第七章その5 天女が舞う
それから1か月、イラストの仕事やら町内会の用事やらが立て続けに舞い込んだおかげで日々はあっという間に過ぎ去った。のんびりしたスローライフと思っていたのに、田舎でも意外と慌ただしくなるものだ。
水田の稲も青々と剣のような葉を茂らせ、その隙間から小さな穂が頭を出す。そのあぜ道を走るのは夏休みに入った子供たちだ。
7月下旬、天女祭の季節が余呉に訪れる。照りつける夏の太陽の下、余呉湖の畔には仮設テントや能舞台が設置され、いつもは静かな里山に人の賑わいが生まれていた。地域で一番の祭りに合わせて、普段は遠くで働いたり学校に通っている息子娘たちも帰省しているために若者や小さな子供の姿もいつもより目立つ。特に若い女の子は華やかな浴衣を着て歩き回るので、すれ違う人々の視線を一身に集めていた。
「そうそう、その手付き」
そんな浴衣姿のチャンネーが通り過ぎる傍らで、頭にタオルを巻いた俺は大きな鉄板を前に焼きそばをヘラで返していた。
ちなみに指南役はあの田之上さんとの連絡を取り次いでくれた強面のおじさんだ。教え方もうまく面倒見も良い、つくづく親切な人だ。
この祭りは地域住民が主導で開催している。俺も地域住民の一員として、屋台のスタッフに駆り出されていた。
昨日も能舞台とテントの設営のために、朝から汗だくになりながら作業に取り掛かっていたのだ。運動不足が祟ったか、身体は既にへとへとだが祭りを休むわけにもいかず、家から這い出て焼きそば作りに専念している。なお長年祭りを支えてきたお爺さんたちは皆が何をするのか一通り把握しているようで、プロの大工顔負けの段取りとスピードで能舞台を組み立ててしまった。
町内会長の室田さんは本部テントに座って招待客である他町内会の皆さんの相手をしている。きっと今頃、俺の焼きそばを振る舞っていることだろう。
麺から立ち昇る蒸気に顔の毛穴が開き、汗がドバドバと滴り落ちる。なんだか意識が朦朧として、そのまま鉄板の上に倒れ込んでしまうんじゃないかと本気で考え始めた時だった。
「大八木先生!」
聞き覚えのある女性の声に、俺はなんとか現世に踏みとどまる。
「菫坂先生、いらっしゃいませー!」
にこりと笑顔で答える俺の前に立っていたのは、作家の菫坂先生だった。
以前、取材のためにここを訪れた先生だが、今日が祭り本番と聞いてまた東京からわざわざ来てくださったのだ。2巻、3巻のイメージを膨らませるために、地域で営む祭りというものを肌で感じたいらしい。
「焼きそばひとつ300円、いかがです?」
「ふふ、じゃあ2ついただきます」
菫坂先生は笑いながら財布を取り出す。細身なのに結構がっつり食べるタイプのようだ。
「第一巻、好調ですね」
先生の手から硬貨を受け取りながら言うと、先生は「大八木先生のイラストのおかげですよ」とはにかんでみせた。
先日発売された菫坂先生の新作第一巻は発売や否や大ヒットし、たちまちレーベルの初版売上記録を更新してしまった。既に増刷もされ、売り上げはまだまだ伸びているそうだ。この出版不況の時代にすごいよこの人は。
「間もなく、天女の舞。中央能舞台にて天女の舞が披露されます」
ややこもった声のスピーカーのアナウンスが周囲に響く。途端、ひたすらタコ焼きを食べていた人も立ち止まって談笑していた人も、皆が皆同じ方向へと移動を開始する。あれよあれよという間に、屋台の周りからは一気に人が掃けてしまった。
「大八木先生は見に行かないのですか?」
周囲から人がいなくなっても屋台の前に残っていた菫坂先生が尋ねる。
「私はこれがありますので」
俺は苦笑いしながらヘラを見せつけた。だがその時、視界の端から突如太い腕が伸び、なんと俺の手からヘラを奪い取ってしまった。
「創太、見てきな」
例の強面のおじさんだった。唖然とする俺に向かってやたら白い歯を見せつける。
「あとは俺が全部焼いといてやる。あの子のこと、気になるだろ?」
おじさんが言い放ち、その意図を理解した俺は「ありがとうございます」と頭を下げ、菫坂先生とともに屋台から離れた。
能舞台の周りには既に人だかりが出来上がっていた。この祭り最大の見せ場で、象徴ともいえる天女の舞。この日この瞬間のために町内の皆さんが準備してきたのだ。
お囃子を担うのは小学生から高校生までの男子だ。手ぬぐいを巻き、法被を纏った男の子たちがそれぞれ笛や鉦鼓を手にして能舞台の隅に座る。
そして透き通るような笛の音を合図に、鉦鼓が鳴り、鼓が打たれる。
何百人もが集まっているはずなのに、全員がしんと静まって演奏に耳を傾けていた。やがて舞台裏から長い羽衣を引きずりながら、ひとりの巫女が登場する。
美里ちゃんだ。きりりとした面持ちに、まっすぐに遠くを見つめる目。普段でも美人顔の少女は、いつも以上に凛とした空気を放っていた。
登場とともに観客は一斉に拍手を贈った。その間も美里ちゃんは表情を崩さず、舞台の上をゆっくりと、音も立てずに移動していた。腰の高さを一定に、かつ腕をピンと伸ばした美しい姿勢を保ちながら。
「すごい、綺麗ですね」
ぼそっと呟く菫坂先生は、完全に見とれていた。単なる田舎の地域の祭りなのに、ここまでのクオリティが発揮できるのかと驚いているようにも見えた。
だが俺は別の意味で舞台から目が離せなかった。何せ天女姿の美里ちゃんのすぐ隣で、セーラー服を着たショートヘアの女の子がいっしょになって舞っているのだから。
天女役に選ばれた子は、本来半年以上の時間をかけて少しずつ舞を身に着ける。かつて子供が多かった時は何十人もの女の子が舞い方を習い、最も上手な子を天女役に選んでいたこともあったらしい。しかし美里ちゃんは急遽決まったピンチヒッターのため、わずか2ヶ月足らずで一から覚えなくてはならなかった。
そこで本番は天花ちゃんが隣で舞い、美里ちゃんをリードすることになったのだ。
俺以外には霊感の強い久野瀬さんの奥さんしか姿が見えないから安心よ、と天花ちゃんは答えていたけれども。こんなに人がいるのだ、誰かにバレてしまうんじゃないかと俺は内心冷や冷やしていた。
天花ちゃんと美里ちゃんは両者とも一糸乱れぬテンポ、所作で舞い続ける。俺の家にて続けられた天花ちゃんの特訓が功を奏したのだろう、ふたりの動きは完全に一致しており、双子のようにも思えた。
やがてお囃子の拍子が忙しさを増し、舞の振り付けも速度を上げる。足を前後に左右に途切れなく運び、くるりと回転したかと思えば今度は低く跳び上がる。
だがそれでもなおふたりはシンクロした動きを見せていた。完全に一心同体、心の底から通じ合っているようだった。
そしてついに演目が終了する。ぴたりと腕を前に突き出したまま固まるふたり。笛の音も止み、湖面に面した会場は一瞬の静寂に包まれる。
直後、沈黙を打ち破るのは観衆の惜しみない拍手。会場の人々は喝采で天女役を務めた少女を讃えた。
「すごい、これが天女伝説なのですね!」
舞台裏に引っ込んでいく美里ちゃんと男子たちに向かって、菫坂先生はいつまでも拍手を贈っていた。
「ええ、なんとか終わってほっと安心です」
一方の俺はどっと押し寄せた疲れに全身を脱力させていた。ずっと緊張して目を離さなかったおかげで寿命が縮まるかと思った。子どもの発表会を見に行く親の心境って、こんな感じなのかな?
祭りのメインイベントも終了し、会場から人々がぞろぞろと帰り始める。
俺はまだ残って屋台や能舞台の撤去作業があるので、菫坂先生には先に帰るようお願いした。先生は今日、長浜駅前のホテルに泊まるらしい。
まだ疲れる作業は残っているが、ようやくほっと落ち着ける時間になった。俺は冷えたラムネを片手に会場のベンチに座り込み、帰途に就く人々の背中をぼうっと眺めていた。
「おや?」
その中に見覚えのある姿を見つけ、思わず目を細める。
白髪の混じった男性に、幼い男の子の手を引く若い女性。見間違えるはずがない、田之上さんと娘の梨恵さん、孫の龍也君だ。
お祭りを見に来てくださってありがとうございます。そう一声かけようとした時、あることに気付いた俺は「ええ!?」と驚いて立ち上がるなり固まってしまった。
田之上さんは白髪の老婆が座った車椅子を後ろから押していたのだ。
後ろ姿だけでもかなりの年齢、80は超えているだろう。身体にも負担がかかるだろうに、神戸に住む田之上さんがわざわざこの祭りに連れてくるほどの人だ。もしかしたら、あの人が……!?
俺はふふっとほほ笑むと、またベンチに座り込んだ。そしてラムネの蓋を開けると、一気に喉に流し込んだのだった。
第一部 完結
次回から第二部がスタートします。