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第十章その5 湧水の街

 食事券をいただいた数日後の朝、俺と天花ちゃんは車で自宅を出発した。そして余呉からおよそ50分、俺たちは伊吹山の裾野、醒ヶ井に到着した。


 駅前でも大きな建物はほとんどなく、家族経営の商店がちらほらと見られる程度ののどかな街。観光客用の無料駐車場に車を止めてしばらく歩くと、木々生い茂る山の斜面を背に建ち並ぶ昔ながらの家々。そんな道路と民家の間にはせせらぎが流れ、人は各所に渡された石橋を行き来している。


「綺麗な街だなぁ」


 今日の滋賀県はうだるほどの快晴だが、山がちなこの街は気温も低く、市街地とはまるで別世界のようだ。家屋と往来を隔てるのは、陽の光をきらきらと反射して流れる澄んだ水。日本の名水百選にも選ばれたこの街の清水は、夏の暑さも和らげてくれる。


 せっかくここまで来たのだ、料亭に行く前にちょっと歩いて回ろう。


 観光客を楽しませるためだろう、道に面した古民家はカフェや川魚料理店、お洒落な和風小物屋に改装されており、日本古来の景観を保っていた。


 昔から利用されてきたのだろう、川には水面ギリギリまで降りられる階段が設けられ、座り込んで食器や野菜の洗い物ができるだけのスペースも確保されている。そんな涼しげな川を覗き込むと、スイカやラムネの瓶が水にさらされて冷やされているのが目についた。冷蔵庫で冷やすよりも美味しそうに映るのは不思議だ。


 さらに路肩に軽トラックを停め、採れたばかりの野菜を路地で販売しているお爺さんの姿もあった。折り畳み机の上に並べられた商品には、この前天花ちゃんが料理に使ったトウガンも売られていた。


 こういう古い街並みが観光地化している場所といえば、関東においては川越が筆頭だろう。しかしここはより生活感に溢れている印象で、優れた景観でありながら地元の人々の日常の暮らしが肌で感じられる。


 だがこの醒ヶ井に来て絶対に見ておくべきものを訪ねれば、十人中十人が梅花藻ばいかもと答えるだろう。


 水温の低い清流の底に根を張り、水面から小さな白い花を突き出す梅花藻は日本固有の植物だ。静水では育たず、流れのある水でなければ大きくならないため希少価値も高いが、開花期には川面かわもすべてを花で埋め尽くし絶景を演出する。


「もう8月も終わりかけてるからねえ。ちょっと前なら梅花藻も満開だったんだけど、だいぶ少なくなったねえ」


 水で冷やされたラムネ2本を買った時、店のお婆さんがそう話してくれた。


 惜しかったなぁ、と天花ちゃんにラムネの瓶一本を手渡すと、彼女も少し不満げに口を尖らせた。


 とはいえ絶好の写生ポイントであることに違いはない。俺は川辺に腰を下ろすと、スケッチブックを開いてさらさらと2Bの鉛筆を走らせる。


「梅花藻ってこんな風に育っているのか、なるほど」


 あまり時間はかけられないので、一気に集中モードに切り替えた俺はひたすらに目に映ったもの、感じたことを紙にぶつける。波打つ川面、花弁の付き方、水に揺られる躍動。初めて気が付いたことは特に念入りに、表現の方法を試行する。


 天花ちゃんも傍に座り込んでスケッチブックを覗き込んでいたものの、ラムネを飲み干したあたりで退屈し始めてしまったようだ。だが俺の方がなおもデッサンを続けているので、タブレット端末をいじるとその画面を俺の目の前に突き出した。


(この風景、菫坂先生にも見せてあげたかったね)


「うん、そうだね。先生ならきっと……て何言わすんじゃい!」


 すっかり集中していた俺に水を差した少女は、叱りつける俺に対してにへへと笑った。


 どうも最近、天花ちゃんがどんどん意地悪になっている気がする。




「いらっしゃいませ」


 料亭に到着した俺を女将が案内したのは、清流と山の木々を見下ろす和室だった。秋になればきっと紅葉が美しいと自信を持って言える。


 そして俺の前に出されたのは、順々に少量ずつ料理が供される会席料理だ。普通ならこんな料理、ひとりじゃ頼もうとも思わないレベルだ。


 突き出しの後に運ばれてきたのは新鮮な刺身。一見よくあるサーモンのようだが、実はビワマスという聞き慣れない魚を使っているそうだ。


「ビワマスの刺身って、聞いたこともなかったなぁ」


 ビワマスとはイワナやヤマメと同じサケの仲間だが、その名のとおり琵琶湖を原産とする。


 試しに一切れ、口に運んでみる。瞬間、舌の上で脂が溶ける感触がして、馴れ親しんだサーモンに似た甘味とうま味が広がった。


「美味い!」


 正直ここまでの味なんて思ってもいなかった。養殖でも流通量が少ないのが大層悔やまれる。


 その他にも自然薯じねんじょ朴葉焼ほうばやきと、和の高級食材が目白押しだ。


 この豪勢な料理には天花ちゃんも大満足のようで、俺の皿からいくらか魚の身や肉を失敬すると、美味しそうに味わっていた。まあ、この後ですっかり味の失われた食材を可能な限り腹に掻き込むのは俺の役割なのだが。




 帰る途中で買い物も済ませていると、帰宅した頃には辺りはすっかり暗くなっていた。


 観光して、絵を描いて、美味しい料理を食べて。本当に充実した1日だった。と同時になんだか疲れてしまった。


 買ってきた食材を冷蔵庫に突っ込んだ俺は、靴下を脱ぎ捨てるや否や居間の畳にごろんと寝転がる。布団の上でもないのにこのまま眠ってしまいそうな気分だが、それでもいいかなと思えてしまうほどの充足感。


 しかしその時だ。


 トットット。


「ん?」


 奇妙な物音に、俺は重くなった瞼を開く。


「何だ、この音?」


 俺はゆっくりと上体を起こし、耳を研ぎ澄ませた。


 トットット。


 まただ。音は天井から聞こえていた。何かが音を立てて移動しているようだ。


 じっと天井を見上げる俺の隣で、天花ちゃんが急いでタブレットに文字を打ち込む。


(昨日の夜も音がしてた。気のせいだと思ってたけど)


 となると何か生き物が住み着いてるのか?


(虫じゃないよね!?)


 天花ちゃんはそう表示された画面を見せながらびくびくと怯えていた。


 よっぽど虫が嫌いなようだが、こんな音立てる虫なんてアマゾンの奥地にもいない。それなりの大きさの生き物が歩いているように聞こえる。


「もしかして幽霊だったりして」


 笑いながら俺は言う。しかし聞くなり天花ちゃんはものすごい勢いで画面に打ち込んだ。


(怖いこと言わないで!)


 ええ……あんたが言う?

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― 新着の感想 ―
[一言] 幽霊を怖がる幽霊。まさにじかくなし(笑) あと、いつかしゃべれるようになるといいなぁなんて思ってます。幽霊生活のレベルが上がれば話せるようになるんかな。
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