第十三章その1 冬、来たる
紅葉の秋も過ぎ去り、山の木々も枯れ葉を落とす季節。雄大な伊吹山にも頂から徐々に雪に染まり始め、今はもう中腹ほどまで白い雪化粧が施されている。
12月の余呉は寒かった。山を越えて日本海から吹き付ける北風が、築120年の我が家をガタガタと揺らす。
「あれ、そのタイヤ」
朝、郵便受けを覗きに行った俺は白い息を吐きながら、通勤途中の久野瀬さんに挨拶する。車を運転していた久野瀬さんは一旦停止して窓を開けた。
久野瀬さんの運転する乗用車のタイヤには、がっちりとチェーンが巻き付けられていた。アスファルトにも優しいゴム製だが、東京では見慣れない装備に俺はめざとく気付く。
「ええ、もうすぐ雪が降りますから早めに巻いておいたんですよ。ここは毎年雪が積もりますから。大八木さんもチェーンは巻きました?」
「いえ、それがまだなんです」
俺は目を逸らしてポリポリと頭を掻く。東京は太平洋側に位置するため、冬は乾燥して滅多に雪が降らないのだ。
数年に一度どさっと降ることもあるが、そういう場合は交通網のマヒやら路面凍結やらであまりにも混乱し過ぎて車を運転しようという発想自体が湧かない。ゆえに冬になったらチェーンを巻くという概念そのものが、頭から抜け落ちていた。
「早めに着けた方がいいですよ。じゃないとその内、家から一歩も出られなくなってしまいますよ」
そんな脅すみたいに、大袈裟だなぁ。
郵便受けに投函されていた広告の紙を回収し、家の中へと引っ込んだ俺は居間で朝ごはんをいただく。こんな寒い朝でも炊きたてご飯と温かい味噌汁が食べられるとは、なんたる幸たるせだろうか。
テレビを点けると、ちょうどニュースの天気予報が映し出される。男性キャスターが日本列島の地図を背に、これからの天気を解説する。
「大陸で発達した低気圧が西から近付いてきます。今夜から明日朝にかけて、日本海沿岸部では広範囲にわたって雪が降るでしょう」
「雪かぁ、ちょっと楽しみだな」
俺は何気なくぽろりとこぼした。
太平洋側に位置する東京において、冬は北西から乾いた風の吹き付ける季節。雲ひとつない澄みきった快晴が連日続き、雪なんてうっすら積もるだけでも大騒ぎだ。
だから雪が積もりますよと聞いても、大変だろうな、よりも楽しみだな、と期待してしまう部分が大きい。年甲斐もなく雪だるまとか作っちゃったりして。
しかしそうやって気楽にテレビを見る俺に、天花ちゃんは味噌汁のお椀片手に信じられないといった視線を飛ばした。
(どこが?)
そしてタブレットの画面を見せつける。
「東京じゃ雪なんて滅多に降らないんだよ」
雪が毎年降る地域の人間には、30年ずっと東京育ちの俺の気持ちはわかるまい。普段とは異なる非日常にワクワクするのは大人も子供も同じだ。
何年か前に東京で雪が積もった時、積雪はうっすらと地面を覆うくらいしかなかった。近所の家からは子供たちが飛び出し、必死で雪をかき集めて雪だるまを作っていた。
既に成人していた俺でさえも、ベランダのわずかな雪を集めて手のひらサイズの雪だるまを作ったのだ。雪の降らない地域の人間の、雪に対する憧れは最早執着と呼んでよい。
しかし天花ちゃんはなおも冷ややかな視線を俺に飛ばしていた。
(ここは毎年雪が降るから、珍しいとか思わない。むしろ面倒)
「面倒って。冬なんて寒くて乾燥して、皮膚弱い奴には地獄なんだぞ。スキーで遊べるって思っても雪も降らないんじゃますます冬は辛いだけに……」
くどくどと愚痴をこぼす俺は、自分で話している内にふと気付く。
「そういえばここ、冬でもあまり乾燥しないね」
言いながら俺は自分の頬にそっと手を触れた。冬といえばいつも外に出るのが億劫になるほど肌荒れがひどくなっていたのに、こっちに来てからは乾燥肌であることを忘れてしまうくらいに肌の調子が良い。
そういえば滋賀県の湿度は全国でもかなり高い方らしい。常にでっかい湖を蓄えている上に、北部は日本海からの湿った季節風が吹き込むのが大きな要因だろうが、引っ越してきたときはそんなこと考えてもいなかった。たまたま選んだ土地だけど、もしかしたら俺の体質にとっても適していたのかもしれない。
うわっほー、雪国最高だぜ!
俺は食べ終えた食器を流し台に置くと、足取り軽く仕事部屋に向かった。そんな俺を見る天花ちゃんは、すっかり呆れ顔を貼り付けていた。
翌朝のことだった。
ゆさゆさと身体を揺さぶられる感覚に、俺は重い瞼をゆっくりと開ける。
そこにはひどく焦ったようすの天花ちゃんが、俺の顔を覗き込んでいた。
(外、ヤバいことになってる!)
慌ててタブレットの文面を見せつける天花ちゃん。
「ヤバいこと?」
まだ頭が醒めておらず、俺はのそのそと布団から這い出た。
今朝はやけに寒い。こういう伝統的な日本家屋は夏場の風通しが良い一方で、冬は寒くなるのがデメリットだな。
最近は寒いので、寝ている間は縁側の雨戸は閉めっぱなしにしている。おかげで外からの光はほとんど入らず、朝だというのに家の中は電気を灯さないと歩けないほど暗かった。
寝間着の上にジャンパーを着込み、あくび混じりで玄関を開ける。
そして眼前の光景を目にした瞬間、俺の眠気ははるか彼方まで吹き飛んでしまった。
「何だよ、これ……」
俺は唖然と口を開けたまま、その場に固まる。
玄関先、目の前にはただ白一色の壁がそびえ立っていた。なんとたった一夜にして、自分の背丈を超える高さの雪が積もってしまったのだ。
ごめんなさい、雪国舐めてました。




