第五章その5 天女の降りた風景
甘いお芋の香り充満するインプレッサは田園を走り抜け、そして余呉湖に到着した。
平日で観光客も少なかったが、それでも釣り人がちらほらと見られる。
「うわあ、きれいな湖! 雄大で何でも呑み込んでしまいそうな琵琶湖とは対照的に、こっちは静かで神秘的ですね」
「ええ、ここに舞台を作って踊るみたいです。こっちには屋台が並んで……」
俺はあちこち指差して説明しようとする。が、すでにその必要は無かった。
「じゃあ主人公と舞を見ていて居たたまれなくなった従妹が、どこか静かな……あの山まで走って逃げる。それを追いかけてきた主人公。そして互いに思いのたけをぶちまける……」
周囲を見渡しながら先生がブツブツと呟き、あちこちに目や指を向ける。心ここにあらず、物語世界に入り込んでいるようだ。
この様子じゃしばらくここから動かないな。
せっかくだからと、俺もバッグからメモ帳サイズのスケッチブックと6Bの鉛筆を取り出す。もちろん、この風景を記憶にとどめるためだ。イラストの上達と自身の感性を磨くために始めたトレーニングだが、10年以上続ければ最早描くことそのものを楽しく感じている。
俺は目に映った湖水の風景を、鉛筆で描き始めた。なだらかな緑の山並みと、それを映し出す鏡のような湖面。家のすぐ近くにこんな絶景があるなんて以前は考えもしなかった。中国では大昔から山と水の風景を美しい風景の典型として絵の題材にしてきたが、彼らの感性もよくわかる。
風に揺れる水面、降り立つ水鳥、尾を打つトンボ。感覚を研ぎ澄まし、風景のわずかな変化を感じてスケッチブックに刻み込む。
「このトンボ、静止画なのにすごい躍動感」
気が付くと、菫坂先生が俺の隣からスケッチブックを覗き込んでいた。慌てて腕時計を覗くと20分以上経過していた。いつの間にやら俺の方がのめり込んでいたようだ。
「あ、す、すみません」
ホストが何してんだ。顔がかっと熱くなり、俺は取り乱して頭を下げる。
しかし菫坂先生はふふっとほほ笑むと、「本当に絵がお好きなんですね」と優しく返すのだった。
「まあ、これしかできないんで」
俺はやや卑屈っぽく答える。が、実際この仕事に就いていないと社会不適合者になっていたんじゃないかと思うことは度々ある。
「いえいえ、大八木先生が私のイラスト担当で良かったです。心の底から絵を楽しんで描いているのが、イラストからでも伝わりますから」
しかしそんな俺を先生は笑顔をもって称賛した。
俺は風景や静物を描くのは好きだが、人物のタッチはどちらかと言うとエロネタと相性の良い萌え絵のそれに近い。菫坂先生の甘酸っぱくほろ苦い青春ストーリーとは、根本的に雰囲気がミスマッチではないかという懸念を俺は以前から薄々感じていた。
だが、菫坂先生の顔を見て、そのすべてが報われた気分だった。このままのイラストでいいんだ、自分のやり方は間違っていなかったのだと、ようやく自分自身で認めることができたようだった。
……あ、ついでに先生のかわいらしさにドキッとしたのは絶対に内緒だぞ。
「ところで先生の家、ここから近いんですよね。古民家、興味あるんでお邪魔してもよろしいですか?」
前触れも無く、菫坂先生は興味津々と言わんばかりに尋ねた。
「え、えっと」
不意打ちに面食らった俺は、すぐには返事ができなかった。先生を家に招くなんて考えもしていなかったが、かと言って断るほどの理由も無い。座敷は大丈夫だ、居間は……天花ちゃんがいつも掃除してくれてるから大丈夫だろう。
「はい、是非とも」
「やったあ!」
歯切れ悪く答える俺。先生は子供のような歓声を上げた。
一方、車内の天花ちゃんはというと居間でテレビを見るように、肘をついて後部座席でごろりと寝転んでいた。
そうだった、まだ草刈してなかった!
玄関回りはなんとか刈り取ったものの、それ以外にはいまだに草がボーボーに茂っている。特に裏庭はほとんど草原と化しており、もう少し経てば猫じゃらしが穂を出すことだろう。
車庫に車をバックで入れながら、俺は不覚だったと頭を抱えた。
「夏が来るまでに何とかしないと、ですね」
みっともないものを見せてすみませんと、俺はずんと沈む。
「いえ、とても素敵な家ですね。昔ながらの開放的な造りの家が今でもずっと使われているなんて、東京では見られませんから」
しかし先生は笑顔を絶やさなかった。古民家に人間が住んでいる、状況そのものに興味をそそられているようだ。
都内でも著名人の住まいだった日本家屋が残ってはいるのだが、多くは文化財に指定されたり有料で公開されたりと意図的に保存されている。こちらのようにただ昔ながらの生活を続けてきたため残ってきたのとは異なる。
先生を家に上げ、居間に通す。育ちが良いのだろう、脱いだパンプスを玄関でそろえる所作も、まるで茶席のように無駄がなく美しく見える。
「あ、囲炉裏!」
しかしそんな身に着けた作法とは打って変わって、本人は天真爛漫だ。居間に入ってからも灰の積もった囲炉裏と、五徳に乗っかった鉄瓶に目を輝かせていた。
「どうぞ好きなだけ観察してください。今コーヒー淹れますよ」
そう言って俺は台所のガスコンロをひねった。普段はインスタントばっかりだが、お客さんが来た時のためにちょっと値の張るドリップコーヒーを用意しておいて良かったよ。
「結構年季入った家具が多いんですね」
「前の家主がそのまま残していったので。新しい家具買いそろえる必要が無くて幸運でした」
古い家具は良い材質使っている上に構造も頑丈なため、中古で買うにしてもかなり高価だからな。
「あの、写真撮ってもいいですか?」
先生は頬を紅潮させてバッグからデジカメを取り出した。
「はい、どうぞ」
俺が答えるや否や、家具や囲炉裏をパシャパシャと連写し始める菫坂先生。ちょうどお湯が沸き、俺はドリッパーにはめたペーパーフィルターにコーヒー豆を落とした。
お湯を注ぐと、蒸気とともにコーヒーのツンとした酸味が鼻を刺激する。うん、良い豆はやっぱ違うな。
先生もきっと喜ぶぞと、振り返って居間に目を向ける。だが囲炉裏の傍らに座り込んだ先生がデジカメを覗き込みながら「あれ?」と首を傾けているのを見て、俺はコーヒーをほっぽって居間に戻った。
「どうしました?」
「壊れたんですかねぇ、今撮った写真、全部画面が真っ黒なんですよ。おかしいなぁ、余呉湖の写真はちゃんと撮れているのに」
先生の眉はハの字を描いていた。
同時に俺はぎくっと身体を震わせて顔をひきつらせた。
あ・い・つ・だ。
すぐさま俺は廊下に出てあちこちの部屋を回った。しかし、すでに天花ちゃんの姿はどこにも無かった。




