第十一章その5 もふもふの前に人類はなすすべ無し!
「いやあ、これはなかなか豪快に踏み抜きましたね」
翌日、屋根裏に上がり込んだ久野瀬さんは吹き出すのを堪えながら床の大穴を見つめた。困ったときの久野瀬さんだが、恥ずかしい現場を見せてしまった。
屋根裏部屋を慎重に歩いていた久野瀬さんは、部屋の隅を中心に懐中電灯の光を当てる。
「あ、あったあった!」
そして一か所、床に木屑が集められている箇所を見つけるとすぐさま駆け寄った。
「これが巣です。前歯で梁を削って、木屑の寝床を作るんですよ」
久野瀬さんが木屑の山を指差しながら話している近くでは、梁の角が削られてまるで丸太のようになっている。つまりここから削った木屑を材料にムササビは巣を作っているようだ。
「今はいないのでしょうか?」
「ムササビはなわばりの中に複数の巣を持っていて、日によって使い分けています。昨日直接姿を見られたなら、ここは危険だと思って今日は別の巣にいるはずです。今の内に出入口を塞ぐのが一番ですよ」
なるほどね、野生動物って思った以上に用心深いんだな。
さらに周辺を調べると、排気口のひとつの前で足を止める。
「ありました、きっとこれが出入り口ですね」
そう言って久野瀬さんが排気口を指差すので見てみると、金網の一部がはがれていた。元は釘で止められていたのだろうが、いつの間にか外れてムササビが出入りできるほどの隙間が生まれていたのだろう。
「こういう所はムササビ以外にもイタチやコウモリ、スズメバチなんかの出入り口にもなります」
「うわ、入ってきたのがムササビだけでまだ運が良かったのですね」
その後、一旦下に降りた俺たちは金槌と釘を持って再び屋根裏に上がった。そして外れていた金網に釘を打ち付け、念のため忌避剤も撒いてムササビの出入り口を塞いだのだった。
久野瀬さんの言った通り、その日は夜になっても足音はしなかった。
「平穏だなぁ」
いつもなら天井から聞こえてきた物音を懐かしく思いながら、俺は食後のお茶をずずっとすする。
(天井、ちゃんと直してよね)
そう打ち込んだタブレットを見せつける天花ちゃんの顔は、なおも厳しいものだった。
「わかってるよ。明日、業者さんに連絡して工事の日を決めるよ」
画面を視界から外すように、俺はそっと居間の天井を見上げた。古い木材の張られた天井、その一部には穴が穿たれ、応急処置的に上からベニヤ板が置かれている。
しかしその直後のことだった。
ガリガリ、ガリガリ。
天井から聞こえてきた奇妙な音に、俺と天花ちゃんは点になった目を互いに合わせる。
「まだいるの!?」
俺は叫び、立ち上がった。
床を踏む足音ではなく、硬い木材を削るような音だ。今日、梁の一部が削られていたのを目にしたが、あの作業がまさか今も続けられているのか!?
でもそれはおかしい。昼間、出入口は完全に塞いだはず。俺たちの気付かなかった出入口が他にもあるってことか?
俺は一旦外に出る。辺りは既に暗くなっており、空には星が輝いていた。
そんな星明りに照らされて、我が家の屋根の上をのそのそと動き回る影を俺は見逃さなかった。
ムササビだった。体長50センチほどの大きなムササビが一匹、瓦屋根をあちこち行き来しながらうろうろしている。
しばらく帰ってくるはずはないと思っていたのに、なんという誤算だ。
「おいお前、もうあきらめて森に帰れよ!」
俺は下から野次を飛ばして威嚇した。だがムササビは人間がこんなに近くにいるのもまるで眼中に無いと言ったように、一向に屋根裏に潜ろうとも飛んで逃げようともせず、ただ屋根の上を徘徊し続けていた。
さすがにおかしい。どうしたんだろう?
その時、コンコンと掃き出しをノックする音が聞こえたので目を向けると、ガラス越しに天花ちゃんがタブレットを向けていた。
(屋根裏からも音するよ)
え、屋根裏からも?
変だな、ムササビは今屋根の上をうろうろしているはずなのに……。
「まさか?」
嫌な予感がした俺は急いで玄関に戻り、そして屋根裏に上った。
夜の屋根裏はまさに闇一色。だがたしかにガリガリと、何かが木を削るような音が暗闇の向こうから聞こえている。
急いで音のする方向に懐中電灯の光を向ける。そこにいたのはもう一匹、別のムササビが土壁に埋め込まれた木材を必死で削っている姿だった。
しかしこのムササビ、外にいるのより明らかに小さく、遠目でも手の平に載るくらいのサイズしかない。そこで俺は一目見るなり理解した。
「子供だ、出口を塞いだから外に出られなくなってるんだ」
どうやら俺たちがここ数日必死で追い出そうとしていたのは母親で、子供はずっと屋根裏で身を隠していたらしい。
あれだけ煙でいぶしても、直接追い回してもここに帰ってきた理由はこのためだったのか。そう思うとあんなに憎らしいと思っていたムササビが一変、たちまちいじらしく愛情深い生き物に思えてしまった。
俺はゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ近付く。この子を捕まえて外に出してやれば、母親もきっとこの家から離れてくれる。
そしてあと一歩といったところまで接近した時、子ムササビは木を削るのを止めて突如こちらに顔を向けた。
真ん丸で真っ黒な瞳に小さな口、そしてふわふわと柔らかい産毛のような毛並み。ぬいぐるみのような見た目に俺はにへっと頬を緩ませ、「ほーらほら、怖くないよー」と慎重に手を伸ばした。
だがその時、子ムササビはさっと跳び上がったかと思うと俺の足元を走り抜けてしまったのだった。小さくともすばしっこさは人間をはるかに超えている。
「あ、待て!」
待て、と言われて待つ野生動物がいるものか。子ムササビは屋根裏の床を懸命に走り、一目散に俺から離れる。
だがその子ムササビの走り抜ける先に、ぼうっと白い影が浮かび上がる。
天花ちゃんだ! 屋根裏部屋に突如、仁王立ちで子ムササビを真正面から迎えるセーラー服の少女が現れたのだ!
子ムササビは天花ちゃんの存在が目に見えていないのか、無防備にもまっすぐに突っ込んでいった。そして天花ちゃんは腰を低く構え、子ムササビが足元に近付いたと同時に手を伸ばし、首根っこをつかんだのだった。
何が起こったのか子ムササビは理解できず、短い手足をじたばたと動かす。だが天花ちゃんがムササビをまるで子ネコのように持ち上げると、子ムササビはぶらーんと四肢を垂らしておとなしくなってしまったのだった。
「さ、さすが幽霊。天花ちゃん、ありがとう」
ようやく安心した俺は天花ちゃんに駆け寄り、首根っこを掴まれて抵抗する意思を失った子ムササビをじっと観察する。
やはりつぶらな瞳がかわいらしい。許されるならスケッチしてこの愛らしさを記憶に残しておきたいたいところだが、心配する母親が待っているので早く外に放してやらないと。
しかし何というモフモフ具合。このまま頬ずりしたいという欲求もあるが、さすがに野生動物なのでやめておこう。
そうやって子ムササビとの別れを惜しんでいた俺だが、不意に天花ちゃんはタブレットを突き出す。
「え?」
顔を上げると、そこには頬を紅潮させデレッデレに崩れた天花ちゃんの顔があった。
写真撮って、てことか?
幽霊とはいえ女の子、可愛らしい小動物には弱いらしい。
「はい、チーズ」
タブレットのカメラを向け、俺はシャッターを焚く。
ムササビの子供を抱いてにこりと笑う天花ちゃんの顔は、今にもとろけ落ちそうだった。