第六章その2 踊る阿呆に踊らされる阿呆
「うちの娘はあの性格ですから、裏も表も無いんです。それがクラスの和を乱したと思われたのでしょう、たちまちいじめの対象になってしまいまして」
やかんの口がちゅんちゅんと湯気を噴き上げる隣で、旦那さんはぽつぽつと話した。
「人柄も穏やかな田舎なら、きっと娘ものびのび過ごせるだろうと思って越してきたのですが」
「そうだったのですか……」
相槌とともに、俺は火を止めてコーヒーフィルターに熱湯を注いだ。ドリッパーの先から褐色に色付いた水滴が漏れ出し、ガラス製のポットに溜まる。
「心機一転して友達とも仲良くやっていたそうなのですが、逃げるように越してきたツケがここにきて回ってきてしまいました」
ご両親にとっても辛い決断だったろう。旦那さんは仕事を変えて、馴れ親しんだ大阪を離れたわけだから。しかし都会には都会の暮らしにくさがあるように、その土地にはその土地の苦労がある。結局どこに行こうと困難からは逃れられないのだ。
「いえ、美里ちゃんはとても強い子ですよ。私ならいじめられて転校しても、普通に学校に通えるようにはなれませんから」
俺はコーヒーをカップに注ぎながらフォローを入れた。逃げて田舎に来たこと自体は間違いではない。ここに来たことで美里ちゃんが元気になったならそれで万々歳だ。まして俺なんて明確な目的も無しにただなんとなくここに引っ越してきたわけだし、久野瀬さん一家に比べたらその動機付けは小匙のようなものだろう。
「ありがとうございます……うちの娘に度胸があるのは父親の私が保証します。天女役を嫌がるのも、目立つのがイヤだからというわけではありません。ただ自信が無いのでしょう。何十年も地元民が守ってきた天女の舞を、よそ者の自分が務めてもよいものか。うまくいかないでまたいじめられたらどうしようかって」
頭を抱えるお父さんに、俺は頷いて答えることしかできなかった。
引き受けるにしても断るにしても、美里ちゃんには辛いだろうな。
この前集会所で見せてもらったように、この町の人々は祭りの伝統を大切にしている。自分たちで興した祭りを70年以上、若者がいなくなっても脈々と受け継いできたのだ。その伝統をあの子ひとりが背負うのは如何ほどの重圧か。
コーヒーを淹れて各自カップを持った俺と旦那さんは台所を出た。そして座敷に戻ると、先ほどの重苦しい空気は幾分か和らいでいた。
「わあ、綺麗!」
瞳を輝かせた美里ちゃんが小さくパチパチと拍手する。娘の豹変ぶりにお父さんは「へ?」と面食らうが、俺にはその理由がすぐにわかった。
部屋の中央、美里ちゃんの目の前で天花ちゃんが舞っていたのだ。
きっと天女の舞の話題を聞いて、居ても立ってもいられなかったのだろう。しかし腕と背筋ををピンと伸ばし、指先よりはるか彼方先を見つめるその面持ちは、いたずら好きの少女とはまるで別人のようだった。
まだ演舞は終わっていないようだ。右に左に前に後ろに、部屋いっぱいを使って天花ちゃんは舞い続ける。
雅な別世界に引き込むような動きに惹き込まれ、俺も美里ちゃんもずっと目を奪われていた。天花ちゃんの姿が見えないはずのお父さんも、状況を察してか声を殺す。
何分経過したかわからないが、ほんの一瞬のようにも思える時間が過ぎ去る。風に揺れる静かな湖面、そこに舞い降りる一羽の白鳥。それが美しい天女の姿となって沐浴する光景が、天花ちゃんの舞を通じて想起される。
すべてを終えた天花ちゃんは数秒間ぴたりと動きを止め、そして額の汗を拭った。……幽霊だからかくはずもないのに。
しかしそんなことはどうでもよかった。素晴らしいとしか言葉の見つからない舞に、すかさず美里ちゃんと俺は盛大な拍手を贈った。
「すごい、本当に天女みたいだった!」
美里ちゃんの大絶賛に、天花ちゃんはふふんとドヤ顔を浮かべる。この様子を見るに去年祭りで見た舞よりも、天花ちゃんの方が上手だったのだろう。
ちなみに苦笑いで拍手に混じるお父さんも、この時ばかりは幽霊の姿が見えないことを悔やんでいるようだった。
「フルバージョンは初めて見たよ。やっぱすごいね、天花ちゃん!」
褒める俺に、天花ちゃんは何も言わずすっと手の平を上にして腕を突き出した。お菓子でも寄越せってか?
「あーあ、幽霊の子が生きてたら私の代わりに天女をやってもらえるのに」
仕方なく持っていたチョコレートを天花ちゃんに渡す俺の脇で、美里ちゃんはちゃぶ台に突っ伏した。
おいおい、生きていても今頃70超えのお婆ちゃんだよ……でも確かにそうだな、天花ちゃんの舞と同じ動きができれば、きっと会場は大いに盛り上がる。
いっそのこと誰かに憑依でもすれば、憑かれた方が舞えたりして。
そんな邪推をしながらちらりと天花ちゃんに目を向けると、彼女はいいこと思いついたとでも言いたげに、にたっと口元を歪ませていた。
イヤな予感にぞわっと寒気が走る。だが思いつくと行動が早いのがこの幽霊だ。天花ちゃんは足音も無くすっと美里ちゃんの背後に回りこむと、素早くしゃがみ込む。
「え、え!?」
困惑する美里ちゃん。そんな彼女の背後から、天花ちゃんは躊躇なく腕を回したのだった!
つまりはJK幽霊に抱き着かれるJC。紳士諸兄なら狂喜乱舞するシチュエーションだろうが、肝っ玉の小さい俺は予想外の展開にぎょっと目を剥いた。
「ちょっと何してんのぉ!?」
絶叫する俺。美里ちゃんも「ふえ!?」と頬を赤らめる。ひとり何が起こっているのか把握できないお父さんは「ななななななになになに!?」と取り乱した。
しかしどれだけ経とうとと何も起こらない。やがて天花ちゃんは首を傾げて美里ちゃんから腕を離した。結局ただ抱き着いただけだった。
なるほど、これが俗に言う「尊い」という感覚か、なんて感慨に浸っている場合ではない。俺は開口一番天花ちゃんに怒鳴る。
「こら、美里ちゃん怖がらせないの!」
きっと取り憑いたら美里ちゃんの身体で舞えるんじゃないかなんて思ったんだろう。だがそんなことして美里ちゃんの身体に何かあったらどうするんだ!
さすがの天花ちゃんも叱られて多少はしおらしくなるだろう。しかし、相手はそんな浅はかな目論みが通じる幽霊ではなかった。
天花ちゃんは一瞬俯いたと思うと、次の瞬間にはそれならば、と目を再び妖しく光らせたのだ。
すっと美里ちゃんの後ろを離れる。そして一体いつ動いたのか、天花ちゃんは瞬きの時間すら与えず俺の目と鼻の先まで間合いを詰めて詰めていたのだった。
テレポート!? そんな単語が浮かんだときには既に、天花ちゃんの半透明の身体は俺の胸に半分以上めり込んでいた。
「ええええええ!?」
驚きのあまり美里ちゃんが立ち上がる。
「今度は俺かいいいい!」
痛みはまったく感じないが、天花ちゃんが俺の身体と一体化していくにつれ、指先が膝が、身体全体がまるで自分のものではないような違和感を覚え始める。まるで操り人形のように身体中を糸で吊られているようだ。
そして天花ちゃんの姿が完全に俺に入り込んで見えなくなると、俺はがくんと畳の上に膝をついた。
「先生、大丈夫ですか!?」
うん、痛くはないよ……と答えようと思ったその時、俺の右腕が異常な勢いでぐわんと振り回される!
美里ちゃんも「ひ!」と小さな悲鳴を上げるが、そんなのおかまいなしに俺の右腕はひねったりグーパーしたり、さらに左腕も動き始めたかと思えばふっと身体が浮き上がるように立ち上がる。
「か、身体が勝手に!?」
すぐさま俺は理解した。俺の身体に取り憑いた天花ちゃんが、こんなわけわからん動きを無理矢理させているのだ!
それだけではない。背筋を伸ばして立ち上がらせた俺は、すっと右腕を前に突き出す。そして歌舞伎役者のようにぐいっと足首をひねると、畳を擦るように前に歩き始めたのだ。
その動きは完全に天女の舞。つい先ほど天花ちゃんが見せてくれた、この地の伝統の舞だった。
「すごい、幽霊が先生に乗り移ってる……」
これでみんなに姿が見えるよと、天花ちゃんの思考が頭に流れ込んでくる。
「男が天女役やっても意味ないでしょ!」
俺は顔を赤くして怒鳴り散らすが、天花ちゃんは一向に踊るのを止めない。くるっと回転したり軽く跳びはねたり、他人の身体だと思ってやりたい放題だ。
しかし少女である天花ちゃんが大人の男の身体を動かすのは勝手が違うのか、動かす側からしてもなんだかぎこちないのは感じられた。歩幅も違うので襖を突き破りそうになるし、しまいには大きく腕を回したときに勢いあまって床の間のカドに右手小指をぶつけてしまった。
「あいってぇ!」
痛いのと恥ずかしいのとで、俺は泣き出しそうだった。だが天花ちゃんはまだまだ俺の身体を手放すつもりはなく、舞い続けている。
「あははははは!」
しかし心配していた美里ちゃんも俺の滑稽な舞に笑い声をあげ始めると、俺はまあいいかと幽霊のおもむくまま舞い続けた。
「あーおかしい」
腹がよじれるほど笑ったおかげで気がほぐれたのか、涙を拭う美里ちゃんは最初より元気を取り戻したようだ。
「こんなもの見せたら祭りがその年限りで途絶えるね」
操られているとはいえ俺の肉体、久々のハードな動きに畳の上に手足をついてぜえぜえと息を切らしながら、俺は冗談を吐いた。ちなみに天花ちゃんはすでに憑依を解いたようで、俺の脇で得意げに立っている。後で説教確定だな。
笑いもようやく落ち着いた美里ちゃんは、ふうと息を整える。そしてちゃぶ台のお茶を一口飲むと、少し間を置いて話し始めたのだった。
「私、わかってる。町のみんなにとってお祭りがどれだけ重要で、今は私が一番適任だってことも。でもみんなの期待を私一人で背負うのは辛いし、うまくいくか不安なんです」
未だ苦しさに息を切らしながらも、俺は首を縦に振った。やはりお父さんの話した通りだった。この子は強い子だ。
ようやく本音を吐露した美里ちゃんに、室内はしんと静まり返る。だが最初に沈黙を破ったのは意外にも天花ちゃんだった。
「天花ちゃん?」
天花ちゃんは突如回れ右したかと思うと、俺の声にも振り返らず部屋を後にした。しかしすぐに、メモ帳と鉛筆を手にして戻ってきたのだった。
美里ちゃんの隣に座り込み、さらさらと文面に鉛筆を走らせる。
(美里ちゃん安心して。あなたはひとりじゃない)
俺たちに見せつけた文面には、そう走り書きされていた。
黙ったままメモ帳を覗き込む俺と美里ちゃん、そして旦那さん。その全員の表情を確認するようにぐるっと顔を動かした天花ちゃんは、次のページを開いた。
(私もいっしょに舞台に立つ)