第五章その6 負けるが勝ちは円満のコツ
菫坂先生をホテルまで送った頃には、太陽はもう沈みかけていた。
水平線に沈みゆく太陽。湖面の最後の煌めきを横目に車を走らせている内に、薄暗い闇が徐々に周囲を包み込む。
「ただいまー」
帰宅して玄関を開けた時、家の中は真っ暗だった。
だが居間から音が聞こえる。襖を開けると、天花ちゃんが灯りも点けずにちゃぶ台に肘をつきながらテレビをじっと見ている姿が目に飛び込んだ。
「天花ちゃん、ちょっといいかい?」
電灯のスイッチを入れながら声をかける。しかし天花ちゃんはまるで聞こえてすらいないように、振り向きさえもしない。
「今日はどうしてついてきたんだよ。それにあんな子供じみたイタズラ天花ちゃんがするなんて、驚いたぞ」
俺はいつもより声に力を込めて、彼女の視界に回り込んだ。すぐさま天花ちゃんはぷいっと顔を背ける。
無視するな!
声を荒げて怒鳴ろうかと考えもしたものの、その横顔を見て俺は声を失ってしまった。
天花ちゃんの目は潤んでいた。ほんの一瞬だったが、明かりを反射してきらっと白く輝いたのだ。
そして俺はようやく気付かされた。つい先日、天花ちゃんの過去を明かすと意気込んでいたばかりにもかかわらず、今日の俺は先生に鼻の下伸ばしながら天花ちゃんを邪見に扱っていたことに。天花ちゃんの苛立ちの原因はきっとそれだ。
これは怒っても何の解決にもならない。自分が口喧嘩が得意でないのもあるが、互いに感情をぶつけ合っても泥沼化して余計に面倒になることは30年の人生で経験則として身に着けている。
俺はふと台所に目を向けた。ご飯は……作っていないか。それならむしろ好都合。
「天花ちゃん」
俺は荒げ気味の声を抑え、にこりと微笑む。そのトーンの変わりように驚いたのか、天花ちゃんもちらりとこちらに目を向けた。
「なにか食べたいもの、ない?」
普段、天花ちゃんの手作り料理に頼っている俺は、買い物も近所で済ませている。しかし今日は特別だ。俺は街灯もほとんど無い田舎道を、マイカーで突っ切った。
そして来たるは本日3度目の長浜市街地。観光地とはいえ夜は早いのか、昼間あんなに賑わっていた商店街も飲み屋以外はほとんどシャッターを下ろしている。
俺と天花ちゃんが入ったのはすっかり静まり返った黒壁スクエアの一角に佇む、古民家を改装した一軒のレストランだった。
「さあ召し上がれ」
牛刺身、しぐれ煮、そして一人用すき焼き。座敷のテーブルに牛肉をふんだんに使った料理がずらりと並べられる。そして驚愕すべきはそれらのすべてが細かいサシの入った霜降り模様であることだ。
これぞ湖国の誇る近江牛御膳。お値段なんと6000円也。神戸牛、松阪牛と並び称される近江牛を堪能できる至高の逸品だろう。
裕福な農家の娘であろう天花ちゃんも、さすがにここまでの牛肉三昧は生前目にしなかったようだ。感激と圧倒と、その他様々な感情が入り混じってただただぽかんと口を開けながらも目は完全に机の上をロックオンしていた。
今の天花ちゃんに食べたいものと聞いて明確な返事が返ってくるわけがない。それならここらで一番上等な食べ物をと考えたところ長浜の街で近江牛の看板を見たことを思い出し、ここに連れてきたのだった。
ちょっと卑怯かもしれないが、機嫌を直すには美味しい食べ物が一番だ。現に天花ちゃんの顔は先ほどとは打って変わって、食べきれないほど並ぶ霜降り和牛にうっとりと見とれている。特に和牛の握り寿司なんて初めて見ただろうな……俺もだけど。
しばらくして俺の席にもビーフシチューが運ばれてくる。金属製の皿に盛られたシチューは、ほくほくと上る白い湯気にも濃厚な香りと味がしみ込んでいるようだった。
ちなみに注文の際、「近江牛御膳ひとつとビーフシチューひとつ」と頼んだら店員さんに怪訝な眼をされたのは言うまでもない。
「いただきます」
俺がそう言って手を合わせると、天花ちゃんも手を合わせる。そして箸を伸ばし、まずはごぼうと赤こんにゃくで炊いたしぐれ煮をつまみ上げて口に運んだ。
思った通りの味だったのだろう、幽霊なのに天花ちゃんは頬を紅潮させ、一口一口を噛みしめていた。ほっぺたが落ちるとはこういう状態を言うのだろうな。
「天花ちゃん、気付いてあげられなくてごめんね」
何口か近江牛の味を味わったところで俺は切り出した。天花ちゃんは箸を止め、ようやく顔をこちらに向ける。
「生きていた頃のことを調べるって約束したばかりなのに、いきなり仕事だもんね」
俺はそう小さく話すとスプーンでビーフシチューを口に流し込む。うん、牛肉の脂が溶けてめっちゃクリーミー。
「でも俺もイラストの仕事は会社との契約もあるし、何しろ全国の読者が待ってる。だから仕事に関しては、あんまり手を止めさせないでほしいな。もちろん天花ちゃんのことは忘れたりしないし、全力で調べるよ。」
天花ちゃんの顔がたちまち豹変する。そして昼間と同じく、こちらの胸の内を探る様な目でじっと俺を睨みつけた。
だがそれもほんのわずかのこと。数秒も経てば「ならいいか」とでも思ったのか、机の上の料理に目を戻し、赤白に彩られた近江牛に再び箸を伸ばしたのだった。
俺はようやくほっと安心する。なんだか肩が一気に軽くなった気分だった。
傍から見ると食べ物で買収したみたいな構図だが、こうでもしないと天花ちゃんに申し訳ないような気がしたのだ。そもそも普段から世話になっているのは俺の方だ、天花ちゃんの好意とはいえ家事やら料理やらを任せている以上、これくらい痛くも痒くも……いや、多少財布が痛いけれども当然だろう。
それにしても……なんて美味い肉だ。今度実家に送ってあげようかな?
最高の和牛を堪能した俺たちは、夜空の星々に照らされながら帰宅する。車内での天花ちゃんは終始穏やかな表情で、苛立ちもすっかり収まったようだった。
そしてちょうどガレージに車を止めて外に出た時のことだった。街灯も無い自宅の近くの田んぼ道を、一台の車が走っているのが目に映ったのだ。だいぶ遅い時間だが、別に珍しいものではない。俺は早く風呂に入ろうと、玄関へと急いだ。
しかし俺はすぐさま立ち止まる。なんとその車は田んぼ道でカーブすると、ライトをこちらに向けて走ってきたのだった。その動きはまるで、俺の家に突っ込んでくるかのように見えた。
あまりのライトの眩しさに腕で顔を隠していると、やがて車は俺の家の前で停車する。
エンジンが切れてライトも消えた直後、助手席のドアが勢いよく開けられた。
「あれ?」
そこから飛び出した見慣れた顔に、俺は固まってしまった。黒のロングヘアにブレザーの……美里ちゃんだ。
「先生!」
車から飛び出したばかりの女子中学生が、ぼうっと突っ立っている俺めがけてだっと駆け出す。
え、また家出?
そう思って唖然としたものの、運転席から出てきたお父さんの姿を見てその線はちょっと違うかと推察する。
「美里ちゃ……?」
駆け寄る少女に俺は「どうしたの?」と尋ねようとしたが、星明りに照らされた顔を見て絶句してしまった。
泣いていたのだ。それも悔しいとか悲しいとかそういう類のものではなく、やり場のない怒りと腹立たしさに苛まれてひどく歪んだ顔で。




