第九章その2 田舎では通りがかりに声をかけられることが多い
翌日、携帯電話ショップから出てきた俺は、タブレット端末を抱えながらほくほく顔で隣を歩く天花ちゃんに話しかける。
「これでネットも自由だよ」
(マンガ読み放題!)
早速端末のテキスト画面に打ち込む天花ちゃん。さすが呑み込みが早い。
「違法サイトにはつながないでね」
文句をこぼしながらも俺は車の運転席に乗り込んだ。
ここは木之本よりさらにひとつ隣町の高月という地区だ。普段の買い物で立ち寄ることはないが、俺の使っている電話会社の最寄りのアンテナショップがここだったので足を伸ばしてきたのだった。
せっかくここまで来たんだし、これだけで帰るというのももったいないなぁ。
「天花ちゃん、どこか寄りたい所ない?」
そう訊かれて助手席の天花ちゃんはしばらく考える。そして思いついたようにタブレットに打ち込むと、俺に画面を見せつけた。
(高月の観音様を拝みたい)
「観音様?」
仏像のことだろうか。随分と渋い選択肢をチョイスしたなぁ。
スマホで調べてみると、どうやらここ高月の渡岸寺観音堂には、国宝の十一面観音立像が置かれているらしい。
「へえ、滋賀県てそんなすごいもんあるんだ」
意外に思うかもしれないが、滋賀県内の国宝・重要文化財の数は東京都、京都府、奈良県に次ぐ4位だ。現首都、かつての都に続いて国立博物館も置かれていないマイナー県がランクインするなんて驚きだ。
考えてみれば京都に近い上に交通と防衛の要衝ということもあって、古くから人が住んでいたのだろう。遺構や古い社寺が残っていて当然と言える。特にこの湖北地方は観音信仰が根付いているようで、今でも集落の住民がお堂の維持管理を担っているらしい。
「じゃあせっかくだし、行ってみよっか」
キーを回してエンジンをかけると、たちまち計器類が動き出す。そしてカーナビに行先を打ち込んで準備を整えると、俺はアクセルを踏んで車を発進させた。
国道からひとつ小さな道に入ると、車はやがて古い集落に入り込む。農村地帯では広大な田園の一か所に人家が密集して暮らしていることが多く、今でも昔ながらの共同体が維持されている。
そして人が集まれば信仰も生まれる。どんなに小さな集落でも必ずと言っていいほど、ひとつは立派なお寺が置かれているのが常だ。
昔の道をそのまま舗装したのだろう、古い家々に囲まれた狭く曲がりくねった道を抜けた先、お寺の駐車場に車を止める。そして木々に囲まれた仁王門をくぐった俺たちを出迎えてくれたのは、一面の砂利を石畳が貫く厳かな空間と、向こう側に聳える観音堂。その観音堂と直結する展示館に、国宝の観音様は安置されているようだ。
入館料を払いお堂の渡り廊下から展示館に入る。空調の効いた部屋の中、観音様は博物館のようなガラス越しではなく、すぐ目の前に置かれていた。
三面の顔を持つ美しい立ち姿の観音さまだ。
男とも女ともとれる中性的なやさしい顔つき。しかし少しくびれた腰をひねる姿は妖艶でもあった。
彫られたのはなんと9世紀、1100年以上前とのこと。
肌の肌理も細かく、たなびく衣も一瞬を切り取ったような仕上がり。こんな一目で傑作とわかる仏像がすぐ近くにあったなんて、俺は不覚にも衝撃を受けて完全に目を奪われてしまった。
ふと正気に戻って傍らを見ると、天花ちゃんがそっと両手を合わせて拝んでいる。
信心深い家庭に育ったのだろう。そう言えば今は使っていないが、我が家の床の間の隣には仏壇を収納しておくための観音開きの扉が設けられている。かなり立派な仏壇も収納できるサイズがあるので、生前は法事の時にはよくご先祖様にお経をあげていたのかもしれない。
しかし仏壇なんて持っていない俺にとっては完全に無用の長物だよなぁ。元が元だけに仏壇以外の物を収納しておこうとは思えないし、そもそも現状収納に困っていないし。
そんなこんな考えている内に、天花ちゃんは合わせた手をそっと下ろして目を開いた。随分と熱心に念じていたが、何を考えていたのだろう?
「天花ちゃん、何お願いしたの?」
(ちゃんと極楽に行けますようにって)
「……割とシャレにならんね」
果たして仏様を拝む幽霊がこれまでにいただろうか。
その後ホームセンターに立ち寄って帰宅した俺たちは、一休みしてから裏庭に回った。
そして納屋にあった鍬を使い、裏庭を耕し始める。いよいよ家庭菜園のスタートだ。
しかしいくら幽霊の天花ちゃんでも力仕事は辛いようで、鍬を振り上げると足元がフラフラとよろけてしまう。
こういう時は俺の出番だ。意外に思えるかもしれないが、昔からペンを握り続けているせいか握力だけは自信あるんだぞ。
今日の内に土を掘り返して、ホームセンターで買ってきた石灰や堆肥を2週間ほどかけて馴染ませる。実は苗はすぐに植えられるものではなく、先に野菜の育ちやすい土質に土壌を改良しておかないとうまくいかないという。雑草なんてどこからでも生えてくる気がするが、それはあいつらの生命力が異常に逞しいだけなのだ。
そうやって土作りを完了してから、ようやく野菜の苗を植えたり種を蒔いたりする。家庭菜園なんて年配の人の気楽な趣味だろと思っている人もいるかもしれないが、実際はかなりの手間と時間がかかるのだ。一朝一夕で成し遂げられるものではない。
しかしこの裏庭、長いこと放置されていたせいか土が固い。鍬を入れてもちょっとやそっとじゃ掘り返せず、いざ土を起こすと太い根っこが混じっている。スケールは全然違うが、明治時代の北海道開拓民の苦労がなんとなくわかる。
「ふう、こりゃしんどい」
俺は首にかけたタオルで汗まみれの顔を拭う。腰もずきずきと痛くなってきた。まだまだ予定の4分の1も終わっていないのに……畑仕事で必要なのは握力より持久力だったか。
「あの、すみません」
ふと聞こえてきた呼び声に、俺はきょろきょろと辺りを見回す。どうやら声の主は家の隣の田んぼを隔てた農道で、自転車にまたがっている細身の男性のようだ。
見た感じだいぶ若く、まだ20歳くらいに思える。遠目ながら集会でも見たことの無い、初めて見る顔だった。
「鍬の使い方、違います」
「え、そうなんですか?」
俺はきょとんと眼を丸くした。
「前にかがむと腰を痛めます。そっち行ってもいいですか?」
なんとも親切な男性に、俺はつい「どうぞー」と答えてしまった。
しばらくして男性は家の前に自転車を止めると、「失礼します」と言いながら裏庭まで進入する。そして男性の姿を間近で見て、俺は思わず「へ?」と漏らしてしまった。
やや浅黒い肌に短く切った黒髪と、日本人とは異なるオリエンタルな風貌。東南アジア系だろう。
まさか特段観光で有名なわけでもないこの余呉で、外国人とばったり出会って話す機会があるなんて考えもしなかった。
ちなみに外国人を目にすること自体が初めてなのか、天花ちゃんの方は俺以上に驚いていた。




