第五章その2 大切な電話は大概よりによってというタイミングでかかってくる
「これだけか……」
何か手掛かりがあるかも、と期待していた俺はがっくりと頭を垂れる。
開かずの間の中は当然ながら埃っぽく、おまけに電灯も壊れているのか灯りが点かなかった。俺はマスクと懐中電灯を持って踏み込んだが、よくまあ里美ちゃんはこんなところに籠城できたものだ。
そして懐中電灯に照らされたのは、すっかり古びた勉強机と本棚。ここはベッドさえ置いていない味気のない板の間だった。
壁際に並ぶふたつの本棚にはびっしりと本が整然と納められていた。ヘルマン・ヘッセやサンテグジュペリといった外国文学、太宰治や宮沢賢治ら日本文学、さらには源氏物語や古典文学の現代語訳まで幅広い物語が並んでいる。お、フランソワーズ・サガンまで置いてあるぞ。彼女が『悲しみよこんにちは』を出版したのは1954年だったか。今となってはフランスの誇る女文豪も、天花ちゃんが生きていた頃は新進気鋭の女流作家だったと思うと時の隔たりを感じる。
ここが天花ちゃんの私室だとすれば、これらはいずれも彼女の愛読書だろう。本が高価な時代にここまで買いそろえるなんて、筋金入りの文学少女だったようだ。
適当に一冊、本を手に取ってパラパラと開いてみると、古い本独特の甘いにおいが鼻を突く。出版された年は昭和36年、西暦1961年だ。
「本読むの、好きなの?」
俺は隣で『怒りの葡萄』をめくっていた天花ちゃんに声をかける。彼女は本を棚に戻すと、さらさらとメモで答えた。
(本の内容はよく覚えてる。『星の王子さま』大好き)
文面を見せる少女の顔は、いつもより何割増しかで嬉しそうに見えた。そう言えばこの子は部屋を飛び出した時から、俺の漫画を読みあさっていた。筋金入りの本の虫なのだろう。
それにしても『星の王子さま』か、俺も昔何回も読んだよ、きっかけは表紙のイラストに惹かれたからだけど。個人的にあの本に影響を受けた作家やイラストレーターはかなりの数いると思っている。
しかしいくら本棚や机の引き出しを探してもアルバムや卒業証書は見つからず、通っていた学校、正確な年代を特定できるものは一向に得られなかった。天花ちゃんの過去についてなにか分かると思ったのに……そう簡単にはいかないのが現実か。
引き出しをゆっくりと閉じると同時に、部屋の外からピリリリと大きな電子音が鳴り響いた。
茶の間に置きっぱなしにしていた俺のスマートフォンだ。しかもこの音、仕事関係の相手からだ。
俺は廊下を急ぎ足で抜け、茶の間の机の上に放り投げられていたスマートフォンを拾い上げる。なんと、相手は菫坂先生だった。
「あ、菫坂先生。これはどうも」
ちょっと走っただけなのにもう息が切れているのを隠しながら、俺は電話に出る。
「突然すみません」
声の主は本当に菫坂先生のようだ。パソコン画面を通しては何度も話し合っているのに、電話口で聞こえる声は新鮮で俺は声のトーンを高くして「いえいえ」と答えた。
「実は先生の話を聞いて余呉のことを調べていたら、景色がきれいで環境も良さそうで、興味持ったんですよ」
「へえ、それは嬉しいです」
「で、ですね」
勿体ぶるように少し間を置く。俺も「うん?」と耳を余計に押し当てる。
「今、滋賀まで来てるんですよ」
「へ!?」
突然のことに、俺は声を裏返らせてしまった。まさかと思ってちらりとガラス戸の外に目を向けるが、当然そこには伸びた庭の草があるだけだ。
「はい、今長浜駅出たところです。先生の話聞いて調べてみたら、今考えているストーリーの続きの舞台にぴったりだったので。題材になりそうなものないかなって取材に来たんですよ」
1巻はまだ発売すらされていないのに、彼女は既に2巻3巻の構想を練っているようだ。クリエイターがネタ集めで旅行することは珍しいことではないが、よりにもよってここだなんて。東京から長浜までは新幹線と在来線を使って3時間くらいだが、全国的に知られた名所は少ないので狙いすまさないと来ることはないだろう。
ちなみに長浜というのはここら辺で一番大きな街で、ここ余呉地区も長浜市に吸収合併されている。琵琶湖に面した長浜城は豊臣秀吉が築城したと言われている。
市役所などの官公庁が集まり商業施設もそろっているので、余呉地区の人々は何かと長浜まで出ることが多い。とはいえ俺もまだそんなに詳しくなく、市役所で転入手続きをした時しか行ったことがないのだが。
「今日は駅近くのホテルに泊まって黒壁スクエアを見て回ります。何日間か滞在しますので、良かったら大八木先生お会いしませんか?」
菫坂先生が彼女と直接顔を合わせたのは出版社で打ち合わせをした1回だけだ。離れた場所で同じ仕事に携わっている相手と直接出会えるとなると、否が応でもテンションが上がる。
「ええ是非とも」
これは今後のストーリーや登場キャラのことを話し合う絶好の機会だ。挿絵の確認もしたいしと、俺は迷う暇なく即答した。
「では仕事のスケジュール調整しますので、また後でかけ直しますね」
「はい、ではお待ちしてます」
誰もいないのに頭を下げながら、俺は電話を切った。ふと見ると、廊下で天花ちゃんがこちらを見ながら立ち尽くしている。
心の内のルンルン気分が漏れ出していたのだろう、俺に向けられた彼女の眼は今までない以上に呆れたようだった。
なんだかものすごく気まずい。俺は苦笑いしながら「ごめんね、天花ちゃんのこと調べるの、もうちょっと時間かかりそうだ」と電話をポケットに収めた。