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第八章その1 ひまわりの家

「ごめんくださーい」


 夏の昼前、近所のお宅を訪ねた俺は呼び鈴を押した。玄関扉がガラッと開き、中から出てきたのは70過ぎたお婆さんだった。


「あら、どうしたん?」


「回覧板届けに来ました」


 俺は右手に持っていた回覧板をちらっと見せる。町内会のお知らせがある場合、このように回覧板を使って近隣住民に情報を共有している。高齢者の多いこの地域では、電子メールを使うより親しみがあるし、最近では独居老人の安否確認の意味も兼ねているのだろう。


「こんな暑い日に悪いやね。そや、お菓子あるんやけど、上がってかへん?」


 お婆さんは俺を家の中に案内する。一人暮らしで寂しいのだろう、話したいことも多いようだ。


「いいのですか? じゃあお言葉に甘えて」


 今はイラストの仕事も立て込んでいるわけではないので、こういう時に相手するのもご近所の役割だ。


 この家は昔からの農家で、我が家と同じくらいの広さがある。座敷に通された俺の前に冷たい麦茶が置かれ、さらに小鉢に盛られたところてんまでご馳走になった。


 夏の味覚として清涼感を醸すところてんだが、おばあさんは透き通った麺状のそれに躊躇なく黒蜜をかける。ところてんといえば酢醤油が鉄板だと思っていたが、近畿地方では黒蜜をかけるのが広く浸透しているそうだ。


「最近腰が痛くてねぇ、庭仕事も辛くなってきたんよ」


 座布団に座る俺に対面するかたちで、お婆さんはよっこいしょと高座椅子に腰を下ろす。


「まだお元気じゃないですか。庭だってあんなにきれいにしていますし」


 俺は甘いところてんをすすりながら、網戸越しに外を見る。生垣には目隠しにサザンカの木が植えられ、隅には高く伸びたヒマワリの花が群生していた。


「家の庭くらいは自分の好きなように弄りたいしねえ。農地は別の人に貸してるから、あそこだけが生き甲斐よ」


「あのヒマワリも?」


「娘が一番好きな花やってねぇ。なかなか戻ってこれへんけど、いつも植えているんよ」


 お婆さんがしみじみと話す。かつて娘さんといっしょにヒマワリの種を蒔いていた日々を思い出しているのかもしれない。


 それにしても庭かぁ。祭りと仕事の忙しさですっかり忘れていたけど、我が家の庭って引っ越してからほとんど手つかずのままだったよなぁ。


 この地域は農家が多いためか、一軒一軒の敷地が広く、庭も丁寧に手入れされている家が多い。庭は外からも見えるいわば家の顔、うちみたいに草ボーボーのままだと悪目立ちしてしまう。


 その後もしばらく談笑を続けていた俺はお婆さんに別れを告げた。回覧板以外にも、何かごとにお婆さんの様子を見に来たほうが良さそうだ。


 改めて自分の家の庭を見ると、雑草が伸びるだけ伸びて情けない気分に打ちひしがれる。野菜や花は小学校でしか育てたことがないけれども、最低限見た目くらいはきっちりしたいよな。


「ただいま」


 最近蝋を塗って滑りの良くなった玄関を開ける。今の時間なら天花ちゃんが昼ご飯の準備に勤しんでいる頃だろう。


 しかし返事がない。いつもなら物音で返してくれるはずなのに、家の中はただただ静まり返っているばかりだ。


「天花ちゃん?」


 首を傾げながら家に入る。なんだろうこの異様な雰囲気は、夏の昼間なのに張りつめた空気が漂っている。


 何事かあったのだろうかと緊張しながらそっと居間に入る。そこで目にしたのは壁に背中を貼り付けて、びくびくと震える天花ちゃんの姿だった。


「何してるの?」


 尋ねると、天花ちゃんはいつもより輪をかけて青白い顔をこちらに見せた。そして恐る恐る、床に置いた座布団を指差す。


 座布団がどうかしたのか? 不審に思い、俺はそれを手で持ち上げた。


 座布団をどかしたその瞬間だった。床の上をさっと駆け抜ける細長い黒い影。


 それはなんと、15センチ近くあろうでっかいでっかいムカデだった!!!


「ぎゃああああああああ!!!!!!」


 俺の大絶叫が家を揺らす。天花ちゃんに至っては年頃の女の子がしてはいけないレベルに顔を歪ませ、そのまま壁をすり抜けて部屋の外に逃げ出してしまった。




「ふう、これでなんとか」


 殺虫剤とハエたたきを使った激闘の末、床に潰れたかつてムカデだったものを見下ろし汗を拭う。夏になって虫を見る機会が激増したが、ついに家の中にまで侵入してきたか。


 東京ではマンション暮らしだったのでゴキブリは稀に遭遇したが、ムカデは初めてだ。そもそもこんなに鮮やかな緑色の体節にオレンジの大アゴなんて知らなかったよ。


 しかし今まで目もくれなかなかったけど、こいつ案外カッコイイ見た目してんな。仕事で使うかもしれないし、造形の勉強、しようかな。


「てか天花ちゃん、ムカデ苦手だったんだ」


 俺は背後でぶるぶると震える少女に呆れたように言い放つ。家事万能だからこういうのも平気かと思ってたけど、誰にでも苦手はあるようだ。


 というか火事場の馬鹿力で一度も見たこと無い透過能力を披露するなんて、どんだけ嫌ってるんだよ。


(外で見るならまだ大丈夫だけど、家の中にいるとどうもダメ)


 すでにトドメは刺したはずなのに、また復活するんじゃないかと怯えながら筆談で答える。


「てかさ、幽霊なんだから噛まれないんじゃ」


 俺がさらに尋ねると、天花ちゃんはむっと頬を膨らませた。


(ゴキブリだって噛まないでしょ?)


 あーなるほど。妙に納得した。


 しかしこれからも暑くなる一方、つまり虫さんの発生はさらに勢いを増す。幽霊には耐えられても、害虫の大発生はそれ以上に嫌だなぁ。


 そのためには……やはり虫の発生そのものを防止すべきだろう。


「庭、なんとかしよっか」


 俺がぼそっと言うと、天花ちゃんは大賛成と言いたげに何度も何度も首を縦に振った。

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― 新着の感想 ―
[一言] すごくくだらないことで恐縮ですが >(ゴキブリだって噛まないでしょ?) 噛むらしいんですよ。恐ろしいことに…
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