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第一章その3 火を灯す

「どうやらあの子が口にしたものは、形は無くならないけど味がなくなるみたいだ」


 俺は何度か少女の残したジュースを口に含み、本当に味が無くなっているのを確認すると頷いた。


 もしかしたらあの子が食べているのは、ジュースや食べ物という物質そのものではなく、ジュースの持つ本質、言うなれば魂や概念といった類なのかもしれない。サブカルチャーに携わる仕事をしていると、こういった未知の事態でもなんとなく推察して受け入れてしまえるのは今回に限っては便利なことだろう。


 しかしやはりもったいないので、ジュースは多少ぬるくなった水だと思ってそのまま飲み干してしまった。せっかく台所に立ったのだし、夕飯もついでに済ませてしまおうと、俺は段ボールからカップ麺を取り出す。忙しくて外に食べに行く時間も無い場合を考慮して、念のため買っておいたものだ。


 俺はやかんに水を入れ、ガスコンロのスイッチを回す。しかしチッチッチと火打石が鳴るばかりで、一向に火は点かない。


「あれ、おかしいな?」


 そう言えば、ガスの契約は明日からだったことを今思い出した。この家にはガス管が通っておらず、建物脇にプロパンガスの容器を置いて利用してきたそうだ。


 当然、契約が明日からとなるとガス容器も運び込まれていない。ずっと管理の行き届いたマンションで暮らしてきたから、そこらへんの流れが頭から完全に抜け落ちていた。


 これではお湯が沸かせない!


 火が起こせないとなると、今日はお風呂にも入れない。ここはオール電化ではなくガス給湯器を利用しているはずだ。


「仕方ない、コンビニで買ってくるか」


 疲れているのに、とがっくりと肩を落とす。


 でもコンビニってこの近くにあったかな? 見知らぬ土地であまり車は運転したくないのだが。


 そして重々しく振り返った時のことだった。またしてもあの女の子が柱の陰からじっとこっちを見ているのが目に入ったのだ。


 またジュースをねだりに来たのかとも思ったが、少しばかり違う。どうも心配してくれているような目でこちらを見ている。


 その視線の先にある物は、コンロの上に置かれたやかんだった。


「ははは、ガスの契約明日からだからお湯が沸かせないんだ。ちょっと夕飯の弁当でも買ってくるよ」


 幽霊相手とはいえ気まずいところを見られた俺は、笑ってごまかす。


 そんな俺に対し、少女はちょっと待って言いたげにと手のひらをこちらに向けた。そして突如俺の脇を足音も無く通り過ぎると、コンロに置かれたやかんを持ち、そのまま台所から出て行ってしまった。


「あ、どこ行くの?」


 俺は手を伸ばして女の子を追うが、彼女は一向に立ち止まらない。そして向かったのは、居間の中央に穿たれた囲炉裏だった。


 少女は囲炉裏に置かれた金属製の五徳の上にやかんを置くと、すぐ傍に置かれていた小さな棚――古民家とセットでついてきた家具のひとつだ――から古ぼけたマッチを取り出す。そしてそのまま玄関まで向かうと、土間の壁際に置かれていた古い木箱をごそごそとあさり、そこから両手いっぱいの木炭を運び込んできたのだった。


 茫然としたまま見つめる俺のことなど意に介さず、少女は囲炉裏に木炭を積み上げると、手際よくマッチに火を点けた。そしてマッチといっしょに何十年前のだろうか古ぼけた電話帳の1ページをはぎ取ると、それに火を移して大きな炎に変える。


 そして燃え移った紙を炭の間にそっと置く。ぱちぱちと音が鳴り、あっという間に仄かな炭火が囲炉裏の中に生まれた。


「ここでお湯沸かすの?」


 俺が尋ねると、幽霊は無言で頷いて返す。


 まさかさすがに使うことはないと思っていた囲炉裏を、引っ越し1日目から使うなんて。おまけに幽霊に火を起こしてもらって!


 そうこうしている間にも火はさらに勢いを増す。炭が小さく弾ける音は心地よく、離れていても炎の温かみを感じられるようで言いようのない落ち着きに包まれる。


 五徳の上のやかんからも少しずつ沸騰音が鳴り、やがて白い湯気を上げるほどに沸き上がった。


 幽霊の沸かしたお湯。不思議なものだが、悪いものではない。


 俺は囲炉裏の端にカップ麺を置き、熱くなったやかんを手に取った。そしてちゅんちゅんに沸かしたお湯を注ぎ、あとは3分待つだけとなった。


 その間、幽霊の少女はにこにこと笑いながら火箸で炭をつついて炎を小さくする。


「あの、君はいったい……」


 訊くと幽霊は目を点にしてこちらを向いた。


 あ、そういえば喋れないんだったな。この幽霊があまりにも人間くさいので、すでに恐ろしいとかいったネガティブな感情は俺の中から消え去っていた。


「いただきます」


 そして3分が経ち、待望の夕飯は完成した。まだ炭火の残る囲炉裏を前に、俺はカップ麺をすする。


「美味い……」


 こんなに美味いカップ麺は初めてだった。気のせいかもしれないが、ただのガス火には無い不思議な味わいがある。


「ありがとう、君優しいんだね」


 俺がそう言うと、幽霊の少女は得意げに表情を崩した。


 まさか幽霊の沸かしたお湯でカップ麺をすするなんて、人類史上始まって以来最初の経験者だろう。


「君はここに住んでいたの?」


 しばし考え込んで、こくりと頷く。


「じゃあ、名前は?」


 だがその質問になると、相変わらず少女は首を横に振るばかりだった。


 この時、俺はすっかりこの幽霊少女に対して心を許してしまっていた。

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