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第十三章その4 東西おでん論争

 久野瀬さんに呼び出された俺が向かったのは、一人暮らしのお婆ちゃんの家だ。


 スコップを持ってきてほしい、そう言われて到着した時には、既に何人かの男たちが屋根の上や玄関前で雪かきに勤しんでいた。


「大八木さーん、玄関前の雪かき、手伝ってください!」


 屋根に上から雪を落としていた久野瀬さんが俺を呼ぶ。


 玄関前にどさどさと落とされる白い塊。しかし屋根の上にはまだまだ大量の雪が残っているのを見て、俺はぞぞっと戦慄した。




「いやあ、すまないねえ」


 もう肩も腕もぱんぱんだ。立っているのもやっとの俺の前に、家主であるお婆ちゃんが温かいお茶を淹れて持ってくる。


「お婆ちゃん、気にしなくていいですよ。困ったときはお互い様ですから」


 こんな重労働の後でもピンピンしている久野瀬さんは、お茶を受け取って豪語する。


 余呉には一人暮らしのお年寄りも多い。雪かきも一苦労なので、必要が生じた際にはこうやって近所の人々が共同で作業を手伝うのだ。


 今ここに集まっているのは、この集落でも比較的若い男たち(と言っても既に定年退職を迎えた方も混じっている)。体力がまだある内は何かと召集されるこの町の実働部隊だ。


「さあ、次の家に行きましょう!」


 うひー、勘弁してくれ。すでにへろへろの俺だが、この寒さの中では流れた涙も凍り付いてしまいそうだった。




 その夜、雪かきに参加した面々は町内会長の室田さんの家に集められた。


 雪かきのお礼にと、お婆さんたちが食材を持ち寄って料理を振る舞ってくれたのだ。


 室田さんの自宅は昔ながらの農家で延べ床面積も大きく、我が家と同様に和室の襖を取り払えば田の字型の大広間が完成する。ご先祖様の写真や何かの感謝状、藤の枝を担いだ女性の大津絵などに見守られながら、俺と室田さん他男たちは酒を酌み交わしていた。


「ありがとねぇ、こんなものしかないけれど」


 そう言いながらお婆さんはぐつぐつと煮えたぎる鍋を持ってくる。


 中はおでんだ。甘い出汁の香りが部屋に漂い、男たちは一様に色めき立った。


 ご近所付き合いは苦労も多いが、こういう見返りも大きい。雪かきの疲れも美味しそうなおでんの登場にどうでもよくなってしまった。


「わーい、俺ちくわぶ好きなんですよ」


 一人暮らしだとおでんを食べる機会は滅多にない。俺の独り言を聞いたのか、お婆さんは取り皿に具をよそい、俺の前に置いた。


「はい、どうぞ」


 箸を手にした俺はわくわくと取り皿を覗き込む。


 盛られたのはただの焼ちくわだった。


「あの、ちくわぶってありませんか?」


 聞いた瞬間、お婆さんの時間が止まる。それは酒を飲んでいた男たちも同じだった。


「ちくわぶ?」


「何ですか、それ?」


 和やかだった部屋の空気が一変する。何だこの疎外感は、まるでみんな俺を紛れ込んだよそ者のように扱っているぞ。


「ああ、ちくわぶってあれですかね? ギザギザしたちくわみたいなちくわじゃないの」


 助け船を出したのは久野瀬さんだった。俺はすがるように「そう、それです!」と泣きつく。


「あれ、食べられるの関東だけなんですよ。私も昔出張で東京に行った時、初めて目にしましたよ」


 ええ、それは初耳!


 どうやらちくわぶは関東のローカル食材らしく、首都圏周辺でしか食べられていないようだ。


 これまでそうめんや心太ところてんで食に対するカルチャーショックを散々受けてきたが、まさかおでんのタネにまで違いがあるなんて。


 まさかと思い改めて鍋の中を見てみる。なんとはんぺんも入ってないぞ、これは解せぬ。


 あんな美味しいの外すなんて、どうかしてるよ……と心の中で愚痴を漏らしていると、久野瀬さんの手が鍋に伸びる。


 久野瀬さんが鍋の底から引き当てたのは、串にささった焼き鳥のようなものだった。


 何だコレ? 俺は目を点にした。


「お、大当たり!」


 当の本人は嬉しそうに未知の物体を取り皿によそう。


「久野瀬さん、何ですかそれ!?」


 俺が尋ねると、久野瀬さんは嬉しそうに答えた。


「ええ、牛すじですよ」


「牛すじ?」


「はい、東京ではあんまし入れないですけど、西日本ではおでんに牛すじは欠かせません。ここから出てくる出汁が、おでんの美味しさをぐっと高めてくれるんですよ」


 マジかよ……和食だと思っていたおでんに肉を使うなんて。


 俺の知ってるおでんじゃないよこんなの、と思いながらもとりあえず一口、よそわれたちくわを口に運ぶ。


 しかしそんな不満などもうどうでもよかった。ただの焼きちくわのはずなのに口に入れたその時から広がる重層的な味わいに俺はたちまちノックアウトされてしまった。


 薄口醤油と出汁をベースに、さらに魚の練り物や牛すじのエキスがしみ出して深いコクを生み出している。甘い、苦い、しょっぱい、さまざまな味覚が同時に舌を刺激し、次の具を次の具をと脳がお腹が際限なく欲している。


 あっという間に取り皿を空っぽにした俺は、鍋に取り箸を伸ばした。そこで引き当てたのは、豆腐のようなはんぺんのような、不思議な白い四角形の塊だった。


「これは?」


「ああ、丁字麩ちょうじふだよ」


 隣のおじさんがお猪口を傾けながら答える。


「これも関西では一般的なのですか?」


 けろっと尋ねる俺に、久野瀬さんは苦笑いして返した。


「いえ、これは彦根の名産品です。私もこっちに来て初めて見て驚きましたよ。西日本でも大阪周辺か中国地方か、日本海側かでおでんの具は変わりますから」


 マジかよ、おでん奥深すぎだろ。一概に東西の違いだけでは片づけられないカテゴリーが、おでん界には存在するようだ。


 この日本に無数に存在するおでんをひとりの人間が網羅するには、一生涯かかるかもしれない。


 おでんの創造する宇宙の広さに茫然とする俺。その隣で、すでに徳利を空にしたおじさんが不意に切り出した。


「そう言えば来年もあれ、要請来るんですかねえ?」


 あれ? 何だろう、恒例のイベントかな?


 他の男性たちも「ああ、あれですね」と思い出したように手を打つ。どうやらここでは口に出さずとも通じる常識となっているようだ。


 なんだか置いてけぼりを喰らっているようで寂しいな。俺は久野瀬さんに顔を近付け、「あれって何ですか?」と小さく尋ねた。


「ええ、曳山ひきやま祭りのことです。毎年4月、長浜で開かれている大きな祭りですよ」

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