第六章その5 雨の日に
「天花ちゃん、これは?」
俺は屋根裏で見つけた天女の衣装を持って座敷に降りた。
ずっと葛籠に収められていたためか、絹の装束は艶やかで鮮やかな色彩を保っている。
しかしそんなことは衣装を畳の上に広げた途端、まったく頭から吹き飛んでしまった。何せ装束の前面には、大きな茶褐色のシミのような汚れがべったりと付着していたのだから。
血だ。直感がそう告げ、俺はぞぞっと寒気を感じて固まる。
同時にもうひとつ、おぞましい推測も自然と浮かび上がる。
この血はまさか。
否が応でも湧き出でる最悪な想像。その思考を振り払おうと、俺はわざと衣装から目を反らした。
しかしこれは天花ちゃんにとって、過去を知る重大な手がかりになるはずだ。そう無理矢理信じ込みながら、対面する天花ちゃんの顔を恐る恐る覗く。
そこには今まで見せたことの無いほどかっと目を見開き、あんぐりと口を開く天花ちゃんがいた。
ああ、やっぱり見せなきゃ良かったかな。俺の中に後悔が込み上げる。
天花ちゃんが自分の過去について知りたいのは本心だろう。しかしそれが思い出すのも辛い記憶だった場合、それを知ることは果たしてこの子のためになるのだろうか?
何も知らずこのまま気楽な幽霊ライフを送っていた方が、幸せかもしれない。
「何か……思い出せない?」
不安混じりに小さく尋ねると、天花ちゃんはメモを取り出し鉛筆で書き殴った。
(全部思い出した)
これまで無いほど乱れた文字で、そう書かれていた。
額にたらっと汗が垂れ、俺はごくっと唾を飲み込んだ。同時に天花ちゃんの目にはじわっと涙が溜まり、やがてぽろぽろとこぼれ出す。
「ごめんね天花ちゃん。辛いこと思い出させてしまったみたいで」
押し寄せる自責の念に、俺は俯いてぼそぼそと話すしかなかった。いっそこのまま消え入りたい気分だった。
しかし天花ちゃんは涙を流したままぶんぶんと首を横に振って否定すると、突然立ち上がった。
「天花ちゃん?」
尋ねる俺の前に立った天花ちゃんは何も答えないままそっと手を突き出した。
俺の額に天花ちゃんの白く細い指が触れる。直後、目の前の空間が歪み、景色が暗転した。
気がつけば俺は田んぼに囲まれた畦道に立っていた。田植えが終わって間もないまだまだ小さな稲。せせらぎのような水田にはオタマジャクシが泳いでいた。
太陽が高く昇っているので時間は昼過ぎくらいだろう。山々は鮮やかな緑をたたえ、空にはツバメも飛び交っている。
そんな生命の営みに囲まれて鎮座するのは、一軒の瓦屋根の平屋。縁側を全開にして外の風を通しているその様子は、見ただけで涼しげを覚える。
そう、我が家だ。しかし納屋はまだ新しく、庭の手入れも行き届いており、俺の知っている貌とは違っていた。
ここは天花ちゃんの記憶の世界か。なんとなくであるが、俺はすんなりと受け入れることができた。
どうやったのかは不明だが、俺は何十年も前の我が家を見ているのだ。
「おおーい、やったぞみんな!」
未舗装の道の向こうから、タンクトップ姿の筋肉質の男性が嬉しそうに腕を振りながら走ってくる。男性は俺のことなどまるで眼中に無いように俺の前を通り過ぎると、開け放たれた玄関に飛び込んだ。
「おおい、天花はいるか?」
「天花ならおつかいに出てるわよ。父ちゃんどうしたのよ?」
「ああ喜べ、今年の天女役に天花が選ばれたぞ!」
「まあ本当に!? 今日は赤飯炊くわよ」
「よっしゃあ、さすがは自慢の妹だ!」
「天花ちゃん、すごいわ!」
家族の喜ぶ声が外にまで聞こえた。幸せで、仲の良い家族の肖像がそこにあった。
その時、周囲の景色が乱れ、早送りされたビデオのように目まぐるしく変化する。
太陽が西の山に沈み暗くなったかと思えば、またすぐに東から昇って南の空をぐるりと横切り、再び西に沈む。
それを何度か繰り返し、やがて時間の流れが元のペースに戻ったのは薄暗い雨の日だった。
風は無いが、ザアザアと滝のように雨水が落ちるので視界はすこぶる悪い。土がむき出しの道路は、あちこちが水溜まりでぬかるんでいた。
「ふんふんふーん」
そんな不快な雨の音をかき消すような、鼻歌が耳をくすぐる。音をたどると、道の向こうから誰かが歩いてきているのが見えた。
「天女の舞の衣装、借りてきちゃった。本番が楽しみだなぁ」
俺は絶句した。天花ちゃんだった。ボブカットにセーラー服を着た天花ちゃんの、生きている頃の姿だった。
雨など跳ね返すような満面の笑みを浮かべ、右手には傘をさし、左手には風呂敷包みを抱え込むようにして持っていた。
「さあて今日も練習よ」
意気込む天花ちゃんは実に生き生きしていた。しかし心ここにあらずな彼女は、後ろから車が近付いていることにまったく気付いていない。
車が天花ちゃんの脇を通過する。同時に水たまりの泥が跳びはね、天花ちゃんに襲いかかった。
「きゃ!」
風呂敷包みを守るように、とっさに身をひるがえす天花ちゃん。天女の衣装は免れたものの、背中や側面に泥を含んだ水が大量にかかり、おまけに傘も落としてしまった。
「こらー!」
怒鳴っても猛スピードで走る車にはまったく届いていないようだ。車は速度を落とすこともなく、そのまま雨の中に消えてしまった。
「あーあ、びしゃびしゃ」
そう言って天花ちゃんは傘を拾いに道の真ん中まで出た。風呂敷を汚さないよう、両手で前に抱え込みながら。
「あの車、今度見たらただじゃおかないんだから」
ぶつくさと垂らしながら低く屈み込んで傘を拾う。
しかし彼女はまたしても気付いていなかった。車がもう一台、すぐそこまで近付いていることに。
「へ?」
気付いたときにはすでに遅かった。抗う術もなく、屈んでいた天花ちゃんの身体は車のバンパーに突き飛ばされてしまう。
「……っ!」
俺は声を上げることもできなかった。天花ちゃんの身体が、傘が、長靴が、宙を舞う。それでも彼女は抱え込んだ風呂敷を放すことはなく、泥を飛び散らせて地面に叩きつけられてしまった。
「あわわわわわ、ど、どうしよう!?」
運転席から男性が飛び出す。雨に打たれ、泥に濡れてもぴくりとも動かない天花ちゃんを前に狼狽えるしかない。
「おい、今凄い音しなかったか?」
騒ぎを聞いて、家の中からさっきの男性、天花ちゃんのお父さんが傘をさして出てくる。
お父さんは地面に倒れた娘の姿を見るなり、ぽろりと傘を手から落とした。そして天花ちゃんに駆け寄った。
「て……天花!? しっかりしろ、おい、しっかりしろ!!」
凄まじい剣幕で叫ぶ。しかし娘は父の声にも何も反応しなかった。
「す、すみません、私が」
「話は後だ! おおい母さん、天花が事故だ!」
お父さんは天花ちゃんの身体を抱えて家に連れ込んだ。直後、家の中から悲鳴が上がった。
「きゃああ、天花ちゃん!?」
「天花、しっかりおし!」
「急いで寝かせろ。それから警察と医者を呼べ!」
あんなに幸せを享受していた家族が、騒然に包まれる。そこで再び時間の流れが早回しされ、翌日の朝を迎えた。
昨日の雨は嘘のように晴れ上がり、空は爽やかに青一色だった。
しかし家は白と黒の鯨幕で覆われ、黒のスーツや着物姿の人々が重苦しい表情で庭や座敷に立ち尽くしていた。セーラー服や学ラン姿の学生たちがわんわんと泣き叫び、大人たちもつられて目頭を押さえる。
やがて家から出てきたのは、6人の男に抱えられた木製の棺。抱える人々の中には黒一色のスーツを着た天花ちゃんのお父さんが混じっていた。その脇では黒の着物を着た女性が、笑顔の天花ちゃんの写真を抱きかかえて虚ろな目を向けて歩いていた。
そうか、これが……。俺は目の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じた。
やがて景色が霞み、視界がマーブル模様に入り交じる。気が付くと俺は自宅の座敷にぽつんと座っていた。