第十章その1 真夏のお見合い
「緊張するなぁ……」
真夏だというのにクリーニングから戻ってきたばかりのスーツに身を包んだ俺は、正座してネクタイを整える。スーツなんて着たの、去年の友人の結婚式以来だぞ。
勢いでとは言え受けてしまったお見合いだ。しかしいざ本番となるともう逃げ出したい気分だった。
仕事なら初めての人に会うのもあまり抵抗はないのにこの体たらく。本当、俺って意気地がないなぁ。
ちなみに今日も天花ちゃんは家でお留守番だ。成功したら赤飯炊いてあげる、て言ってたけど……あいつ半分楽しんでるだろ。
ここは余呉湖の畔、山と湖に挟まれた高級料亭だ。和室の窓からは余呉湖と賤ヶ岳の山水を眺める、小さな子供は入店不可という静かで隔絶された異空間。まさかこんな古風なお見合い、今時珍しいよ。
「大八木さん、リラックスリラックス」
仲人の室田さんがわざとおどけたように言う。いつもの作業着からは連想さえできない、きちんとした背広姿だ。
「自然体でいいのですよ。夫婦になってから後悔しては遅いのですから……と、準備できたようですね」
いよいよか。俺はごくっと唾を飲み込んだ。
音も立てず襖が開かれ、安井さん夫婦と共にひとりの着物姿の女性が入室する。
「初めまして、安井千秋と申します」
丸く大きな目に、結い上げた長い髪。淡い桃色に古典的な吉祥文様のシンプルな訪問着でさえも垢抜けて見える。
写真で見るよりはるかにきれいな人だった。
机をはさんで目の前に座る女性。俺の緊張は頂点に達していた。
「ど、どうも、大八木です。ほ、本日はありがとうございあす」
やべ、最後発音できてねえ。
傍らの室田さんが吹き出すのを堪えながら立ち上がると、にやけ顔をこちらに向ける。
「じゃあ、あとは若いお二人に」
うわ、本当にこんなベタなセリフ聞く日が来るなんて。俺は自分がもう戻れない状況にあることを、ようやくここで実感した。
年配者が去り、部屋に残ったのは俺と、和装美人。
何を話そう? あんなに事前にシミュレーションしたのに、いざ本人を前にすると頭が真っ白でろくに舌が動かない。
「大八木さん」
だが意外なことに、先に口を開いたのは安井さんだった。思わず俺は「は、はい」と間の抜けた返事を飛ばす。
「お忙しいのに本日はお付き合いくださり、ありがとうございます」
深々と、結い上げた頭を下げる。すっと伸びる首筋に釘付けになりながらも、俺は「いえいえ」と首を横に振った。
「そちらこそわざわざお越しくださりありがとうございます。それに私は自由業なんで、仕事はいくらでも調整できますから」
安井さんが頭を上げる。形式的な挨拶とはいえ、その安心した笑みに嘘は感じられなかった。
「イラストレーターとお聞きしていますが、どんなお仕事を?」
「色々です。ラノ……いや、本の表紙とか広告とか」
嘘じゃないぞ、嘘じゃ。ただ美少女ハーレムもので際どい格好の女の子描いてます、とか言ったらドン引きされるだろうしな。ものは言いようってやつだ。
「安井さんも幼稚園で先生をされていらっしゃるそうですね。大変だと思います」
「ええ、いつも子どもたちには振り回されてばかりです。ですがみんなの笑顔を見ていると、頑張ろうって思えてくるものですよ」
最初こそしどろもどろしたものの、言葉を交わすうちに俺の緊張は解けていった。安井さんの丁寧かつ飾らない受け答えに、俺も肩ひじ張っていたのが楽になっていったのかもしれない。
「時間のある時はネタ集めのため、家を飛び出してきれいな風景を見たり、美術館を回っています。最近はご実家にいらっしゃるグエンさんを連れて、よくふたりで出かけたりもします」
「グエンさんって、ロン君のことですね」
安井さんがふふっと笑みを漏らす。
ロン君? 一瞬詰まったが、そう言えばあの人のフルネームはグエン・ヴァン・ロンだったな。下の名前で呼ぶのでちょっと考えてしまった。
「はい。グエンさんのことをご存知なんですね」
「ええ、休みの日には家の手伝いによく帰っていますので。あの人は働き者で、両親も大変助かっています」
「安井さんのような方からも信頼されるなんて、ロン君は果報者だなぁ」
ちょっと意地悪に言ってみる。聞いて安井さんは「ふふ」と小さく笑った。
「そう言う大八木さんだって。気難しいうちの親に気に入られるなんて、なかなかないですよ」
「それはラッキーでした。とりあえず失礼のないようにって外面取り繕っていたら、まさかお見合いなんて。結婚なんて考えたことも無かった私からすれば、今でも嘘のようです」
「うちの親がご迷惑おかけしました。本当に、自分の子はおろか大八木さんの都合も考えないなんて」
ん?
それまで得意げに話していた俺は、妙な引っ掛かりを覚えて会話に詰まる。
自分の子? 今のセリフからすると、まるで千秋さんの方にも結婚願望が無いみたいな言い方じゃないか。
この人、もしかして。
「あの、安井さん」
俺は声のトーンを少し下げた。相手は「はい?」と愛想よく答える。
「つかぬことお聞きしますが……今現在、気になっている方がいらっしゃいませんか?」
こんな質問、お見合いの席では御法度であることなど恋愛素人の俺でもわかっていた。だがどうしても確認したかったのだ。
彼女は笑顔のまま沈黙していた。しんと静まる和室。窓から聞こえるセミの声だけが、時の流れを告げている。
そしてとうとう彼女は少し目を逸らし、呟くように言った。
「否定は……できませんね」
やっぱり。
「それじゃあ私とお見合いなんかしてる場合じゃないですよ。是非その方に思いを打ち明けるべきです」
俺は半分声を荒げていた。俺のようなパッと出の男よりも、本当に好きな人と結ばれる方が安井さんのためであるのは当然だ。
「ありがとうございます」
だがそれでも安井さんはまたしても微笑んで答えるばかりだ。しかしその笑顔には、どことなく陰りがこもっていた。
「ですがそれが叶わないことは重々承知しています。特に父は……私にはできるだけ近くにいてほしいと思っているでしょうから」
ここで俺はピンときた。安井さんの想う人って、もしかして……。




