第五章その3 長浜にて
単に数字だけで見ると、長浜という都市は東京23区よりも広大な面積に人口わずか12万足らずという寂れた地方都市にしか思えないだろう。
しかし琵琶湖に面し中山道にも東海道にも近いという立地は時の武将から重要視され、その歴史の中で多くの城や砦が築かれた。豊臣秀吉築城の長浜城はその最たる例だ。城下には楽市楽座がおかれ、日本海と畿内の産物が絶え間なく行き交ったという。ゆえに長浜には今なお江戸から明治時代の建築が数多く残り、昔ながらの景観を生かしたまちづくりによる観光が市の収益を担っている。
「お待たせしました」
築100年の白壁の古民家を改造した落ち着いた内装のカフェ。地元の有名菓子店が運営するここは和洋絶品の甘味とお茶が楽しめるとあって、平日にも関わらず席は埋まっていた。
そんなお洒落な空間にのしのしと割り込んだ俺を待っていたのは、紅茶カップ片手に文庫本を開いていた菫坂先生だった。
「いえいえ、お久しぶりです」
にこりと微笑んで眼鏡をなおす先生の顔は、理知的でありながら艶っぽくもあった。俺は急いで向かいの席に座る。
「街並みがきれいで良い所ですね。タイムスリップしたみたいで歩くだけでわくわくします」
「ええ、存分に楽しんでください。と言っても私もまだここら辺来たこと無いんですけどね」
挨拶もほどほどに、俺たちは仕事の話に移った。さすがは先生、既に2巻どころか5巻までの構想を固めており、そこにたどり着くまでの伏線として舞台のシチュエーションや登場人物の外見についても重要なファクターとして活かしたいという。
やがて注文していたモンブランとコーヒーが届いたが、すっかり話し合いに打ち込んでいた俺はケーキには手を付けずコーヒー片手に今後のプロットを確認していた。
「そこで夏の昼間、主人公が神社で従妹に告白されるわけです。印象的なシーンにしたいので、このカットを描いていただきたいのですが」
「思いもよらない衝撃の展開ですね。1ページ丸々使った大きな挿絵が映えそうです」
俺は頭の中のキャンバスにもくもくとイメージを浮かべる。主人公の心情を表すには従妹との対比、そして背景の描き込みが大切になりそうだ。
「そして最後に従妹を突き跳ねるシーンがあるのですが……場所をどこにしようか悩んでいるんです」
ずっと止め処なく話していた菫坂先生が、ため息交じりに紅茶をすする。俺も注文した品が到着していたことをようやく思い出し、すっかりぬるくなってしまったコーヒーに口をつけた。
「夏祭りみたいなイベントの途中ってのが一番インパクトあるとは思うのですが……ただの花火大会だと王道過ぎて取ってつけた感もありますしね」
そう言うと先生は苦笑いを浮かべながらカップを置いた。アイデアの泉のような彼女でも、考えに詰まるときはあるようだ。
「夏祭り、かあ……」
俺もカップを置いて腕を組む。うーむ、どこか先生の紡ぎ出すストーリーに合致したスポットはないものか。
……いや、夏祭りという単語、ここ最近何度も何度も使っている。それもそのはず、つい昨日自分で取材と言って調べたばかりじゃないか。
「そういえばうちの近所に地域住民でつくる夏祭りがあります。中高生の女の子が、余呉湖に降り立った天女をモチーフにした舞を披露するのですが」
「なにそれ、面白そう!」
菫坂先生が食いついた。好奇心に満ちた彼女の瞳は、まだ22歳の若い女性らしく眼鏡越しに爛々と輝いていた。
「小さな規模の祭りですが、湖岸で開かれるので雰囲気は出ると思います。良かったらご案内しますよ」
「はい、是非ともお願いします!」
こんなきらきら輝く先生の頼みを断るという選択肢がどこにあろうか。俺は「じゃあ早速行ってみましょうか」とモンブランを急いでかき込み、コーヒーで胃に流し込んだ。繊細で美味しいお菓子なのに、ちょっともったいない食べ方だったかな?
そして先生と同時に席を立って振り返ったその時、俺は目に飛び込んだものにぎょっととび上がってしまった。
レジに隣接して設けられた、色とりどりのケーキや和菓子の並ぶショウケース。その前に立ち尽くし、こちらをじっと見つめているセーラー服の少女。
そう、家にいるはずの天花ちゃんだった。
「すみません、ちょっとトイレ行ってきます」
俺は急いでトイレに駆け込む。そして男性用トイレのドアを閉めて振り返ると、洗面台に腰かけた天花ちゃんが相も変わらず胸の内側までえぐってくるような視線を飛ばしていた。
「おいおい、何でついてきたんだよ!?」
こちらの質問に天花ちゃんはぷいっとそっぽを向く。メモを持ってきていないので筆談はできない、というかあってもやってくれそうにない。
今日は仕事の打ち合わせで外出する、と言って家に残してきた。車の中にも彼女はいなかったし、これまで気配を感じることも無かったけど……まさかここまでついてきていたなんて。
まあでも確かに、久々に先生と会えるとあって俺も浮かれた気分を隠し切れなかったのかもしれない。声も弾んでいただろうし、いつもと違う様子に不審に思われてしまったのだろう。しかも仕事とはいえ若い女性とカフェにいるなんて、誤解されても仕方ない。
しかしここで取り乱すのは大人げないし、第一俺と先生は仕事仲間であって邪推されるような関係ではない。天花ちゃんの機嫌を損ねない程度に堂々としていればいいんだ。
「あー……お菓子買ってあげるから、変なことするなよ」
ぴくりと天花ちゃんの瞼が動く。しかしただそれだけ、彼女の顔はずっと俺とは別の方向に向けられていた。
カフェを出た俺と菫坂先生は、しばし江戸・明治期の街並みを連れ立って歩いていた。俺はここまでマイカーで来たのだが、昔からの城下町である長浜は道も狭く、駐車場も少ない。少し離れた長浜城併設の公園駐車場まで、徒歩で行く必要がある。
趣きある和風建築並ぶアーケード街で、何十、何百という旅行客とすれ違う。彼らの目には今の俺たちがどう映るか、その答えは数歩後ろからついてきている天花ちゃんの怪訝な顔つきを見れば一目瞭然だろう。……あ、俺以外には見えていないんか。
「あ、ちょっとここ立ち寄ってもいいですか?」
突然、菫坂先生が立ち止まる。そこは昔ながらのきんつば屋さんだ。タバコ屋のように道にカウンターだけが開かれ、おばちゃんがカウンター越しにできたてのきんつばをバラ単位で売っている。
「ここの芋きんつばが最高なんですよ。昨日も食べたんですけど、もう毎日食べたい気分です」
バッグから財布を取り出した先生は店頭のおばちゃんに一直線に歩み寄った。
「すっかりリピーターですね」
茶化すように言いながら、俺はふと後ろに目を向ける。相変わらず天花ちゃんがじっとこちらを真っ直ぐ見ていたが、その視線は俺と店の看板、両方を交互に何度も何度も往復していた。
「じゃあせっかくだし俺もひとつ……いや、みっつ」
本当、甘い物好きだな。先生に続き、俺もショルダーバッグから財布を取り出した。
「そんなに?」
「ええ、家帰ってからも食べてみようかな、なんて」
早速きんつばを頬張りながら屋台から戻ってきた先生とすれ違う。見た目も気にせずリスみたいになっている先生の顔に、俺は思わず吹き出してしまったので慌てて誤魔化した。