えた張学良が、わずか一万数千に過ぎない関東軍に挑戦したくなるのは当然だったといえるでしょう。
満洲における排日運動はいよいよ激化しました。この事態に対処するため、昭和六年六月、参謀本部第二部は「満蒙問題解決方法の大綱」を策定しました。その内容はごく常識的なものです。外務当局との連絡を密にして排日姿勢の緩和を張学良軍閥に働きかける一方、関東軍の行動を慎重ならしめ、万が一にも不慮の衝突が起こらぬよう万全を期すというものです。
「満洲問題の解決には内外の理解が欠かせない」
参謀本部は、きわめて慎重な考えを有していたと言えます。満洲に蔓延している排日運動の実態を、自国民だけでなく関係諸国にも事前周知しておき、万やむを得ぬ事情から日本軍が軍事行動をとったとき、国内外の世論が納得してくれるようにと配慮していたのです。国内向けの周知業務は陸軍省軍務局が担当し、列強諸国向けの理解増進業務は参謀本部情報部が外務省関係部局と協力して推進すると決められました。
作戦中枢たる陸軍参謀本部が、国内外の世論にまで心を配っていたわけです。その理由の一端は、外務省の怠慢にありました。国際世論への配慮は、本来、外務省の通常業務です。ところが、外務省は満洲における排日運動の被害を国際世論に訴える熱意に欠けていました。「国際協調主義」あるいは「対支不干渉」という美名が絶好の言い訳になっていたからです。
「外務省のケツを叩いてでもやらせよう」
陸軍参謀本部が一肌脱がざるを得ませんでした。そうしておかないと、いざ満洲に不測の事態が発生したとき陸軍が世界の悪者になってしまうという懸念がありました。国内外に対する周知活動にはおよそ一年間を要すると参謀本部は見積もっていました。当然、この方針は関東軍司令部にも徹底されました。
「一年間は隠忍自重の上、排日行動から生ずる紛争に巻き込まれることを避け、万一に紛争が生じた際には局部的に処置すること」
関東軍司令官本庄繁中将と参謀長三宅光治少将は、昭和六年八月、参謀本部の方針を脳髄にたたみ込んで満洲に赴任しました。しかしながら不幸にも、この翌月、柳条湖事件が発生します。
昭和六年九月十九日未明、参謀本部総務部長梅津美治郎少将は電話の音で目を覚ましました。参謀本部の宿直将校からの電話です。
「関東軍が出動しました。梅津閣下のお宅へ自動車を向かわせました」
「よろしい。今村大佐にも自動車を回してくれ」
いったん電話を切った梅津少将は、再び受話器を取り上げ、参謀本部作戦課長今村均大佐に電話しました。本来なら、第一部長建川美次少将に連絡すべきでしたが、建川少将は満洲へ出張中です。電話が通じると梅津少将は今村大佐に指示しました。
「昨夜、奉天の近くで鉄道が爆破され、関東軍が出動したらしい。僕は今すぐ役所へ行き電報を確かめる。君のところに間もなく自動車が行くはずだ。詳しいことは役所で打ち合わせよう」
梅津少将が登庁すると、参謀本部はまだ閑散としていました。梅津少将は宿直将校に命じ、陸軍大臣、参謀総長、陸軍次官、陸軍省及び参謀本部の局部長に電話をかけさせ、状況を報告させました。陸軍首脳を招集し、午前七時から会議を開くためです。宿直将校が電話にかじりつくのを見た梅津少将は、電報に目を落としました。
「十八日夜十時半頃、奉天北方、北大営西側において、暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、我が守備兵を襲い、駆けつけたる我が守備隊の一部と衝突せり、報告によれば奉天独立守備第二大隊は現地に向かい出動中なり」
これが第一報です。以後、続報が頻繁に入っています。梅津少将が続報を読んでいると今村均大佐が登庁してきました。
「これだ」
梅津少将は読み終えた電報綴りを今村大佐に手渡しました。梅津少将は、今村大佐が電報を読み終えるのを待ちました。
関東軍司令官本庄繁大将は、関東軍の全軍に出動を命じています。日満両軍の衝突は、今のところ局部的のようですが、今後の進展は予測しがたいところです。とはいえ、関東軍首脳は参謀本部の隠忍自重方針を熟知しているはずでしたから、それほど心配することはないと思われました。電報を読み終えた今村大佐が顔を上げると、待っていた梅津少将が言いました。
「ともかく省部の局部長会議を開いて対処方針を決めることにしよう。すでに宿直将校が電話連絡している。会議は午前七時からだ。あと一時間半あるから君と僕とで事件処理案を起草して宿直書記に浄書させよう」
午前七時、会議は予定どおり始まりました。出席したのは陸軍次官杉山元中将、軍務局長小磯国昭少将、参謀次長二宮治重中将、総務部長梅津美治郎少将、作戦課長今村均大佐、情報部長橋本虎之助少将、軍事課長永田鉄山大佐です。
「今のところ全面衝突には至っていない模様である」
橋本情報部長が情勢を述べました。今村作戦課長は、彼我の戦力を比較し、増援が必要な場合には朝鮮軍を投入すべきだと意見を述べました。増援については意見が賛否に割れたものの、関東軍の劣勢は明らかですから、必要に応じて増援することに決まりました。総務部長の梅津少将も意見を具申しました。
「不拡大方針堅持のため陸軍大臣および参謀総長から関東軍司令部に指令電報を打つべきである」
この提案は全会一致の賛同を得ました。また、小磯軍務局長は次のように発言しました。
「関東軍の今回の行動は全部至当である」
誰にも異論はありませんでした。会議後、参謀本部は不眠不休の忙しさになりました。さっそく今村均大佐は朝鮮軍の増援計画を起案しはじめました。ところが、朝鮮軍が命令を待たずに満洲へ出動しようとしたため問題となりました。
「朝鮮軍の行動は穏当を欠く」
今村大佐は朝鮮軍司令官林銑十郎中将を非難しましたが、朝鮮軍の積極的行動を支持する意見も出ました。梅津少将は、今村大佐の意見を支持しました。不測の事態に直面している関東軍はまだしも、朝鮮軍には差し迫った危機などありません。それなのに命令もないまま軍を動かすことなど、あってよいはずがないのです。梅津少将は、参謀総長金谷範三大将を説得し、朝鮮軍司令官林銑十郎中将に自重を促す指示電報を参謀総長名で打電しました。
「関東軍増援の件、奉勅命令下達まで見合わされたし」
参謀本部は情報収集、関係機関との調整、作戦研究、兵站、各国の反応把握などに全機能を全開させました。なかでも心配されたのは極東ソ連軍の動きです。関東軍の動きがソ連軍を刺激する可能性は多分にあります。しかし、この点は杞憂に終わりました。問題は、むしろ関東軍そのものでした。参謀本部の不拡大方針に反し、関東軍はドンドン戦線を拡大させていったからです。参謀本部内には喧々囂々の議論がわき起こりました。
「中央の不拡大方針を無視するのはけしからん」
関東軍の独断行動を非難する意見がある一方、関東軍の行動に同情する意見もありました。
「劣勢の関東軍は攻勢に出る以外にない。守勢に回れば包囲殲滅されてしまうぞ」
内地師団の派遣準備を急ぐべし、という意見もありました。
「戦線不拡大のためには敵を圧倒する戦力を関東軍に与えてやらねばならない。あの寡少な兵力で隠忍自重せよと命じる方が無茶だ」
見解は様々です。ともかく東京では現地の実情が詳細にはわかりません。結局、気を揉みながら現地軍に任せるしかありませんでした。参謀本部と政府は、ともに不拡大方針を堅持し、増援は朝鮮軍のみに限りました。満洲では関東軍が果敢に戦い、満洲の要地を確保し、張学良軍の主力を満洲南部に圧迫していきました。関東軍の驚くべき精強さです。裏を返して言えば、張学良軍の劣弱さでもあります。
(いったん戦端が開かれてしまえば参謀本部といえども現地軍の統御は難しい)
梅津少将は作戦指導の困難さを心底から経験しました。
十月、参謀本部はいまだに満洲事変の処理に忙殺されています。さらに、総務部長梅津美治郎少将を悩ませる事件が発生しました。十月事件です。錦旗革命事件ともいいます。橋本欣五郎中佐を首魁とする十二名の将校が、十月十七日、クーデター未遂の嫌疑で逮捕されたのです。去る三月にも同様の事件があったばかりです。参謀将校の人事は総務部長の職掌でしたから梅津少将としては何らかの人事処分を実施せねばなりません。
クーデター計画の内容は、政府首脳を殺害して革新政権を樹立するという物騒なものです。しかしながら、計画そのものは極めて杜撰かつ幼稚であり、官憲にも情報が筒抜けでした。教養高く学問もある中堅将校らが、このように拙劣なクーデター計画に熱中したのはなぜなのか、今となっては不思議としかいいようがありません。まるで幕末の攘夷志士が復活したかのようでした。
この背景には、昭和恐慌による貧困化、格差の拡大、政党政治への失望、共産革命思想の流入など様々な要因がありました。こうした社会の矛盾を前に、志士的気質の将校たちが激昂したようです。その心情は「昭和維新の歌」に詠われているとおりです。
逮捕者の処分については陸軍内でも意見が分かれました。一方には極刑に処すべしとする強硬意見があり、他方、寛大なる処置を求める意見もあります。普段から無口な総務部長の梅津少将は、いつにもまして無口になりました。
「今村大佐、入ります」
総務部長室に来たのは今村均作戦課長です。今村大佐は、職掌外のことながら、十月事件逮捕者の処分を気にかけていました。
「拘束された十二名の大部分は参謀将校であり、過激なクーデターを計画したものの未遂に終わっています。いずれも前途有為な人材であります。軍職から去らしめられることのなきようご高配を願います」
要するに嘆願です。今村大佐自身も今回のクーデター計画にまったく無関係というわけではありませんでした。梅津少将は黙って聞いています。その顔には表情がありません。梅津少将はハンサムといってよいほど端整な顔立ちをしていましたが、表情には乏しく、「能面」という仇名があります。そして、梅津総務部長の机の上には冊子どころか書類の一枚もありません。ただ、赤鉛筆一本だけが置かれています。几帳面な梅津少将は、身辺整理や身だしなみに隙がありませんでした。それにしても、書類が机上に全くないというのは驚異です。総務部長の職掌範囲は広く、職務に必要な関係法令、軍律、判例、行政書式などは膨大です。通常なら、それらの書類を机上に置いて参考にする必要があります。しかし、梅津少将は、それらを全て記憶しているようでした。だから、梅津少将の身辺には書類らしい書類がありません。赤鉛筆一本あれば事足りたのです。
梅津美治郎という人物は、日記はおろかメモさえ滅多に書き残さず、歌や詩も詠まず、遺書さえ残しませんでした。加えて極端なほどの無口であり、社交家でもありませんでした。人から揮毫を頼まれても、「軍人は文字を書くために存在せず」と言い訳して一切を断りました。母校の扁額さえ断りました。陸軍の顕職を歴任した顕官でありながら、これほど手がかりを後世に残さなかった人物も珍しいといえます。唯一の例外は手紙です。相手の心を打つような手紙を遠隔地から書きました。また、書簡を受け取れば丁寧に返信を書きました。無口ではあっても気配りのゆきとどいた人物だったようです。
今村大佐の意見を黙って聞いた梅津少将は、無表情なまま答えました。
「今度の事件の処分問題は、人事局長と相談の上、明日、上司の決裁を仰ぐ予定である」
人事案を口にできるはずがありません。今村大佐も返答を期待していたわけではありませんから、一礼して退出しました。
十月事件の逮捕者に対する処分は寛大でした。拘束された十二名は中央の要職から地方の連隊へと配置転換されていきました。
梅津総務部長の部下に東條英機大佐がいました。編制・動員課長です。東條大佐の精勤ぶりに梅津少将は満足しています。報告や起案書の文章が正確で、説明を求めれば誰よりも詳細に語ります。それでいて事務処理が迅速でした。即断即決主義の東條大佐は、その日に思いついたことはその日のうちに処理するのを常としました。梅津部長にしてみれば東條課長の起案書を保留したり決裁したりすることで軍務全般の進捗を制御することができました。実に重宝する部下です。
梅津少将も几帳面でしたが、東條大佐の几帳面はその上をいき、しかも他者に対して攻撃的でした。東條大佐は異常なまでのメモ魔であり、何でもかんでも詳細にメモしました。書きためたメモを東條大佐は分類し、必要に応じていつでも取り出せるように整理しています。部下の報告を盲信せず、必ず自分のメモと照らし合わせて細かい数字まで確認しました。わずかでも誤りを見つければカミナリを落とします。そんな東條大佐の仕事ぶりは緻密かつ堅牢であり、事務官僚として申し分ありません。
十二月になってもなお満洲事変は続いています。関東軍は錦州への攻撃を開始しました。国内では、満洲事変の処理に関して無能ぶりをさらけ出した若槻礼次郎内閣が総辞職し、犬養毅内閣が成立しました。
年が明けて昭和七年一月になると上海の日本租界が蒋介石指揮下の大軍に囲まれました。第一次上海事変です。日本租界の日本軍は海軍陸戦隊三千名ほどに過ぎません。蒋介石にしてみれば十分に勝機のある攻勢作戦です。寡兵の海軍陸戦隊は奮戦しましたが、なにぶん敵は雲霞の如き大軍です。しかも便衣兵が上海市内に侵入するために防戦は困難を極めました。
ここに至り、政府と参謀本部は内地師団の派兵を決断しました。海軍は海軍陸戦隊七千名を上海に急行させました。やや遅れて陸軍も第九師団と混成第二十四旅団を上海に上陸させました。
上海ではなお苦戦が続いたため、さらに二個師団の増派が決められました。上海派遣軍が編成され、軍司令官に白川義則大将が親補されました。白川大将は輸送船内から総攻撃を命じ、三日間で蒋介石軍を上海租界から二十キロ圏外に駆逐しました。そして、間髪を入れずに白川大将は停戦して進軍を止めました。この水際だった上海派遣軍の行動は国際世論から賞賛されました。
しかし、それも長続きしません。国際世論は、満洲事変を日本による満洲侵略だとし、非難します。満洲の実情に疎い欧米列国は、無知ゆえに日本の行為を侵略と理解したのです。その無知は、もとをたどれば、孫文の大嘘に原因がありました。
「中華民国領は旧清国領であるべきだ」
これこそ孫文の大ボラです。清国とは、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットの連合体と植民地としての支那とからなる連邦国家でした。よって、清朝が倒れれば、連邦は解体され、各国は元に戻って分裂するのが当然です。しかし、孫文はここで列国をだまし、舌先三寸で広大な旧清国領を手に入れようと画策したのです。「孫大砲」という仇名どおりの大ボラです。この大ボラは、単なる嘘ではおさまらず、歴史を揺るがす大嘘になっていきます。その意味で孫文はじつに罪深い男だと言わざるを得ません。
孫文の大ボラにだまされた欧米諸国と、孫文の大嘘を見抜いていた日本とのあいだに認識の齟齬が生じてしまい、これが徐々に拡大して亀裂となっていきます。孫文のホラ話を信じた欧米列国は、日本の満州進出を中華民国に対する日本の侵略だと認識しました。
「そんなバカな話があるか」
というのが日本側の言い分です。満洲は、もともと女直族という騎馬民族の故地です。満洲が中華民国の領土であるはずがないのです。しかし、国際連盟加盟国の大部分が欧州諸国だったため、英語の得意な孫文の大嘘が国際世論となってしまい、日本は孤立無援となりました。孫文こそが日本を窮境に陥れた張本人だと言ってよいでしょう。
日本政府は困りました。国際的な非難が集まっているとはいえ、すでに満洲の大半は関東軍の制圧下にあります。この満洲を、劣悪な張学良軍閥に返還するのは非現実的です。在満邦人の生命財産が危うくなるし、そもそも孫文の大嘘によって生じた誤解なのです。ワシントン条約や国際法を日本は律儀に守りましたが、支那軍閥政府にはそれらを守る意志も能力もありません。蒋介石とて同様です。やはり任せられません。実際問題として、日本が満洲の治安を回復して統治する以外に現実的な手段は皆無でした。
この時代の国際法と国際慣行に照らせば、日本の行為は十分に正当なものです。政情不安定な隣接地を列強諸国は容赦なく収奪して植民地化しています。それに比べれば、日本の満洲支配には充分な理由があります。ただ、欧米諸国の無知と、孫文の大嘘と、反日プロパガンダと、そして日本外交の長年にわたる不作為があっただけです。
昭和七年三月、満洲国は独立を宣言します。犬養毅内閣は満州国を国家承認しませんでしたが、五・一五事件で犬養総理は凶弾に倒れました。あとをうけた斎藤実内閣は、同年七月、満洲国を承認し、国際連盟から脱退しました。これを主導したのは内田康哉外務大臣です。
内田康哉はワシントン条約成立に尽力した国際協調主義の外交家でした。ところが、成立したワシントン条約が支那大陸では一向に守られないことに強く失望していました。日本政府は懸命に遵守しているのに支那大陸の軍閥政府はまったく守らなかったのです。この事態に業を煮やした日本政府は、内田康哉を特使としてアメリカに派遣し、意向を探らせるとともに、ひとつの提案をしました。
「中華民国にワシントン条約を守らせるようアメリカから圧力をかけてほしい」
そもそもワシントン条約を主導したのはアメリカでしたから、当然の提案だったでしょう。しかし、アメリカ政府は言を曖昧にして返答せず、内田特使を失望させました。その後、駐米大使が再三にわたりアメリカ政府の意向を質したところ、ついに出てきた返答は驚くべきものでした。
「各国は独自に行動する権利を有する」
これではワシントン条約の意味がありません。ワシントン条約が欺瞞に過ぎなかったことに気づいた内田康哉は激高し、以後、強硬な独自路線をとるようになり、満州事変を支持し、国際連盟脱退を主導したのです。
ともかく日本は満州を手中にしてしまいました。以後、日本は満洲の近代化と防衛に取り組むことになります。広大な領土を勢力圏となし得たことは確かに日本の国益です。しかし、日本陸軍にとって満洲の防衛は大きな負担となります。大陸軍国であるソ連と国境を接する広大な満洲を防衛するためには極東ソ連軍に匹敵する軍備を新たに整備しなければなりません。農業を主要産業とする島国日本にとって満洲防衛は過重というべき負担です。
陸軍編制の企画は参謀本部総務部長の職務です。梅津美治郎少将は多忙になりました。東條課長に命じて軍備改革案を作成させ、これを省部の関係各課と共に検討しました。満洲防衛のためには永久常置師団を満洲に置かねばなりません。このため内地師団を移駐させることになりました。また、ソビエト極東軍に対抗するためには各兵科の装備を充実させねばなりません。航空機、戦車、装甲車、重砲の増強が必要です。広大な満洲で内線作戦を展開するためには鉄道網と道路網の整備も必要です。このため鉄道隊、工兵隊、通信隊の統合整理が必要になります。五千キロにも及ぶ長大なソ満国境を警備するためには国境守備隊や独立守備隊が必要です。加えて戦略要地には永久要塞を構築しておかねばなりません。天文学的な予算が必要になります。しかし、日本の国家予算は限られているし、帝国議会の協賛がなければ予算は成立しません。満洲の防衛は一歩一歩、地道に進めていくしかありませんでした。
昭和八年六月、陸軍の国防方針を根本から再検討するため、荒木貞夫陸軍大臣は省部会議を招集しました。満洲事変後の国際情勢を検討し、大胆な軍制改革を断行するのが目的です。陸軍省と参謀本部の課長以上が一堂に会する大会議です。帝国陸軍にとっての最大の脅威が極東ソ連軍であることには全員が同意しました。しかし、対ソ方針について意見が分かれました。なかでも永田鉄山少将と小畑敏四郎少将とは語り草になるほどの激しい論戦を交わしました。
「わが陸軍の実力は、ソ連軍に比べれば兵器や装備や兵力量の面で二流でしかなく、ソ連侵攻は不可能である。よって極東ソ連軍が強大化しないよう常にこれを叩き、また叩き、叩き続けねばならぬ」
こう主張したのは小畑少将です。ソ連との恒常的かつ小規模な戦争状態を覚悟せよというのです。したがって、支那との和平、英米との静謐が絶対的な前提条件となります。後顧の憂いをなくした上で対ソ防衛のための小規模戦争を戦い続けるという構想です。この構想は、突飛な作戦に思えましたが、「作戦の鬼」との異名を持つ小畑少将の傲然たる態度には非常な説得力がありました。この小畑案に激しく反論したのが永田鉄山少将です。
「まず支那を一撃し、支那を思うままにし、日満支の資源を総動員してソ連軍に備えるべし」
総力戦の権威らしい発想です。満洲を開発し、さらに支那を一撃して支配下に置き、その資源を対ソ戦に動員するのです。それにしても「支那を一撃して思うままにする」とはどういうことなのか、永田少将に対して荒木陸相が質問しました。
「支那を叩くというが、これは決して武力だけで片のつくものではない。しかも支那と戦争すれば英米が黙っていない。必ず世界を敵とする大変な戦争になるぞ」
満洲獲得という情勢の大変化をうけて陸軍の新方針を議するという大会議は熱気にあふれました。大風呂敷な戦略構想に皆が興奮しました。しかし、梅津美治郎少将だけは発言らしい発言をせず、目立たぬ存在であり続けました。
(どうも違う)
クーデター未遂事件の処理、満洲防衛のための新編制と予算折衝、こうした実務を担当してきた梅津少将には、遠大な対ソ戦略がどれもこれも画餅に見えたのです。
(そんな予算がどこにあるか)
また、十月事件の逮捕者を寛大に処置した梅津少将は、昨年の五・一五事件を見て、臍を噛んでいました。
(あのとき厳罰に処しておけば)
陸軍の現状は、中堅将校が反乱を企てて実行するような状態です。要するに、軍紀が弛んでいる上に、兵力も予算も実に乏しいのです。
(検討すべきは統制の厳格化と、経済復興による国家予算拡大ではあるまいか)
梅津少将は沈黙を守りつつ、秘かに考えをめぐらせました。